子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第12回国分一太郎「教育」と「文学」研究会

第12回国分一太郎「教育」と「文学」研究会

私を支えた平和教育 分科会報告

 戦後71年目の年に、平和を脅かす大きな転換点を迎えようとしている。だからこそ、平和教育を、現場で大事にしてほしいと願いながら、この実践を提案したい。
一 作文教育との出会い
二 生活綴方と平和教育分科会での、国分さんの大事な訴え
三 墨田区への異動から、戦争体験の聞き書きは始まった
1 東京大空襲の体験者が、何人もクラスの親にいた
2 外地で、兵隊として、生死の間を彷徨った人々もいた。
3 一人の聞き書きをみんなで考えあう
4 平和学習を、学校ぐるみで取り組む」
5 原爆体験者が、身近なところにおられ、聞き書き学習に取り組む
6  東京大空襲の体験者が、今でも語り部を続けている意味 

 1945年生まれ、埼玉県。埼玉大学教育学部。東京都豊島区・墨田区の小学校に勤める。国分一太郎「教育」と「文学」研究会、綴方理論研究会、日本作文の会会員。「平和教育と生活綴方」を生涯の仕事にする。
〈共著〉『いま、なにをどう書かせたいか1.2年 3.4年 5.6年』(綴方理論研究会著・明治図書)「平和教育実践選書全11巻」(桐書房)、「作文教育実践講座全10巻」(駒草出版)「ことばと作文」(日本標準)「作文の授業」(国土社)等に、実践報告を載せる。

私を支えた平和教育 榎本 豊(綴方理論研究会)

 日本が戦争に負けて、今年で71年の歳月が流れ去った。ちょうど私の年である。小学生の頃、父親がいない子供が何人かいた。父親が戦死した友だちだった。その頃は、皆貧しかった。ちり紙を、新聞紙を切って使う友だちもいた。鼻の下をいつも黒くしていた。街頭テレビに群がって、力道山の空手チョップに興奮していた大人達の中で一緒に見ていた。水道がまだなかったので、井戸の生活だった。
 やがて朝鮮戦争によって、日本は、景気が回復してくる。同時に、警察予備隊ができ、保安隊にかわり、現在の自衛隊に繋がっていく。憲法9条の解釈変更である。その間、沖縄は、アメリカの司政権のもと、1972年日本に復帰するまで、日本の国ではなかった。やがて本土の基地が縮小し、その分、沖縄に移っていった。日米地位協定の犠牲の上に、今年も新たな犠牲者が出てしまった。昨年安保法案が新しく強行採決され、9条に違反する法律を作ってしまった。戦争への道に、突き進もうとしているのが、安倍政権である。学校現場も、次第にものが言えなくなって、上意下達の状況である。
 私が教育現場にいたときには、まだまだものが言えて、教育の自由もたくさんあった。
だから、人間にとって最も大切である、「平和」の問題も子どもと向き合って考えることができた。参議院選挙の結果は、どうなったのだろうか。

