子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

作品18.戦争は許せないと強く思った日

作品18.戦争は許せないと強く思った日

墨田区立堤小学校  六年 女子
 今日は、2月26日の火曜日。1時間目から4時間目までは、いつも通りに授業をやった。でも、5時間目は、いつもとはちがう。なぜかというと、今日は、平和集会があるからだ。平和集会とは、戦争を体験した人の話を聞く集会だ。低学年と、高学年に分かれ、低学年は、午前中、高学年は、午後にやった。場所は、ランチルーム。私たち高学年は、5時間目だったので、昼休み終わりのチャイムが鳴ると同時に、ランチルームの前にいなければならなかったので、昼休みは、早めに切り上げ、急いでランチルームに向かった。ランチルームに4列並びで入った。4,5,6年生全員が集まると、松井先生が前に出てきて、
「これから平和集会をします。」
と言った。松井先生の話もあったが、正直聞いていなかった。なぜかというと、早く今日話して下さる福田稔さんの方を聞きたかったからだ。松井先生の次に話した校長先生の話も、やはり少ししか頭に入っていかなかった。校長先生の話が終わり、福田さんの話が始まろうとしていた。福田さんの立っている後に、ホワイトボードがあった。そこに、今日福田さんの話す題と福田さんの名前が書かれていた。題を見ると、「信ちゃん」と書かれていた。私は、
(信ちゃんってだれだろう。福田さんの下の名前って、稔さんって言うんだよね・・・。 何でだろう。)
と思った。考えている内に、話が始まった。福田さんは、当時十六才で、戦争の終わった頃の話をしてくれた。その出来事は、今から六十二年前のことだった。十六才の福田さんは、朝から晩まで仕事をし、毎晩上野駅の地下で寝ていた。いつものように仕事を終え、駅の地下へ行くと、いつもは寝られるはずなのに、その日は、寝ている人がいっぱいで福田さんの寝られる場所がなかった。しょうがないので、上野駅から浅草まで歩き、今で言う「花屋敷」の遊園地の近くの東本願寺というお寺にたどり着いた。戦争後なので、寝る場所があるわけでもなく、縁の下でねたのだ。寝ていると、なぜだか、腹の上が重い気がして、見てみると、小さな男の子が足を乗っけていたのだ。かわいそうで、足をどけるわけでもなく、じっとがまんをしていたのだ。そんな福田さんを私は、
(すごいなあ。)
と尊敬した。福田さんは、その少年に、モク拾いというので得たたった一本のイモを、渡したのだ。モク拾いとは、タバコを拾う仕事だ。少年は、受け取るわけでなく、うばいとるようにしてそのイモを食べたのだった。その少年が、信ちゃんという名のようだった。その信ちゃんは、お父さんとお母さんを戦争でなくして、一人ぼっちでいたのだ。信ちゃんは、当時八才。ここから、信ちゃんと福田さんが、別れるまでの話が始まった。最初は二人だったが、これから四人の人たちが加わる。合計六人なので、くつみがきの仕事もすることになった。生活は苦しいが、親切な人たちに出会い、幸せに暮らしていた。しかし、ある時、役所の人が、信ちゃんを引き取りに来た。仕方がないので、信ちゃんを施設に預けた。
 ある時、役所の人が再び福田さんのもとに現れた。信ちゃんが、養子になると言うのだ。そこで、福田さんは、一つの約束をさせられた。もう二度と、信ちゃんとは、会わないということだ。福田さんにとって、信ちゃんと別れるのも、もう会えないのも。つらかったと思う。なのに。この信ちゃんの話をするのは、すごいと思った。私が心に残った言葉は、福田さんの言った「約束は、口で言ったり、紙に書いたりするのは簡単だけど、守らなければ意味がない。」という言葉と、福田さんが最初に言った、「戦争は、もう二度と起こしてはいけない。」という言葉だ。今日は、人生で一番戦争は、許せないと思った日だ。きっとこの先も、こんなに強く戦争は、許せないと思うことはないだろう。

平和教育をする人が次第に少なくなってきた。戦争体験を語る人が少なくなってきたことも大きい。平和の教育の大切さを意識する教師も少なくなってきた。戦争は、多くの人々を不幸にする。そういう教育を学校ぐるみでやれる職場にいたので、1年に1回は、必ずこのように子どもたちと向き合って考えることが出来た。

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional