子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

忘れえぬ思い出の詩・その3

忘れえぬ思い出の詩・その3

忘れられない詩を書いた子供達ーその3 十一月十一日(日)
夕やけ   豊島区立池袋第三小学校 
               一年 女子
 雨が上がった。
 夕日がしずむころに、
 オレンジ色がほそく、
 いっぱい見えた。
 山のまわりに、
 くもがわをつくっていた。
 えんとつのけむりが、
 くもみたいにうごいている。
 上のほうに、白いくもが
 少しあった。
 ふじさんの下にも、 
 くもがあるので、
 ふじさんは、すごくたかいんだなあ。
 これから夜になるので、
 黒いくもがたくさんあった。
 夕やけは、すごくきれいだった。
 オレンジ色がきいろになって、
 光っている。
 その上に、青い空が広がってきた。
  一九七四年 十月作 一枚文集「ひろば」より

 この詩を書いた子ども達一年生を、初めて受け持つことになった。一学期は、ひらがなを教えて、二学期から日記や詩をたくさん書いて提出してもらった。詩の書き方にだんだん慣れてきた十月になって、この詩を書いてきてくれた。彼女の家は、池袋西口の駅からすぐの所のマンションに住んでいた。そのたしか十階の一番上の階にすんでいたのではないかと思う。その窓から見た夕焼けの景色に感動して、この詩を書いてくれたのだ。当時も今も、池袋の西口はたくさんの家が密集しているところなので、夕焼けの景色をこんなに雄大に見られるところは、このように高層住宅からしか見られないのである。家庭訪問をしたときも、高いところから西側の景色が一望できたことをうっすら覚えている。だから、この詩を読んだときに、「ああ、あの家のベランダか窓の所に顔を出して見たんだろうな。」とすぐに気がついたのである。うれしくなってクラスのみんなとこの詩を鑑賞したときに、どこからこの感動を見つけたのかをたずねてみたら、やはり予想通りであった。
 彼女たちを二年間担任して、七年間いた池袋第三小学校を後にして、墨田区の方に転勤するのであった。彼女とは、その後も年賀状は続き、一年に一回だがお互いの近況を伝える関係が続いた。大学を卒業した後、彼女は大妻中学校と高等学校の英語の教師になり、何年間かはそこで子供達と貴重な学校生活を送っていた。やがてすてきな人に巡り会い、結婚してもしばらくは教師を続けていたようだ。当時ぼくは、柳島小学校に勤めており、私立の大妻を受けたいという子どもがいて、密かに合格を願っていて、彼女との縁を楽しみにしていたのだがのであるが、残念ながら不合格になってしまった。
 何年かたち子どもが出来、だんなさんがアメリカのニューヨークの方に転勤するのをきっかけに、教師を辞めてしまわれた。しばらくの外国生活を終えられて、一昨年に日本に戻ってこられたというていねいな手紙をいただいた。今は練馬区の方で幸せに暮らしていると言うことである。あの頃の思い出として、たしか熊本県出身の彼女のお宅におじゃましたときに、熊本のお雑煮をごちそうになった記憶がある。それは、お正月の冬休み何かのことがきっかけで、図々しくもお宅におじゃましたのであった。
 また、彼女のお母さんは、「婦人の友」と言う雑誌にも当時関係していて、「教育を語る」という座談会に私を推薦していただき、当時明治大学の銀林浩先生と荒川区の原田治子先生とぼくを交えての話し合いを記事にしていただき、二十代の若さでベテランの先生方との貴重な体験をさせていただいた。今でもその時に記事にしていただいた「婦人の友」は、大切にしまってある。
 あの時六才だった広瀬さんも、今では二十七年たち三十三才になっているはずである。 

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