一,作文教育との出会い

 大学は、体育会系のバスケットボールにすべてをかけて、4年間過ごす。
 初めて社会人になった職場が、豊島区立池袋第三小学校1969年4月。その職場が、私の教師としての生き方を決めてくれた職場。職員会議が終わると、職場会が必ず開かれた。その場所からいなくなる人は、校長教頭と、あと数人の人が、席を外した。今考えると、組合の会議であった。そこには、以前この研究会にも参加していた鈴木宏達さんがおられた。豊島の組合の副委員長をされていた。鈴木さんは、戦後すぐに代用教員になる。その職場に片岡並男と言う日本作文の会の事務局長などをされている方に出会う。片岡さんに連れられて、「夏休みの友」の編集に行った。そこでは、教員組合が中心となり、そのノートとを作っていた。そこに国分さんとで会っている。
 私のもう1つの出会いは、4年生を担任したときのとなりの教師が、日本作文の会に所属し、ばりばり作文教育をされている女の先生だった。「子どもに作文書かせない?たのしいわよ。」それが、作文教育との出会いであった。やがて、豊島作文の会を作り、日本作文の会の全国大会などに参加するようになった。当時2000人以上の人々が、全国から集まり、作文や詩の実践を熱っぽく語ってくれた。国分一太郎さんや乙部武志さんは、「作文と教育」という機関誌で名前を知る段階であった。やがて、その時の感動を、自分の教室でもやってみようと言うことになり、「原爆の子」という子どもたちの書いた散文や詩を読み、そのいくつかの作品を読み聞かせをし、その感想の文を書かせたりした。
 やがて、豊島作文の会に日本作文の会の常任委員の人を呼んで、「作文教育この良きもの」という話を、年1回開くようにした。最初人が、国分一太郎さんであった。当時池袋第三小学校の体育館が、ぎっしり集まるほどだった。この時に話していただいた内容は、国分さんの名調子で、2時間近くたっぷり話をしてくださった。鈴木さんも、20年ぶりに国分さんと再会している。2次会では、国分さんを囲んで、池袋駅前の料理屋に行き、おいしいお酒を飲んだ。
 教師になって二年目の夏、隣のクラスの担任0教師に誘われて、「日本作文の会主催」の「作文教育全国大会」に参加した。その大会に参加することによって、日本全国には、個性のある様々な教師がいることを知る。子供達に感動のある本を読み聞かせして、それを詩に表現している教師の実践に大変感動して、自分も実践してみようと試みた。
 その夏休みに、『原爆の子』(長田新作)岩波書店発行の本を、心洗われる思いで一気に読み終えた。その中の作品で、当時の子供達の書いた原爆投下後に書かれた作品の何編かを子供達に読み聞かせして、その後に詩に表現してもらった。この詩が生まれたときに、子供達の感動の深さに、教わることがたくさんあった。さっそくこの詩を含めて、クラス全員の詩をガリ版に書いて印刷した。
 ガリ版なんて言っても、知っている人はかなり少なくなってしまった。ロウ原紙と言って、その用紙のロウを鉄筆で削って字をカリカリと書いていくものである。それを印刷機にかけて刷っていくのである。その印刷機も、手刷りで一枚一枚刷っていくのである。輪転機と言って、回転式の印刷機も今や姿を消してしまったが、まだそんな機械もなかった頃である。コピー等という機械もなかった。

原 爆     豊島区立池袋第三小学校  五年 女子
原爆のけむりは、
人間をつつんでどこへ行ったのかなあ。
きっと原爆で死んだ人のところへ行ったんだ。
原爆は、何も知らないで広島に、まっさかさまに落ちた。
その後、死んだ人のところへ行って、きっと、
「本当に、悪かった。」
と言っているんだ。
でも、広島の人のくやしさは、
今でも消えない。
きっと、苦しくて、悲しんだったんだろうなあ。
一人残された子どもは、
きっと、戦争をとめるだろう。
その時の気持ちがわかるなあ。
きっと、広島の恐ろしい記録に残るだろう。
一九七0年 十月三十一日発行一枚文集 「太陽の子23号」より

二 墨田区の異動から、戦争体験の聞き書きは始まった。

平和教育の大切さを学ぶ

戦争体験の聞き書き
 教師8年目に墨田区に転勤した。隅田川を渡るのは、はじめてのことだった。今から40年前であった。毎日、言問橋を渡って通勤した。その橋が、東京大空襲の時に、多くの人々が犠牲になった橋であることを、やがて知る。保護者の中にも、戦争体験者の方が何人かおられ、自分の親から直接聞けるこどもたちが半分近くいた。父親が兵隊で、外国にまで行き、戦って帰ってこられた方が数人おられた。祖父母の年令も、60代前後で、記憶も鮮明に覚えておられ、貴重な体験が語られ、当時のこどもたちは、割合苦労せずに聞き書きができた。

祖父母や曾祖父母(そうそふぼ) からの聞き書き

 夏休みは、父母ののふるさとに帰られ、祖父母や曾祖父母(そうそふぼ)の方に、一緒になって聞き書きをすることを勧めた。30年以上前の戦争中の貴重な生活を語っていただき、「平和の大切さ」や「戦争のむごさ」を身をもって感じ取ることができる文が完成し、みんなで読み合った。

