子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

作品13.卒業文集の作品例

作品13.卒業文集の作品例

三年、六年の担任の坂宮先生 六年 男子       

初めての坂宮先生

 僕は一年生の時に中国から日本に来ました。二年生のころ、日本語はいまいちでしたが、みんなとしゃべることはできるようになっていました。三年生の始業式で担任の先生が知らされる。 僕はドキドキしていました。
(誰かな??)
と、思っていました。山神校長先生が
「一年生・・二年生・・。」
そして三年生の先生の名前が呼ばれました。
「三年生、坂宮先生。」
と。僕達は
(え、だれ。だれ。)
と、思いました。その先生は、その年に新しく見えた先生だったから、みんなは知りませんでした。始業式のあと、坂宮先生と僕たちで集合写真を撮りました。ちょっと太っていて、メガネをかけているのが第一印象でした。僕は不安でした。

三年生での大げんか

 僕は坂宮先生にもなじみ、日本語も上達しました。その内に、女の子にいじわるをするようになりました。ある日のことです。野本さんが黒板を消していました。僕は野本さんをおちょくっていました。野本さんはそうとう怒っていて、僕に黒板消しを投げてきました。そしたら、たまたま僕の目に入りました。あまりにも痛かったので、僕は泣きました。僕は目に黒板消しを投げられたことが頭に来て、
「いってぇなぁ。」
と言って殴りかかりました。そしたら野本さんも反撃してきました。その側にいた村川さんが、坂宮先生を呼びにいき、坂宮先生が来ました..
「大場、やめなさい!」
と怒鳴りつけました。僕は興奮状態だったので、
「うぅうぅ。」
と泣き、手を止めませんでした。坂宮先生が僕を止めようとして、僕をつかみました。でも、僕は抵抗しました。
「落ち着け。」
と坂宮先生が言っても、もちろん止まりませんでした。先生が
「大場ちょっと来なさい。」
と言って、教室から出ました。、坂宮先生とじっと話をしました。そうして、
「ごめんなさい。」と野本さんに謝りました。野本さんも、
「黒板消し投げてごめんなさい。」
と、謝ってくれました。二度とこういうことをしないことを、坂宮先生と約束させられました。やがて一年間は終わって四年になりました。坂宮先生は六年の担任になりました。僕は寂しかったです。四年生は黒木先生、五年生は、山崎先生でした。

六年生でまた坂宮先生が担任

 まさか六年生最後で、また坂宮先生が担任になるとは思わなかったです。始業式の担任発表で「六年生、坂宮先生」と言われ僕は嬉しかったです。六年生では、新しい科目、作文が入りました。それは榎本先生の担当でした。毎日のように作文を書かされました。正直言ってつらいです。でも楽しいこともいっぱいありました。野外体験で新潟の魚沼にいきました。肝試しでは、ついつい泣いてしまいました。学芸会の「夢からさめた夢」の夢の配達人では、一番初めに会場後ろからソロで僕は歌いました。それは坂宮先生からの推薦でした。僕たちのために、坂宮先生の昔の教え子の柳生さんが、来てくれました。劇団四季で仕事をしていたそうです。いろいろなアドバイスをもらいました。ほかにも応援団長やライオンキングなど思い出がたくさんあります。そしてもうすぐ卒業します。

さよなら坂宮先生

 僕はこの堤小学校学校で色んなことを学びました。坂宮先生はせっかちな所もあり、優しい所もあり、こわいところもあって、僕にたくさんのことを教えてくれました。国語の時間でうっかり漢字を間違える坂宮先生。僕が悪い時でも、僕の言い分を聞いてくれた坂宮先生。でもまちがって僕を怒ったこともありました。先生は「ごめん」と笑ってごまかしましたね。僕にとっていろんな意味で第二の母でした。中学生になっても坂宮先生とそしてこのクラスのみんなを忘れません。ありがとう坂宮みき子先生。

養護施設に、行くことになったこと 六年 男子   

           
 僕の母は、体が丈夫ではありません。僕が二年生の時、母は腰を悪くしました。病院に行ってレントゲンをとりました。医者からは、一ヶ月の入院だと言われてしまいました。僕の家は三人家族でした。姉も五年生だったので、一緒に養護施設に行くことになりました。母は、とても悲しみました。
養護施設に入った日
 十月二十一日に、養護施設に行くことになりました。僕は、二年生だったから、預かってもらう事の意味が分かりませんでした。預かってもらうところの建物の前に行ったとき、僕は、
(泊まるんだなあ。)
と思い、思わず泣いてしまいました。母も目に涙を浮かべていました。でも、預かってくれる人が、
「お母さんが困っているよ。中に入ったら、いっぱい泣いていいんだからね。」と言いました。僕は心の中で、
(そうだなあ。)
と思っていました。だから、僕と姉は笑って、
「バイバイ。」
と言うと、母も、
「バイバイ。」
と、別れました。

