子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

松浦俊昭先生

松浦俊秋先生

あれから三十五年経ったのですね
 一九六九年四月、希望に胸膨らませて、はじめての学校に向かった。
その時に校長室で、先生とお会いしたのが、最初であった。
学校現場は教育実習ではあったが、何でも初めての体験だった。
朝の打ち合わせから始まり、放課後の自由な時間まで、緊張の連続だった。
「榎本先生、いつでも私の授業を見にいらっしゃい。」
松浦さんの優しい眼差しを今でも覚えている。
突然おじゃました授業は、いつも新鮮だったし、プロの授業だった。
こどもたちの真剣な授業への取り組みを見て、いつも圧倒された。
朝の打ち合わせや職員会議の議論の中心に、いつも先生がおられた。
その一言ずつの発言を聞きながら、いつもうなずくぼくだった。
職員会議の終わったあとは、いつも職場会が開かれた。
組合の先生方が集まり、そこで何でも語り合う会であった。
ほとんどの先生方が、組合員であることも驚きだった。
その輪の中心にやはり先生の姿があった。
ぼくらはやがて職員スポーツに燃えた。
バレーボール、野球、サッカー、卓球、バスケットボールと何でもこなした。
終われば職員室で、おいしい酒を飲みながら、教育談議であった。
話が盛り上がると、時には居酒屋へ行って、その延長戦が続いた。
このときの話は、今のぼくの教師生活の背骨のようなものになっている。
先生は、いつもアイディアマンだった。
夏のプールが始まると、こどもたちが帰ったあとで、「教師の泳ぎ比べ」を提案した。
当時四十代組と二・三十代組が三人ずつに分かれ楽しんだ。
夏が終わると、おかでのマラソン長距離競走の提案があった。

ぼくらは、その提案にすぐにのり、毎朝一時間くらい早く登校して、校庭を走った。
そんな身も心も充実して、突っ走った。
そんなある時、職員会議があった。
疲れからか、ぼくはちょっとばかり、睡魔に襲われた。
右の太ももをつねられて、目がさめた。
となりを見たら、松浦さんがにやりと笑っていた。
あれから七年間、ぼくは先生の影響をたくさん吸収して、転勤した。
その後、ぼくらは一年に一回正月に集まり、「新春放談」を開いた。
この集まりが、ぼくにとっては、一年の始まりの会で、いつも楽しみだった。
今年の集まりは、先生が主催者で池袋の北京飯店であった。
石谷さんが体調不良で欠席だったが、いつも通り元気のある先生の話であった。
毎年いただく年賀状も、健康を大切に貫く精神が書かれていた。
病院に行かないことも、先生の自慢であった。
それが今回の還らぬ人になって仕舞われた感じがする。
腸閉塞なんて、今の医学では簡単に処置できたのではと、
悔しくてたまらない。
どうぞ、松浦俊秋先生、「安らかにお眠りください。」とは、言わない。
向こうの方にいっても、また張り切って、新たな提案をして、
自分自身に叱咤激励されて、充実の日々を過ごしていただきたい。
ぼくもこれから、先生に教えられたように、
「夢に向かって突っ走れ」で歩いていきたい。
   2004年 9月4日
 ぼくの教師生活にもっとも影響を与えてくださった松浦俊秋先生にささげる。

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