墨田区への異動

 7年経ち、墨田区へ異動した。隅田川を渡るのは、初めてだった。浅草から言問橋を渡って、勤務校に通った。その橋が、東京大空襲の大きな犠牲者が出た、橋であることは、やがて分かる。今は、新しくなった橋だが、その当時はその当時のままだった。所々に、黒いシミが残っていたが、人間の死体の油の後であることを、あとから教えられた。そこで5年生を担任するが、保護者の中には、大空襲の火の海を逃げた親が何人かおられた。この小梅小学校の10年間は、何年生を担任しても、戦争と向き合うようにしてきた。体験者の聞き書き以外に、文学作品の読み聞かせや大空襲の紙芝居なども見せた。

母から、東京大空襲の話   墨田区立小梅小 六年男子

 母から、東京大空襲の話を聞きました。一九四五年三月十日は、亡くなった祖父の四十二回目の誕生日でした。そのため、いも、米、豆などを集めて、赤飯をたきました。その夜赤飯を食べて祝っていると、母のいやな空しゅう警報が鳴りました。しかたなく母達は、今の吾妻橋三丁目から業平の東武ガーデンに逃げました。祖父は、赤飯を持ち、母は、幼い妹をおぶって逃げました。途中の橋の所で背中の妹が、
「お家に帰りたいよ。早くお家に帰ろう。」
と泣きながら母に言ったそうです。今でもその言葉が、母の耳に焼き付いて離れないそうです。やっと東武ガード下にたどりつくと、今度は祖父とはぐれてしまいました。そうすると、また妹が、
「お父さんは、お父さんは。」
と言ったそうです。その先は、どうなったか、母の記憶にはありません。昔住んでいた四つ木に行くと、祖父と会えたそうです。母の戦時中の記憶は、これぐらいです。
(大切なところ抜粋) 〈一九七七年一月作〉
 東京大空襲の体験者が保護者の中に、何人かいると言うことも初めて知ることになる。大空襲の中を、逃げ惑い助かったこの方は、今は八〇才を超えられた。私が担任していたとき、四〇才くらいの年だったことが分かる。
墨田区立小梅小 六年男子
 ばあちゃん(母の母)は、朝鮮へキリスト教の教えを広めるために行っていた。母は、昭和二十年には、六才でした。(略)昭和二十年八月十五日終戦。朝鮮の釜山から船で下関へ、それから九州の博多に帰ってきた。(略)母は、四人兄弟のうち、ただひとりの女の子であった。母は、男のかっこうをして歩いていた。それは日本はアメリカに負けた。それで日本にいるアメリカ兵が、ツッパラかって、日本の女をいじめるので、女は頭の髪の毛をかって、クリクリにして男のかっこうをしてごまかしていた。母も、例にもれず、そうしていたのだ。だから母は、どうにか助かった。〈一九七七年一月作〉
 やがて、国分さんのご自宅に行き、作文教育を理論化する、研究会に参加するようになった。26才頃で、いつも緊張して参加していた。国分さんは、10人くらいの実践家の話を黙って聞いていて、最後にまとめるときのお話が、私のような若い教師にも分かるようにかみ砕いて話をしてくれた。2次会になると、国分さんの手料理、田舎のうまいものをごちそうしてくれた。田中君や榎本君、そんなすみにいないで、もっとこちらに来て遠慮せず話をしなさい。」と私たち若者にも気を遣ってくださるのであった。
三 生活綴方と平和教育分科会での国分さんの大事な訴え
 32年前の第32回日本作文石川大会(1983年)の「生活綴方と平和教育」分科会に出た。世話人は、国分さんだった。会が始まる前に、なぜこの分科会が作られたのかの意義について話された。とくに印象に残った言葉は、戦争に負けた日本が、国連憲章全文にも書いてあるように、「国際平和及び安全を維持するために、武力を用いないこと」宣言されている。日本国憲法は、政府の行為によって、ふたたび戦争の慘禍が起こることのないように、主権が国民にあると宣言している。全世界の国民が、交付と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する。憲法の精神は、教育の力によって達成していくとして、教育基本法が制定された。「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間を育てる。」第1次安倍政権によって、教育基本法が改悪され、「公共の精神を貴びが加わり、伝統継承が加わった。」
 世界の教員組合の人達があつまり、「世界教育憲章」が宣言され、「教師の思想の自由を認めるならば、子供自身の思想の自由も認めなければならない。」と断言している。
 最近の政府自民党の18才の選挙権に当たり、「政治的中立」の名の下に、教師への政治教育の介入をしている。また、つい最近は、教師が偏向教育をしているかどうかを、集約し、よからぬことを、今後画策しようとしている。江戸時代の5人組、戦前の「非国民」を連想させる動きである。
 晩年国分さんが、平和の問題をことに大切にされて、様々なところで、我々に訴えてこられたのである。
 今から33年前の1983年第32回日本作文の会全国集会(石川県)の「生活綴方と平和教育」分科会の世話人が国分さんだった。大会資料として、平和に関する宣言などの解説をしてくれた。