養護施設の部屋

 部屋は、男女別々でした。だから、初めは僕一人で遊んでいました。姉は、女子の部屋に行きました。僕は、一人ぼっちだったけれど、みんなが遊びに誘ってくれました。みんなと言っても十人だけでした。トランプゲームをして遊びました。僕は、トランプが苦手だったので負けてしまいました。最後は、みんなが僕を勝たせてくれました。夜は五人で寝ました。一週間経つと運動会がありました。障害物レースがありました。僕は一位になって、みんなに、
「一位なんて、すごいね。」
と言われました。その日をさかいに、僕はトランプなどのゲームによく誘われるようになりました。でも、僕の心は悲しくもなっていきました。施設を離れる日が近づいたからでした。最後の日の朝、僕は友達から、
「トランプしない?」
と、誘われました。
「するよ。」
と言って、僕はみんなと遊んでいました。窓の外を見ると、僕の母が来ていました。母の顔を見たとき、僕はうれしくなりました。養護施設の人に、
「もう来たから、帰る用意してね。」
と言われました。一階に下りて、母に会いました。養護施設の人に、
「ありがとうございました。」
と、お礼を言いました。それから、自分の家に帰りました。
初めてお世話になった家
 四年生になり、母の腰がまた悪くなりました。今度は、施設ではなく普通の家に預かってもらうことになりました。その家の人は、社長さんでした。家族は、社長さんとその奥さんの二人だけでした。やはり僕と姉の二人で、そこの家に預かってもらうことになりました。土曜日や日曜日になると、社長さんが運転をして、ドライブを楽しみました。アスレチックや遊園地などに連れていってもらいました。行けば必ず、食事をしておみやげなどを買ってくれました。
 僕は、社長さんの工場に行きました。そこで、車に積んである荷物を下ろしたり、運んだりしました。一回に二時間くらい働きました。終わると、近くのデパートに連れて行ってくれました。そこで、ジュースやアイスを買ってくれました。 また、誕生日には、ケーキと飲み物を用意してくれました。誕生日プレゼントも買ってくれました。プレゼントは、熊の人形でした。その熊は、洋服を着ていて、サラリーマンみたいなかっこうをしていました。今でも、大事に机の上に飾ってあります。その人形を見ると、その人たちと過ごした一ヶ月のことを思い出します。
 この一ヶ月間は、社長さんの家から堤小学校まで、バスで通っていました。二回バスに乗り換えて登校しました。一時間くらいかかりました。とても親切にされたので、別れるときは悲しかったです。
 母が、その家に迎えに来てくれました。社長さんの奥さんが、僕たち三人を、「車で家まで送ってあげたら。」
と言ってくれました。奥さんも一緒に、車に乗って送ってくれました。家に着いた時、僕は、泣きながらその人たちに、
「一ヶ月、預かってくれて、ありがとうございました。」
と、お礼の言葉を姉と二人で言いました。奥さんは姉を抱きしめ、社長さんは僕を抱きしめてくれました。社長さんたちも泣きながらお別れしました。
 僕は、この六年間に多くの人に親切にしてもらい、お世話になりました。大人になったら、その人たちに、お礼のあいさつをしに行きたいです。そして、母親にも親孝行をしたいと思います。
 もうじき卒業していきます。感謝の心を忘れないようにして暮らしていきます。

外国から来た友達   六年 男子

           

中国から来たおちゃめな友達

 一年生の時、初めて中国から転入生が来ました。一人は女の子で、もう一人は男の子でした。女の子の名前は、李 春霞という名前でした。男の子の名前は、李 孝平という名前でした。私は、女の子の春霞ちゃんと仲良しになりました。最初は、日本語が通じなくて、あまりよく話せませんでした。だから、あまり一緒に遊びませんでした。春霞ちゃんも、だんだん日本語が話せるようになってきました。二年生の後半から、三年生くらいには、もうだいぶ日本語も話せるようになりました。日本語が話せるようになると、みんなに溶けこんでいって、私たちとも、よく遊ぶようになりました。春霞ちゃんとは、一度もケンカをしたことがないくらい、仲良くなりました。それは、なんだか、春霞ちゃんが妹みたいに思えるせいかも知れません。「らりるれろ」を、「なにぬねの」と言ってしまうときとか、たまに言葉がでてこなくなったりするときがあります。言葉を間違ったりする時、笑ってごまかしたりするところが、なんだか、妹に見えてしまう気がします。
 ついこの間の放課後、春霞ちゃんと二人で一緒に、宿題の日記の内容をどうするか、話していました。すると、突然、春霞ちゃんが、
「うちね、二年生の時、ふゆみがね、急に頭なでてきたから、うちがね、『なんでモコモコするの?』って聞いたら、ふゆみが、『春霞、日本語しゃべれるようになったじゃん!すごいね!』って言ったんだよ。それでね、あやかたちが周りで拍手してくれたんだよ。」と少しうれしそうに、笑いながら言いました。私は、そんな昔のことを覚えているなんて、びっくりしました。なぜかというと、私は、そんなことは、全然覚えていなかったからです。そのあとに、すぐ春霞ちゃんがこう言いました。
「まぁ他のことは、覚えてないんだけどね。」
私は、こう続けました。
「でも、そんなことも覚えてたの?すごいね!」
私はその時、こう思いました。
(きっと春霞、すごくうれしかったんだな。だからそんなに覚えてるんだな。)
春霞ちゃんと会えたのも、日本語教室のある堤小学校に入ったからです。堤小学校に入学してよかったです。

いろんな国から来たいろんな友達

 春霞ちゃんのほかにも、いろいろな国から友達が来ています。中国から来たのは、李 孝平君、王 春霞ちゃん、グーチーチェンちゃん、ジョーワン君、ルオジェンハン君、大原赤依ちゃん、山田太郎君です。それから一月に李さんも来ました。フィリピンから来たのは、バンティン ダヤナラちゃんです。タイから来たのは、杉原みどりちゃんです。中国から来た人の方が圧倒的に多いですが、このように、三カ国から来ています。みんな日本語がしゃべれない時は、コミュニケーションがとりずらく悪口を言われたり、いじめられたりもしましたが、日本語がしゃべれるようになると、すぐに、溶けこんでいっています。

仲の良い六年一組

 六年一組は、良いところがたくさんあります。いいところの一つめは、時にはいじめるものの、すぐに仲良くなれるところです。もう一つは、けんかをしても、すぐに仲直りできるところです。たまにけんかもするけど、六年一組は仲の良いクラスです。いろんな国から来たいろんな友達。私はこんな友達と楽しい日々を送っています。

アトピー性皮膚炎の辛さ  六年 男子 

                 

幼い時のアトピー

 ぼくがアトピーになった理由は、今だに分からない。しかし、一才か生後何ヵ月かで、自分の体をかいていたらしい。そのせいで、体が血で真っ赤になっていた。それに、うみが全身に出ていた。母は、ぼくのアトピーのせいで仕事を休んだ。休み続けたせいか、だんだん給料が下がっていった。後に首となる結果だった。しかも、ぼくには特殊な癖があった。なんと、かゆいせいか、点滴の注射を抜いてしまうのだ。それで、母は看護婦を呼んできて、点滴を付け直してもらった。それを夜、何度も何度もくり返した。そのせいで、母と看護婦は寝ずの番となってしまったのだ。その事は、よく覚えていて、なぜか頭の中にしまわれている。

