子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

忘れえぬ思い出の詩・その10

忘れえぬ思い出の詩・その10

謝謝大家 墨田区立柳島小学校   1月13日(日)
        6年 女子
中国から日本に来て、約四年。
二年前は、毎日のように、
「中国に帰りたいよう。」
といっていた。
母は、
「来年にかえるね。」
と言います。私は、
「本当。」
と言う。母は、
「うん。」
と言う。
何日かたって、
私と妹が寝ているときに、
「おじいちゃん、おじいちゃん。」
と、中国にいるおじいちゃんの名前を言っていた。
泣き出して目が覚めたら、
母は、一人で、ぽつんとくたくたになって座っていた。
テレビを見ていた。母は、
「どうしたの。」
と言った。私は、
「おじいちゃんの夢を見たの。」
と言った。母は、
「そこに座ったら寒いから、ここに座って、ほうらなくなあ。」
と言った。私は、
「うん。」
といって、手で涙をふいた。
柳島小学校に転校して来て、
すぐに友達がたくさん出来た。
榎本先生も親切に教えてくれた。
漢字を覚えるように、五時過ぎまでに、
一緒に教えてくれた。
一九八八年 「はらっぱ」最終号 全員特集の詩
 小梅小学校を十年勤め、柳島小学校へ転勤した。そこで五年生を担任して、二年間担任して卒業させた。三クラスの学年であった。元気な子供達がたくさんいた。この二年間も、「詩のノート」や「班日記」や「新聞の切り抜き帳」を子供達と一緒に取り組んだ。その中で、中国の方から日本に来て、東京の他の区から転校してきた子どもがいた。日本に来て四年くらいたっていたので、日本語の方もだいぶ慣れて、会話は普通にしゃべっていた。しかし、助詞の使い方や漢字が苦手であった。作文もかなり苦労して、書き込んでくれた。時間がとれるときには、特別に残して教えることが何度もあった。とても素直な子供で、教えればそれなりに次第に力が付いてきた。家庭訪問をしたときに、なぜ日本に来たのかの事情もわかり、たくさんのことを教えられた。お父さんの母親は、日本人でお父さんが中国人であるとのことであった。日中平和友好条約が、一九七二年に結ばれたことにより、日本に帰ることが出来たと言うことであった。彼女のお母さんは、中国人なので日本語を話すのにかなり苦労されていた。この詩にあるように、お母さんは、話し相手も少なくホームシックになって、「中国に帰りたい。」と家族の人にもしゃべることが多かった。そこで、ときどき家庭訪問に出かけ、お母さんとお話しすることが何度かあった。お母さんは、中国料理を作るのが上手で、何度かごちそうになった。中国にいたときは、中国料理のお店で働いていたと言うことであった。「出来たら日本でお店を開きたい。」というのが、お母さんの夢であった。

五年ぶりの出会い

 やがて彼女も卒業して、五年くらいたったときに、錦糸町の駅前で偶然にあってその後の話を少し聞いた。彼女は、理容師の学校に行って、将来を夢見ていたが、お母さんが亀戸にお店を開いたので、その夢を断念して、お店の手伝いをするとのことであった。
 縁あって、亀戸の駅を利用することが多くなり、その店ができて、何日間かたったときにお祝いにかけつけた。「亀戸餃子」のあるとおりに面して、お店があった。その後も、ときどきそのお店によって、交流を深めていたのである。お母さんもすっかり元気になり、お店も結構繁盛していた。
 ついこの間そのお店に行ってみたら、店の名前が変わっていて、お店で働いている人もすっかり人が変わっていた。その後の連絡も何もないので、大変気になっている。新しいお店を別の所に作って、新しく店を始めたのならそれはそれで良いのだが、これから連絡を取りたいと考えている。
 これらの文章は、今から九年前の子どもたちに「作文教育」をしているときに、私が子ども向けに書いた「忘れえぬ詩」を紹介したものである。子どもたちに文章を書いてもらうのに、教師も書いた方が良いと言うことを、研究会で聞いたからである。
 ぼくは、このあと四年間で墨田区の立花小学校を最後に、退職する予定であった。しかし、校長先生が、「転勤してほしい。」と言われ、しぶしぶ区内の緑小学校に転勤した。幸いその学校で、すばらしい子どもたちと巡り会い、充実の楽しい二年間を過ごし退職した。その後、再任用で、区内の堤小学校に転勤した。三年間の再任用を終え、今年から、嘱託で理科を担当している。引き続き、作文教育も昨年同様している。いよいよ最後の年を迎えた。
2010.5.13

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