国連憲章全文 (1945年6月)

 われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互に平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によつて確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よつて、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。

日本国憲法前文(1946年11月3日)

 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
 戦争に負けて、日本は大事な宝物を作った。2度と戦争が起きないように(第9条平和主義」)誰でも一人の人間として幸せに生きる権利(第11条「基本的人権の尊重」)を持ち、主権が国民にある(国民主権)を確立した。

教育基本法 (1947年3月31日)

 われらは、さきに、日本国憲法 を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに、日本国憲法 の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
 日本国憲法の精神は、教育の力によって達成していく。

教育基本法 (2006年12月22日) 第1次安倍政権によって改悪された

 教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号)の全部を改正する。
 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法 の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。
「真理と平和を希求する」→→「真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、」「伝統を継承し、」が加わる。

「世界教育憲章」

 1954年に、世界の教員組織が「民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようと決意した。」「思想の自由にたいする生徒の権利を尊重」「もしも、教師が思想の自由を認めるならば、子どもたち自身の思想の自由を認めなければならない。彼等自身が、自分の思想を形成するように育てなくてはならない。教師はそれに必要な知識や技能をきちんと保障してやる。」
子どもの権利条約」−4つの柱
生きる権利
 子どもたちは健康に生まれ、安全な水や十分な栄養を得て、健やかに成長する権利を持っています。
守られる権利
 子どもたちは、あらゆる種類の差別や虐待、搾取から守られなければなりません。
紛争下の子ども、障害をもつ子ども、少数民族の子どもなどは特別に守られる権利を持っています。
育つ権利
 子どもたちは教育を受ける権利を持っています。また、休んだり遊んだりすること、様々な情報を得、自分の考えや信じることが守られることも、自分らしく成長するためにとても重要です。
参加する権利
 子どもたちは、自分に関係のある事柄について自由に意見を表したり、集まってグループを作ったり、活動することができます。そのときには、家族や地域社会の一員としてルールを守って行動する義務があります。

『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と

 1983年兵庫県の神戸で、日教組の全国大会が開かれた。記念講演は、国分さんが行った。「『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と」と言う演題であった。
話の内容は、昔の貴重な事実を掘り起こし、それを後世に伝えていくことの意義を強調された。その話に、更に勇気をもらい、聞き書きを進めていった。次の作品は、それを受けて、出来上がった作品である。
  原博さんの戦争体験の聞き書きは、原稿25枚にもなる大作だった。中国大陸から、フィリピンまで、5年間も戦争に明け暮れた体験者の話であった。マラリアにかかったりして、生死の間を彷徨いながら、やっと日本に帰国する。ふるさと、墨田区は、大空襲で、実家もないだろうと、母の実家群馬県にたどり着いたときの文章である。
 この作品が、完成した年に、国分さんは、なくなった。年刊文集に掲載された作品を、国分さんに観ていただきたかった。 その後、区内を異動し、ずっと戦争体験の聞き書きは続けていった。
原博おじさんの戦争体験 墨田区立小梅小 5年 中山 建人

帰国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員船の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。
 400字詰め原稿25枚の一部 (1985年3月作) 全文は、「えのさんの綴方日記」の「私の平和教育」に載っている。

3、戦争後、55年たった2000年、もう戦争体験の聞き書きは困難であろうと、考えていたが、本間繁輝さんの働きかけによって、再挑戦した。その時に出来上がった作品である。「母の姉は中国に」最初、遠藤君は、祖父の中国大陸での戦争体験を聞き書きとして書いてきた。それなりの作品であったが、最初の方に、「ぼくの母の姉は中国に今住んでいます。」という1行の文章が気になったので、どういうことなのか、母親にくわしく聞いてくるようにと言うことから、この聞き書きは始まった。

母の姉は中国に 墨田区立立花小学校 5年 遠藤 昭城

 ぜったい中国に行こう
最近母から二十センチメートル四方の古い布に薄くなってよく読めない、茶色の文字で
「路進神不阻、心連別何妨、○○存証,康哥1953.3」と書いてありました。
「何、これ。」
と、母に聞くと、
「中国のお父さんが別れるとき、おばあちゃんにくれたものよ。この字はね、中国のお父さんの血で書かれているのよ。」
と、母は小さな声で言いました。ぼくは、
「えっ。」
と、すごくびっくりしました。母は、布をふうとうに入れ、しょっきだなの引き出しにしまいました。ぼくは、
(こわかった。)
と、思いました。ぼくは、
「何で血で書いたの。」
と、母に言いました。母は、
「それはたぶんおとうさんの強い愛情を表しているの。」
と、言いました。ぼくは、
(何で血で書いたんだろう。)
と、不思議に思いました。母は、
「ぼくの体にも中国人の血が四分の一流れている。」
と言っています。ぼくは、
(戦争がなければ景華さんと別れなくてすんだのに、前から思っていたけれど、戦争は恐ろしい。)
と、強く思いました。でも、母は、
「戦争がなかったら、中国に住んでいたと思うよ。」
と、言っています。そうすると母は父とは出会わないことになります。ぼく達3人の兄弟は、この世に生まれなかったことになります。戦争がなかったら、ぼくは母とも会えなかったし、この世にいませんでした。ぼくは、
(戦争のおかげで母や父やいろんな人に会えたんだなあ。)
と、正直ちょっとふくざつな気持ちでした。でも、戦争はよくないものです。おそろしいものです。母も言っているけど、
「いつか絶対中国に行こうね。」
ぼくも、
(中国に行ったら景華さんにも会ってみたいし、いとこにも会ってみたいなあ。)
と、思ったこともあります。
(お母さん、家族で絶対中国に行こうね。)
と、僕は思っています。 二〇〇〇年 十一月作
母親の感想
 昭城には、理解できないことも多く、この文章を書くのに何日かかかりました。
 ご苦労様!私にとってもいろいろ整理するよい機会となりました。変色した古い布の切れ端は、大人になったら娘に見せてほしいと中国の父から託されたそうです。
一部読めない字もありますが、
路進神不阻
心連別何妨
○○存証
康哥1953.3 と書かれています。
 この文字を書くためにどれだけ血を流したのか。この文字を目にするたび、父の深い愛情と励まし、同時に無念さを思い胸が痛みます。戦争ほど残酷なものはありません。これからも子供たちとは、機会あるたびに語り合いたいと思います。世界中から戦争をなくすにはどうしたらいいのかを。
※ 康哥は書家としての号で、陳康初さんのことです。 昭城の母より
 400字詰め原稿16枚の一部 全文は、「えのさんの綴方日記」の「私の平和教育」に載っている。
 この作文を書き上げて、クラスの中で読みあった。様々な感想が出された。