病院の先生

 ぼくのアトピーは時には悪くなり、時には良くなっていた。ぼくは色々な病院に行った。中で一番心に残っているのは、同愛記念病院だ。ぼくは小さいころから行っているため、少しばかり友達になった人もいた。担当している先生はいつも同じだった。しかし、いつからか違う病院に転院してしまった。それからか、あまり良い先生に出会わなくなっていた。

大好物が食べられない

 たしか三・四年生の時の事だった。母はどこからか分からないが、ステロイドを使わない病院を見つけてきた。ぼくと母は、次の日曜日に行くことにした。行ってみると病院らしきものは見当たらなかった。だから、手当たり次第に進んでいくと、なんとか見つかった。そこはまさに小屋というほどの大きさだった。患者の人数はだいたい四・五人で、給料はもうかるのか気になった。ぼくの番がきた。とことこと歩いて、先生の目の前に座った。その先生の名前はマユミ先生といって、おじいさん先生だった。思っていたよりもやさしかった。診察が終わって薬を出してもらった。その薬の中には、ぼくのアトピーがひどいせいか、ステロイドがあった。
(ぼくの皮膚は、それほどまでにひどいのか。)
とがっかりした。マユミ先生は他に、ある一言を残してくれた。それは、
「食品はカタカナ文字をひかえてください。」
ということだった。カタカナ食品とは、漢字で書けない食べ物だ。例えばチョコレートやクッキーなどだ。ぼくは、それが出来なかった。なぜなら、ぼくの好物にカタカナ文字がいっぱいあったからだ。なのでマュミ先生の忠告は、無駄に終わってしまった、ということになる。その他の病院にも行ったが、たいした効き目は無かった。

アトピーはトラウマ

 このアトピーは、今だにぼくの体に付いている。それにこのアトピーは、悪口の素材となっている。一番言われている悪口の中で、ベストⅡがぼくの体に関する事だ。それは「ボツボツ」だ。ひどい言葉なので、無視しようとしているが、気になってしまう。それと、ぼくの生活にはずかしい事がある。それは、睡眠の時だ。クラスでただ一人知っている人がいるが、口止めはしている。それは言う決心がつかない。ぼくにとって、アトピーとはトラウマとも言える。

これから・・・

 これからアトピーを治そうと思うと、大人になるまで治らないかもしれない。アトピーを治すには、家での食品が大切だという。これから治しにはいるのは、至難の技だ。ぼくはこの体であることを、認めなければいけない。今はつらい。しかし、いつかアトピーと、おさらばして、楽な生活になる。
この十二年間、母と二人で、苦労しながら、歩んできた。これからも、アトピーにも負けずに、元気に生きていきたい。

あこがれの将来と自分の病気 六年 女 子   [#a2ee5706]

             

糖尿病と出会う

 私は四才のときに、「インスリン依存性糖尿病」が発症しました。インスリン依存性糖尿病(IDDM)は、子どもに発症が多く、何らかの原因で、インスリンが作り出せなくなったためにおこります。インスリン依存性糖尿病は、子供一万人に約一人います。一九九四年(その時は一才)は、インスリン依存性糖尿病患者が二千六百十二人います。私は風邪をひいて、病院で血液検査をしたら、四日後にでた結果で、インスリン依存性糖尿病だということが判明しました。のどがかわき、やせて、とにかく大変でした。母の話によると、近くの小児科に何度か相談に行っても、ストレスとか、弟ができたため、お母さんに対して注目して欲しいという気持ちから、そういう症状が出ることがあると言われ続けていました。しかし、どう考えても普通ではないと感じ、他の病院で検査を依頼しました。四日後、病院から連絡をもらったとき、まさかと思っていた病名を耳にして、一瞬信じることができませんでした。何かの間違いであってほしいと思いました。専門の病院を紹介して頂き、即入院することになった時、担当医の先生からは、子供一万人に約一人という発症率と聞きました。どうしてその中に入ってしまったのだろうと悩んだ日が続き、自分のすい臓と、取りかえられるものなら、取りかえたいと思いました。九月四日から順天堂大学病院に入院しました。この頃は、毎日二回インスリン注射を打って、コントロールしていました。血糖値は七回はかっていて、今では考えられないくらい多い数でした。点滴も一日に一回打っていました。痛くてたまりませんでした。採血では注射器の針が太かったため、苦い思いをしました。そんな中、心を和ませてくれる時もありました。私は大部屋で入院生活をしていたので、隣の子といつも遊んで、たくさん笑って、楽しんでいました。ほかに、売店に行ったり、散歩に行ったりしていました。九月二十日に退院しました。やっと家に帰ることができて、とてもウキウキしていました。四才、六才、八才のときに血糖値が下がりすぎて(低血糖)けいれんを起こし、救急車で運ばれました。今は、自分でコントロールできるのでこの通り元気です。

最近思うこと

 最近注射を打ったり、血糖値をはかったりすると思うことがあります。針を使わないで、インスリンを取る方法がないのかなぁと思うのです。前に母から、
「インスリンを注射で取るんじゃなくて、ちがう方法で 取る研究してるんだって。でも、実験台になる人がい ないから困っているらしいよ。」
と聞いて、私は少し興味を持ちました。将来、医師になりたいと思ったのも、このときでした。医師になって、インスリンを注射以外で取る方法を研究するチームに入るのが、私の夢です。医学のことをたくさん勉強して、多くの患者さんを助けたいです。

いつまでも病気と一緒に

 私は、八年間、インスリン依存性糖尿病と一緒に生きていきました。ときには、低血糖になったり、救急車で運ばれたり、大変だったこともありました。でもこの病気のおかげで、自分の夢はどんなものがいいか見つけることができました。これから先、どんな病気になるのかわかりません。しかし、それを乗りこえて、自分の夢に向かって進みたいです。

つらい母の病気 六年 女 子

          

母の病気

 私の母は今つらい病気と戦っています。私が四年生の後半ごろに、発病しました。病院の先生の話の話では、「直らない」と言われました。私も聞いたときはショックでした。でも、一番ショックなのは、やっぱり母でした。今の病気になる前も、一度病気になりました。今の病気もめずらしい病気なのですが、前の病気も、世界で五〇人位しかいない、難病でした。前の病気がバネになって、今の病気になりました。今年の三月ごろ、東京大学病院で手術をしました。母は、
「手術しない方が良かった」
と言っています。確かに手術しない時と、した後では、手術
をしないときの方が、辛いようには見えませんでした。今は、立つのも辛くて、人の支えがないと立てません。外に出ることは、あまりありません。どうしてもというときは車いすです。そんな、姿を見るのはつらいです。父や兄もわたしと同じ気持ちです。父母の共通の友達に村越さんという方がいます。その方は、母に会うとやさしく接してくれます。私はその人が好きです。その他に、金野さんや、みつよさんとゆう方も親切にしてくれます。みつよさんという方は、ハワイにすんでいます。その友達は、母が遠くへ行けないので、車で連れていってくれたり、わざわざ外国から心配して、来てくれたり、母に車いすをプレゼントしてくれたりします。これからも仲良くしていきたいです。

母のつらい毎日

 私の母の一日は、いつもいつもつらい一日です。母は、いつも家の中で靴をはいています。でも、しょうがないのです。外に出る時は、靴をはきます。それはだれでもできます。でも母は、靴をぬぐのも履くのも、つらいのです。だから玄関に、いらないタオルをひいて、外から、帰ってきたら、そこで足ぶみをして中に入ります。これがいつもの生活です。錦糸町や両国へ行くときも、車いすで行きます。車いすで行くと、イヤな目で見る人もいます。そうゆう目で見られるのは、イヤです。でも、母のためです。そんな事を気にしていたら、外に母と出かけられません。昔は、よく遊園地や渋谷、遠い所に二人で行きました。でも母は、行ける可能性は二〇パーセントです。今より良くなったら、遠いところに行きたいです。

母の買い物

 買い物は、そんな遠くに行きません。おばあちゃんが来た時に、買ってきてもらいます。スーパーにも行けない上、前のコンビニに、行くのが精一杯です。だから私もついて行きます。
「紅葉が来てくれると助かるよ。」
母は、いつもそう言ってくれます。すぐそばだけど、車いすで行くこともあります。三丁目のサリーに、私が学校へ、行っている間に一人で行ったことがありました。その時は、とてもうれしかったです。

母にとって不便な生活

 まず、私の家には、手すりがありません。そこでどこへ行くにも大変です。
 それと反対に、母は一番安心した事は、マンションだった事です。一けん家は、ほとんど階段があります。私の家はマンションなので、階段の代わりにエレベーターがあります。よく一けん家の家に行って、実際階段に登ります。その時、苦しそうに登っているので、母と一緒に、居る時は、なるべくエレベーターや、エスカレーターを使うようにしています。学校行事は、来ることがありません。私の家からけっこう遠いし、階段があるので来られないのです。

病気が治ることを祈って

 わたしは、十二年間生きてきました。父母の愛情に包まれながら、今まで元気に育てられてきました。母が病気になっても、今まで育てられたことに感謝しながら、母のめんどうは、ずっと見ていきます。母の病気が少しでも良くなることを祈りながら、これからも母に、親孝行していきたいです。

養護施設にいた日     六年 男子

            
 ぼくは、三才から四才まで養護施設(ヨゼフホーム)に姉といっしょにいました。その時のぼくは、緊張していました。先生たちはやさしそうでした。でも、お母さんが心配で、泣きそうになりました。そこにはいろんな人がいました。
(仲良くなれるかな。)
と不安でした。先生たちが部屋を案内してくれました。一番最初に会った友達は、元気君でした。
 ぼくと元気くんは、外の砂場で遊んでいると、姉が来て一緒に砂遊びをしました。先生は、
「おやつだよ。」
と優しそうに言いました。ぼくは、手を洗っておやつにしました。おやつを食べていると、母のことが心配でした。
(お母さんだいじょうぶかな)
と心配でした。でも、母はお仕事で大変だと思いました。その夜ぼくは母のことでいっぱいでした。

母が来た日

 その日の朝、母から一本の電話があった。先生が受話器を取って話していました。先生が、
「もしもし。」
と言いました。母が、
「フユの母ですけど。」
と言いました。先生が、
「お母さんだよ。」
といいました。ぼくが、
「もしもし。」
と泣きそうな声でいいました。
母が、
「きょうあいに行くから。」
といいました。
ぼくが先生に、
「きょう会いにくるって。」
と喜んで言いました。先生にかわりました。先生が電話を切ってぼくにいいました。次の日に、母はぼくたちに会いに来てくれました。その日は、一泊留まってくれました。
 次の日に、ぼくと姉は、母といっしょに、今住んでいる家にもどりました。ぼくも、姉もとてもうれしそうにして、三人の生活にもどりました。今から、八年くらい前の、ぼくが四才くらいのころのことでした。

親子三人の暮らし

 ぼくが四才で、姉は六才になっていました。母は、そのころから、仕事をしていました。そのころから、母は、夜お仕事に出かけて行きました。母は、仕事で忙しくて、夕食の用意だけはしてくれました。冷蔵庫に食べるものは入れておいてくれました。母が出かけた後、僕と姉の二人で、夕食を食べました。施設にいるときは、母がいないので、大勢友達と一緒に食事でした。でも、たった二人で食べる夕飯だけど、僕たちにとっては、楽しい生活でした。母が帰ってくるのは、次の日の朝でした。でも、夜おそく帰って来るかもしれないと思って、二人で起きて待っていることもありました。でも帰ってくることは、ほとんどありませんでした。僕たちは、眠くなって、ふとんに入って眠ってしまいました。ある時などは、眠い目をこすりながら、夜中の二時、三時まで起きて待っていることもありました。次の日、学校へ行くこともなかったので、そんなおそくまで起きていることもできました。

