子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

作品3. すもうに関心が出てきた頃

すもうに関心が出てきた頃

 六月二十二日(金)
 若乃花や舞の海などの人気力士が引退して、大相撲も東京場所は満員御礼が
かかりずらくなった。僕が、相撲に関心を持つようになったのは、栃若時代の
少し前のテレビが少しづつお茶の間に、普及してきた頃のことである。それま
では、ラジオで相撲中継を聞いていた。前に書いた、力道山が外人レスラーを、
空手チョップで倒していた頃の少し後になる。その頃、活躍していた力士は、
東富士・千代の山・杤錦・鏡里・吉葉山らがいて、東富士が引退をして四横綱時代の話しである。松登・朝潮・信夫山・大内山・出羽錦・若乃花・北の洋・安念山・若羽黒・成山・鳴門海などという名前がすぐに浮かんで来る。大鵬や柏戸などが出てくるずっと前の話しである。最初は、ラジオに耳を傾けながら、熱心に聞いた物である。その頃いた行司で印象に残っている人でひげの伊之助と言う方の事は、良く覚えている。この頃は,今みたく定年制がまだない頃で、結構な年齢だったが、なかなかの貫禄であった。この行司さんが、栃錦対北の洋戦で、土俵際の際(きわ)どい勝敗を、北の洋の勝ちとした。しかし、物入りがつき行司差し違いで、横綱栃錦の勝ちとなった。今見たく、ビデオがある時代ではないので、検査役と行司の眼だけがたよりの時代である。これに納得せず、長い事土俵の上で話し合いをしていたのを良く覚えている。僕は、行司の方が正しいと見ていたが、結局差し違いで伊之助は謹慎処分(きんしんしょぶん)になって、しばらく休場してしまうのであった。 この時の、理事長は、69連勝の双葉山の時津風であった。双葉山は1900年(明治33年)生れで、もう亡くなったが、いま生きていれば百一才と言うことになる。なぜ覚えているかと言うと、祖母と同じ年だったのである。連勝記録はいまだに破られていない。その後、出てきた横綱で強いと思われるのは、大鵬・北の湖・千代の富士位であろう。
 あの頃、家に帰ってくると、近くの空き地に行き、良く相撲を近所の友達ととった。今見たく、アスハルトにおおわれていなかったので、土俵もすぐ作り、転んでも痛みはそれほど強くはなかった。雨が降ると、屋根つきの遊び場があり、そこに子供達は、集まってきて相撲大会をした。あの時、一緒に遊んだ子供達の集団は、上は中学生から下は僕ら小学一年生までであった。遊びを、組織してくれるのはガキ大将である子が、中心になって面倒を見てくれた。あの時の楽しさは、今でもよく覚えているし、僕が一番輝いていた時かもしれない。

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