クラスの皆で鑑賞することの意義

遠藤君へ
 遠藤君に中国人の血が流れているとは、知りませんでした。戦争は、とても恐ろしいし、ざんこくです。戦争で何人の人が死んだのか、それはわかりません。戦争なんてやってはいけなかったのです。しかし、戦争がなければ、E君はこの世にそんざいしません。遠藤君のおばあちゃんは、日本に帰って来る時、おじいちゃんの手紙をもって来たそうです。文字はなんと、血で書かれていたそうです。なぜ血で書いたのかは、大切な遠藤君のお母さんに深い愛情を表したかったんだと思います。今、日本人はだいたい英語を習っています。しかし、遠藤君はぜったい中国語を習うと思います。いっこくも早く、中国語を覚えてもらいたいです。それに、何十年も離れ離れになっているチェンケイカ(陳景華)さんと、一秒でも早く再会してほしいと思います。おじいちゃんからもらった布の手紙の中国語の文字を、日本語に直せばぜったいに、強い愛情が感じられると思います。《略》

遠藤君のおばあちゃんはすごい

 中国から日本に行くように命令された時に、遠藤君のおばあちゃんは、
「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」と、良く言えたと思います。言うのは遠藤君のお母さんをそれほど育てたいという愛情だけでなく、かくごも必要です。《途中略》ぼくは、遠藤君のおばあちゃんの決意は、すごいと思いました。しかし、チェンケイカさんを引き取れなかったことは、多分一生くいに残ることです。帰国するときに、E君のおばあちゃんが、「三年間たって中国に帰れなかったら、それぞれ別々の人生を生きて行きましょう。景華のことは、よろしくお願いします。」と言った時は、きっとふくざつな気持ちだったと思います。遠藤君のおじいちゃんの血で書かれた手紙の部分を読むだけで、深い愛情を感じます。ぼくは、(はじめて読んだ時は、こわかったけど、何回も読んでいると、それが家族に対する思いやりなんだなあ。)と考えが変わって来ました。遠藤君のお母さんから見ればお父さんの大切な手紙です。遠藤君のおじいちゃんからすれば、遠藤君のお母さんをあずかりたかったかもしれない。しかし、遠藤君のおじいちゃんは、おなくなりになりました。

遠藤君へ

 今まで、本当のおじいちゃんだと思った人が、血がつながっていないと聞かされたら、びっくりする。それに、遠藤君の体に四分の一の血が流れていると聞かされたら、ぼくだったら、どうしたら良いのかがわからない。遠藤君は、あまりこの文を見せたくなかったと思う。

遠藤君のお母さんの気持ち

 とつぜん手紙が届き、お姉さんがいると知った時、おどろきとうれしさがあったと思う。ちょうど遠藤君のお母さんのさいしょの子どもが、肺炎(はいえん)でなくなった時だから、色々大変だったと思う。その時が、一九八六年だったそうです。E君のお母さんから見れば、本当の父がなくなったり、子どもがなくなったり、姉がとつぜんいるとわかったりして、びっくりしたと思う。本当のお父さんとお姉さんが中国にいたことなんかだれにも知られたくない。

ぼくの気持ち

 遠藤君の家族で、中国へ行ってほしい。親や姉妹に会えないなんて、どんな人だって会いたいと思う。しかし、中国に行くには、お金もかかる。それに、E君のおばあちゃんは、「三年たったら別々の人生を歩む。」と言って、チェンケイカ(陳景華)さんは、日本に連れて行けなかった事もある。少し気まずいけど、遠藤君は友達として、中国に行って、いとこやチェンケイカさんとそのご主人に会ってほしい。