姉のけやき小学校入学

 姉が、小学校入学して、今の家から通っても、家にぼく一人になってしまうので、また、ヨゼフホームにもどりました。ぼくは、ヨゼフホームに、一人でした。姉は、けやき小学校に、入学しました。姉が学校へ行っているときは、ぼくと先生で、遊んだり、勉強をしていました。だから、さびしい思いは、しませんでした。 そこでの暮らしは、三年生まで続きました。母は、月に一~回会いに来てくれました。来てくれたときは、すごくうれしかったです。しかし、来ても、だいたい、その日に帰ってしまいました。帰るときは、ぼくも姉もさびしくて泣いてしまいました。すると、母は、 「また、来るからね。」
といって、タクシーで帰ってしまいました。その時が、一番悲しいときでした。

ふたたび親子三人暮らし

 ぼくが、小学校三年生の終わりに、しせつの先生が、母と話し合って、親子三人で暮らすことになりました。その話を聞いた時は、うれしくて姉といっしょにだき合って喜び合いました。やがて、今住んでいるところに、ふたたびもどってきました。姉が六年生で、ぼくが四年生の時でした。

小さいころの思い出 

                   女 子
 中国から日本へ
 私達が産まれる前、母が一人で留学しました。母は日本の筑波大学に入り、そのまま日本に移住することにしました。そこで、同じく中国から来た親せきの方や、中国語が話せる大学の友達と仲良くなりました。母はまず兄の来往を産み、一年半後に私達を産みました。
   中国での生活
 母一人では、四人の小さい子供をいっぺんに育てることは難しく、何週間も眠れない日が続きました。そこで、中国の南京にいる祖父と祖母に、私達三人を二年間預けることにしました。
 中国での生活は毎日が楽しく、毎日の会話が中国語でした。中国から日本の江東区にいる母と来往に写真や手紙を送って、成長を伝えていました。そのことを祖父と祖母に聞いてみると、
「大変だったわよ。二人だったから良かったものの。夜、笑南が泣いて、泣きやんだと思ったら、笑西が泣きはじめてね。また泣きやんだと思えば、笑北が泣き始めてね・・・。」
としみじみと語っていました。
   中国から日本へ、保育園での生活
 三才の初めの頃、母から、
「もう、日本で育てられますよ。」
という一本の電話がかかってきました。私達は喜ぶどころか、がっかりしていました。
(ここでの生活も楽しいのに、なぜ、行ったこともない日本に行かなくてはいけないのか。)
と私は思いました。
 そのまま飛行機で、日本に行くことになりました。日本に着き、日本語の分からないまま、墨田区の水神保育園に通いました。保育園での生活は、日本語が分からなくて苦しいけど、楽しいものでした。母は朝(八時ごろ)に仕事へいくので、保育園の送りむかえは祖母と祖父がしてくれました。兄は隣の白ひげ保育園に入りましたが、人数の関係で、私達は水神保育園に入ったのです。
 日本語が分からなかったので、会話するのも苦労しました。それに、私達は三才でもろくに椅子に座ることができなかったので、給食の時間も大変でした。他の子に、
「それ、だめだよ。」
「間違ってるよ。」
と言われていました。でも、日本語がわからなかったので、
(この子たちは一体、何を話しているのだろう。)       と思い続けるばかりでした。保育園の先生に、
「こうやるのよ。」
といって、実際に手や足を動かしてもらわなくては分かりません出した。      
   小学校へ入学
 私の住んでいる都営アパートは普通、梅若小学校へ行きます。でも、私達は堤小学校に行きました。母が、
(この子たちは体が弱いから、緑が多い堤小学校の方がいいんじゃないかしら。)
と思ったからです。
 堤小学校への入学式は、とてもドキドキしました。不安な気持ちもありましたが、
(どんな事をするのかな。)
と第一に思いました。
   小学校での生活
 私たちは日本語教室へ通いました。算数の授業での数字(一、二、三・・・)は中国でも共通なので、なんとか理解はできました。文章題は全然、理解できませんでした。
 算数よりも国語の方が大変でした。「丸読み」(一文一文「。」で区切り、交代していく読み方)になると、少ししか読めませんでした。それでも日本語教室に通い続けたおかげか、二、三、四、五年の時は日本語ができるようになりました。
     日本語学級で学んだこと
 日本語学級では、色々な事を学びました。一つは、日本語の面白さです。日本語は発音が難しく、『しゃ、しゅ、しょ』の区別がつきません。それに、中国語と比べたら言いにくいので、なまりがとても大変でした。友達に
「言い方、おかしいね。」
と言われてばっかりでした。とても悔しく感じることもあり、苦しかったです。でも、うまくなっていくにつれ、日本語が面白く感じられるようになりました。
     六年生になって
 今、思えば、堤小学校での六年間は、とても早いものでした。六年間を通して、努力をする大切さや乗り越える素晴らしさを、学ぶことができました。友達も沢山できました。自分で言うのもおかしいですが、私はとても苦労しました。日本語も、平仮名もカタカナもわからないところから始め、このように日本語で文章が書けたのがとてもうれしいです。将来は国際関係の、通訳のような仕事をしたいです。中国語が話せるのを利用して、将来にも役立てたいです。
 改めて思い返してみると、昔はなぜあんなことができなかったのだろう、と言うことが沢山あります。ただ、素敵なことを色々学び、六年間過ごしてきました。私は日本に来て、堤小に入学してきて正解でした。この六年間の生活を忘れずに、卒業していきます。

私の眼

                  女 子 
未熟児として産まれて
 私は三つ子で、未熟児で産まれました。笑南が一番上で、私が二番目で笑北が三番目に産まれました。産まれたばかりの体重は、約千グラムでした。私は産まれたときに泣きませんでした。泣くと、体内に空気が入りますが、私は人工呼吸器を付けて、六ヶ月の間未熟児室にいました。四ヶ月目に、眼には必要ない小さな悪い血管が見つかりました。幼くて、まだ手術はできないので目の中にレーザーを打って、必要のない血管を殺していきます。私は合計、七百発目の中に打ちました。必要のない血管が大きく育ちすぎると、目の栄養がうばわれて視力が低下してしまいます。それが心配だったのか、病院側は予定数よりも何発か多くレーザーを目に打ちました。
    視力の低下
 三才の時、私は眼鏡をかけ始めました。そのころの視力は、左右とも0・1でした。私は近視でした。原因は、小さい頃レーザーを打ちすぎて目を痛めてしまったからだと言われました。もちろん、あの頃の私は、その意味もわかるはずがありませんでした。今思うと、
(その意味さえわかっていれば、よかったなあ。)
と思います。あの頃、もっとよく眼を大切にしていれば、今のように悪くはならなかったでしょう。その頃から半年に一度、産まれた大塚病院で定期健診を受けることになりました。
    一度目の手術
 四歳の時、私は一度目の手術をしました。目の手術で、目の筋肉と眼球をつなぎ合わせる手術でした。三週間前から、保育園を休んでいました。三週間の間、食事は低カロリーなものばかりでした。野菜が中心で鮭やサラダ、みそ汁などが多く出ました。さすがにその時は、
(まずいなあ。) 
と思いました。一日中、ほとんどが昼寝でした。ゲームもなければ、友達もいませんでした。外に出るときも、担当の先生の許可が必要で、一日中とてもつまらなかったです。手術の一日前、その日は朝食も昼食も夕食も、ましてやお菓子も食べてはいけませんでした。前日にお腹をこわしてしまっては、いけないからと言われました。ただ点滴を打って過ごすだけでした。遊ぶ力も出ませんでした。しかもその日は、手術前の健診があり、お腹のすいているときに病院で待たなければなりませんでした。待っていると看護士さんに、
「莉(りー)ちゃん、(幼い頃の名前)オレンジと苺どっちが好き。」
と聞かれました。私は少し迷ってから、
「イチゴ。」
と答えました。その時はまだ、「手術」とはどのようなものなのかは、知るはずもありませんでした。次の日、いきなりベットが動き出しました。手術室に入ると、周りに銀色の機械がズラリと並びました。私は、
(どうしてここに入るのだろう。)
と思いました。そうしたら、白衣を着た人が、
「これをつけて、大きく深呼吸してね。」
と言いました。防災に使うマスクのようなものをつけられました。大きく深呼吸をすると、ほんのりとイチゴミルクのような香りがしました。とてもいい香りだと思っているうちに、私は寝てしまいました。手術は無事終了しました。丁度その日は保育園の運動会がありました。
    二度目の手術
 一年生の頃に、二度目の手術がありました。その手術の前日は学校を休みました。麻酔も無く、眠りもしませんでした。ただ青い布をかぶせられて、鋏が目の前で糸を引いたりしまったりしているだけでした。とても怖かったです。
(二度とあんな思いはしたくない。)
と思っています。
    嫌な母の言葉
 五年生になると、ひんぱんに母に、
「眼を本に近づけない。」
と注意されるようになりました。ある日、母に
「目が悪くなったのは、自分のせいだからね。」
と言われました。私は
(私だって気をつけているのに、いやだな。)
と思いました。母は、
「眼が悪くなったら大変だよ。」
と言いたかったのでしょう。
    今の私の眼
 今、私の視力は眼鏡をかけたら左右とも、一・0です。私の眼は成長していくにつれ、視力が下がるそうです。(私が成長していくから、眼は悪くなるんだ。)と思い、とても怖いです。大きなボール目に当たる・・・と思うと、とても恐ろしくなります。これからも眼を大切にしていきたいです。できるだけ、自分の眼を自分で守っていきたいです。
 眼が悪くなるのは不安だけど、これからも眼の治療の技術に期待して、生きていきたいです。堤小学校には一年生からいました。友達もできて、いろいろな事を学びました。学んだことは、すべて私にとって必要のある物です。堤小での思い出は私の一生の宝物です。日本語教室があるという理由で、入学してきた堤小学校、この経験を忘れずに、卒業していきます。

六年生の友達 

        女 子
 始業式の日から、私は六年生になりました。担任が発表され、六年生の担任は五年と同じ斉藤先生でした。校長先生のお話が終わり、転入生が紹介されました。世田谷区から見えた、二年生の魚住天風勝くんと、魚住咲希愛さんでした。自己紹介をして、六年の列の一番後ろに並びました。
     気のあった二人のちがい
 五年生が終わる頃、小平愛美さんが転入してきました。同じ転入生の関係か、小平さん魚住さんはとても気が合うように見えました。この堤小に転入してきて、イヤなところ、よいところ,すべての話があったのでしょう。一方、魚住さんは音楽の時間に蹴られたり、からかわれたりしていました。でも、わたしは助けてあげられず、黙っていました。魚住さんは、二・三回、作文にそのことや、イヤなところを書いていたようです。わたしは、
(前の学校とは、ずいぶん違うのかな。)
と思いました。私にとって普通のことが、魚住さんにとってはおかしなことだったのです。
      少しずつ友達に・・・
 魚住さんと仲がよくなったのは、夏休みの前でした。自分なりに少し近づいたのは、代表委員の運動会の司会の時でした。そのときは、いつもおとなしい魚住さんが、あんなに大きな声を出してびっくりしました。休み時間に一緒に練習しながら、少しずつ仲良くなりました。
 夏休み開け、登校するとき、前に魚住さんが歩いていました。
(どうやって声をかけた方がいいのかな。)
と、わたしは迷いこんでしまって、考えこんでしまいました。すると、魚住さんはこっちに気がついたようにふり返って、
「大江さん、おはよう。」
と、あいさつしてくれました。「えみほ」ではなく、「大江さん」とい言っていたので、
(なまえで呼んでほしかったな、まだ覚えていないのかな。)
と思いましたが、そのときはとてもうれしかったです。それからわたしは魚住さんと前よりもっと多く話すようになって、友達になっていきました。
     うらやましい魚住家
 わたしたちは三つ子です。わたしは五年生が終わる頃から、
(人に「三つ子だ、めずらしい」ってみられていないかな。)
と、思うようになりました。それに対して、魚住さんは弟が三人。同じ四人でも、違いがあり、とてもうらやましく思いました。夏休みに、私と笑南は、学校で収穫した野菜を、魚住家に届けにいきました。インターホンを押したとたん、
「咲希愛ーっ」
というたかまさ君のさけび声が聞こえました。その後に、
「こらっ、たかまさっ、ちゃんと確かめてから言いなさい。」
という魚住さんのお母さんの声がしました。
(お母さん、苦労してるなー。)
と思いながらも、仲がいいなと、ちょっとうらやましかったです。わたしは三つ子として生まれたことを、少し後悔しました。
      おちゃめで笑顔な友達
 魚住さんは、少しおちゃめでした。図工の時間に農業のかかしを作ることになりました。私と魚住さんはペアで、一緒に作りました。私は、
(髪の毛は・・・茶色にしよう。)
と思っていたのに、魚住さんは、
「髪の毛は・・・青にしよう。」
と言いました。私は三秒固まってから「うそ?」と聞くと、首を横に振りました。「本気?」と聞くと「うん、本気」と答えました。私が固まっていると、魚住さんはくすくす笑って、その笑顔がとてもいたずらっぽく見えました。結局かみの毛は、茶色と青色の両方をぬりました。
いつでも、魚住さんはよく笑いました。だれに会ってもいつでも笑顔でした。一番の笑顔になったのは、授業中に羽賀さんが、斉藤先生と漫才をしているときです。わたしが、魚住さんも席の方をみると、魚住さんは周りも人まで幸せな気持ちにしてくれるような、やさしい笑顔で笑っていました。          
   少し気を使っていた友達
 魚住さんは転入してきたとき、いやなことをきっぱり断れなくて、みんなに少し気をつかっていました。私は時々、
(咲希愛ちゃん、みんなに少し気をつかっているのかな・・・)
と思うことがありました。
 その時から約半年、魚住さんは、ずいぶん変わりました。私が、
「音楽室、行こう。」
と言ったら、
「今日は、ちょっといやだ。」
ときちんと断れるようになりました。魚住さんは、前もよく笑いましたが、今は前よりも、もっと笑うようになりました。
   大切な友達                    
 六年生になってから、もうずいぶん経ちました。魚住咲希愛さんとは、本当の友達になっています。「私の名前は?。」と聞いたら、「あ、笑北」と必ず答えてくれるでしょう。六年生転入してきて仲良くなったのに、なぜか昔から親しかったような気がします。魚住さんは、私のことを友達だと思ってないのかもしれませんが、私にとって魚住咲希愛さんは大切な友達です。私を今まで支えてくれた家族、友達、先生方に「ありがとうございました。」と言いたいです。自然の中の小学校、堤小学校には、小学生六年間の思い出をたくさんもらいました。この大切な体験を心に残して卒業し、中学校生活で活かしていきたいです。

堤小との出会い

        女 子  
ついに来てしまった通知 [#z44f1aaf]
「えっ・・・当たった。」
 四年生の九月ごろに、家が狭い理由で十二年前から応ぼしていた、都営住宅が当たったという通知を母から渡されました。わたしはショックで、
(ウソでしょ。やだよ引っ越すなんて。)
とずっと考え込んでいました。さらに父と母に、
「四月には引っ越すかもしれない。」
と、さみしげに言われたので、その日はずっと泣き寝入りでした。生まれ育った大好きな池尻から離れるなんて、信じられませんでした。うそであってほしいと、そう願ってました。
   初めて下見に来た日
「えっ、ここに住むの?」
わたしは鐘ヶ淵寄りの号棟周辺を見て、驚いてしまいました。人通りが少なくて、地上に電車が通っていたからです。前、住んでいた所では、地下鉄が当たり前に通っていました。父と母は、
「いいとこじゃない。うわぁ。」
と辺りを見回して、とても喜んでいましたが、天風勝(たかまさ)とわたしは微妙な顔をしていました。
(便利はいいかなぁ。子どもはいるのか分からないし・・・変な人にからまれたりして・・・。)
と不安で一杯でした。
    世田谷区立池尻小との別れ
「さっちんガンバ!」「手紙書くからね。」「スカイツリー連れてけえ。」
とうとう最後の日が来てしまいました。その時友達がエールを送ってくれました。
「ありがとう・・・また遊びにくるから、みんな元気でね。」
わたしは感動して涙が出てしまいました。先生や、仲のよかった友達とも一旦お別れです。絶対また会いに来れるから。最後の友達からの温かい言葉が胸にしみました。
(五年間ありがとう。池小。)
    初めまして堤小
 わたしは、堤小のホームページを見て、
(感じが良さそうな学校だなあ)
と思い、校庭が広くて楽しそうだという理由で、堤小に転校することに決めました。
 堤小に初めてきて驚いたことは、校長室に案内されたときに飾ってあった絵です。見たときに、心を動かされて、
(すっごーい。この絵描いた人と話してみたい。)
と思いました。それに、迷路みたいにくねくねした広い校舎や、優しそうな子がいっぱいいたこと等、新しい発見ばかりで、
(何か楽しそうな学校だなあ。)
と、とてもわくわくしていました。
   ショックを受ける
 最初の何日間に、授業中に立ち歩く子や、先生にタメ口の子、乱暴な子がいたのを見てショックを受けてしまいました。前の学校では、絶対あり得ない光景だったからです。わたしは
(やっぱ梅若の方が良かった気もする・・・。)
と複雑な気持ちでした。
    友達関係のトラブル
「ウチが先に遊ぶ約束したんだよ。」
「はっ。意味分かんないウチの方が先だし。」(ある二人の対立している会話)
(もうヤダ。見てらんない・・・)(挟まれているわたしの気持ち)
 わたしは人に気を使ってしまい、思ったことをはっきりいえないところがあったためか、転入早々、友達関係のトラブルに巻き込まれてしまいました。毎日二人の子に振り回されてしまう学校生活は、正直辛かったです。
(女子同士の対立なんて考えられない・・・どうしてこんなに上手くいかないの。)
 その事を見ていた斉藤先生に、理科の授業の始めに呼び出されました。斉藤先生がわたしをはげますように、
「今まで辛かったでしょう。ウチのクラスはうるさいし、乱暴だし、優しくないし・・・(中略)参るよなあ。」
と、わたしの言いたかったことを全て言ってくれたので、よほど辛かったせいか、泣き出してしまいました。その後、斉藤先生は、声の調子を変えて、
「でも、みんないい子だし、前の学校とは比較しないでほしいの。比べられると、担任としてもやっぱり悲しいわ。」
と言っていたので、わたしは、
(そういえば、前の学校と正反対だからって、いつも比較してばっかりだった気がする。)
と少し反省しました。斉藤先生は、その二人にしばらくわたしをそっとしておいてくれるように言ってくれたので、わたしは心がすっきりしました。友達も色々と優しかったし、とても心強かったです。
   最初とは違った友達の見方
 最初はショックを受けたあまり、特に男子とは仲良くしたくないと、自分から心を閉ざしていました。
 しかし、堤小に慣れてきて、子供らしい素直な子が一杯いることに気付きました。先生とも家族みたいで、とてもいいクラスです。確かに友達関係は難しいように思えるけど、先生もクラスのみんなも優しくて面白いし、毎日すごく楽しいです。わたしはこんなにいい小学校に転入してきて良かったです。あと半年で閉校してしまうけど、友達を大切にして、楽しい思い出を一杯作って卒業したいです。

突然の病     女 子

  
 十一月十三日金曜日の夜九時三十分頃、少し目が痛くなってきたので、その事を母に言いました。目薬を差してベットで横になり休んでいると、きゅうに頭も痛くなってきました。頭痛がするのは、前にも何度かあったので、そんなに気にしませんでした。しかし目を開けてみると、天と地がひっくり返ってり回っていました。私は気持ちが悪くなったので、母を呼ぶと、心配した笑南ドアを少し開けて、
「笑西、大丈夫?」
と聞いてきました。中は暗いのに外は電気が付いていて明るいので、眩しくて余計に気持ちが悪くなりました。なので私は、 
「ちょっとー、開けないでよ眩しいよー。」
と悲痛な声を上げました。それからすぐに、母が駆け込んできました。母に私は自分の体調を伝えました。それが終わると同時に激しい吐き気がしました。私はそれから二度吐き、母が飲ませてくれた胃の薬も、三度目に吐いてしまいました。それから母は、
「笑西、大丈夫、救急車呼ぶ?」
と聞いてきました。私は、
「呼ばなくてもいいよ。」
と答えました。すると、母はインターネットで、調べ物をし始めました。(私の嘔吐の原因を調べていた。)私は開けっ放しのドアから差し込んでくる光を、少し眩しく感じながらも、寂しくなりました。
 三時間後、母が戻ってきて、
「救急車呼ぶ?」
と聞いてきました。もう真夜中で、私はそれまで五回ほど嘔吐していて、私自身も心配だったので軽く頷きました。その二十分後に救急車が到着しました。私はそのまま、母に支えられながらソファーに座りました。それから私立江東病院に救急車で運ばれました。点滴を打ち、また戻ってきました。医者には「風邪」だと診断されました。
 意識がなくなった
 次の日、薬をもらいに行こうと、掛かり付けの今里医院に行きました。行く途中に、私は意識を失いました。それから救急車で、江東病院へ行き、墨東病院に運ばれました。そこで、手術は出来ないと言われ、東京女子医学大学病院に行きました。すぐに検査をして、手術をしたそうです。
 二日後、母に揺り起こされて、私はゆっくり目を開けました。前に斉藤先生(校長先生)が居たので、少し気持ちが悪くなりました。よく見てみると、見しらぬ人や看護師さんが居たので、やっとここが病院だとわかりました。私は術後の一週間はICU(集中治療室)にいました。それから小児科の病棟に移りました。
六階までエレベータで上がり、目の前に映ったものに、自分の目を疑いました。母も、
「えっ・・・ここですか・・・。」
と驚いていました。ものすごく幼稚な絵と、表札が全て平仮名だったのです。漢字が無いとよけいに読みにくいので、少し困りました。部屋も、畳五畳分の中にベットと椅子が三つと、テレビが机の上に置いてありました。私は、
(ちょっとださいなー。)
と思いました。病棟での生活は朝六時に起きて八時から朝食をとり、午前十時と午後二時にリハビリがあります。そして夜九時に寝ます。夜は他のこども達がうるさいのと、同じ部屋のお母さん達が夜遅くまで起きてテレビを見ていたので、よく眠れませんでした。一週間ほどたつと慣れてきましたが、私は、
(早く家に帰りたいなー。)
と思いました。
   リハビリの始まり
 リハビリの内容は
・術後、弱ってしまった筋肉を鍛える
・手術で取り除いた小脳の左側を活動させる
と主に二つでした。小脳は主に体の運動とバランスを支えているので、術後寝てばっかりだった私は、筋肉が弱まってしまいました。リハビリでは筋トレが多かったので最初は疲れましたが、それも慣れてきました。その頃堤小からの手紙が多く届きました。主に『つつみんドリーム2010』の内容が書かれていたので、私はとても行きたく楽しみにしていました。しかし安全のため行けませんでした。送られてきた千羽鶴も、とても嬉しく勇気づけられました。母に
「あとからは、この三つだけ覚えておけばいいからね。一、友達に優しくすること 二、自分より弱い人に親切にすること 三、仕事を真面目にやること。」
と言いました。私は
「うん。」
と言い、頷きました。
   退院、そしてまとめ
 十二月十日、私は東京女子医学大学病院から退院しました。一一月一五日から二五日間の入院でした。私はこの体験を通して、私たちのクラスのことを、本当にがさつでふざけてて集中力がないけれど、心優しい人たちだなと感じました。
そして、このような体験をさせてくれた堤小に感謝して卒業していきたいです。

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