遠藤君の作文を読んで

 遠藤君の「母の姉は中国に」という文を読んで、私は色んなことにびっくりした。まず、遠藤君の体の中にも、少し中国の血が流れていることと、実のおじいちゃんが、中国人だったってことだ。私は、(こんな身近な所に、戦争でこんな体験をしたおじいちゃん、おばあちゃんがいるんだなあ。一年生から今まで、ずっと同じクラスだった人に、こんなすごい人がいるなんて。)と思った。遠藤君のおばあちゃんは、食べ物に困ったりしなかったらしいけど、子どもを一人陳景華さんを中国に置いて行ってしまった。(もし、昭城ちゃんのお母さんと陳景華さん二人とも日本に連れて来られたらどうなっていたんだろう。昭城ちゃんのお母さんを中国に置いて行ってしまったら、昭城ちゃんは今この立花小学校のこのクラスにいなくなっちゃうんだ。昭城ちゃんは、戦争があって今このクラスにいるんだなあ。)といろいろ考えた。(昭城ちゃんは、この作文を書くのにどれだけ苦労したのだろう。書くのも大変だったけど、このおばあちゃん達の体験したことや、実のおじいちゃんが中国人だったこと。中国に自分のお母さんのお姉さんがいることを聞いた時、多分大変だったろうな。)と思った。
 私の祖母は、東京都の八丈島で戦争を体験した。沖縄みたいに外国になってしまいそうだったらしい。もし外国の島になっていたら、どうなっていたんだろう。私のおばあちゃんやおじいちゃん達は、だれかをなくしたり、つらいことを経験したりしているんだ。榎本先生から聞いたけど、この戦争体験を誰にも話さずになくなっていく人もいる。あまりにもざんこくな事をしてしまった人がそうなんだろうな。でも、この戦争の事を子孫に話していった方がいいな。そうしないと戦争というおそろしい事を人は忘れてしまう。語り続けていけば、戦争の恐ろしさをわかっている人達がたくさんいれば、とめられるかもしれない。遠藤君の作文を読んで、色んな事にびっくりしたり、知ったり、おどろいたりした。この作文を読めてとても良かった。

聞き書きに携わって

 人間としての生き方に、胸の中に熱いものが込み上げて来るものがあった。中国残留孤児が日本にやって来るたびに、どんな思いでその映像をご覧になっていたのだろうか。 遠藤君のお母さんは、三人の子どものうち、一人くらいは中国語を習ってほしいと話された。ご自分も中国語を習い初めているという事である。昭城君は、アメリカの大学に留学した。その後、北京大学に短期留学をし、半年間中国語を学んだ。
 やがて、おばあちゃんと一緒に母親が中国に行き、自分のお姉さんである陳景華(チェンケイカ)とも会うことが実現できたと言うことを、作者である遠藤君から直接聞いた。その時、慣れない通訳をしたそうだ。戦後六十二年経ってからおばあちゃんは、中国に行くことが出来た。この作品が出来たおかげですと、遠藤君の母親からも感謝された。今年の五月に、遠藤親子が我が家を訪れた。昨年おばあちゃんが亡くなられたこともお聞きした。
 この作品が一つのきっかけになり、本間繁輝さん(元『作文と教育』編集長)を団長にして、田中定幸さん(作文の会元副委員長・国分一太郎『教育』と『文学』研究会会長)と私が副団長で中国に出かけた。日中文化交流協会の援助もいただきながら、中国人民と有意義な交流が出来た。2005年8月4日から11日まで「日本教育者友好訪中団」として、17人の仲間で参加した。有意義の交流ができた。 

改めて聞き書きの意義を考える

  NHKのファミリーヒストリーという番組をよく見る。芸能人の家族の歴史を、本人にかわって、2代3代までさかのぼり、その人物がどんなふうに生きてきたのかを調べる。中には、100年以上さかのぼって、克明に調べたりしている。本人が、ほとんど知らないことばかりである。そこで改めて、自分が今生きていることが、貴重なことであることを再認識する番組である。その中の誰か一人でもかけてしまっいたら、今の自分自身は、この世に存在しないことになる。
 聞き書きの仕事も、それと共通することがある。自分が知らなかった昔の出来事を知ることができる。その知らない歴史のなかで、自分の両親のその前の人々は、どのように生きてきたか。70年以上さかのぼると、戦争中の暮らしにすべてたどり着く。
 戦争に巻きこまれたために、人生が大きく変わってしまった人々。戦争は幸せな家族の暮らしを根底から壊してしまう。平和は、人間が生きていく上で、もっとも基本的な権利である。
 なぜ戦争が起きてしまったのか。戦争は、ささいな出来事から始まる。昔は、新聞ラジオなどのマスコミが、時の権力の広告塔になっていた。教育も、大きな戦争協力者になっていた。様々なところから、平和がいつの間にかくずれていった。
 だからこそ、子どもたちに「何か変だな?」「どうしてそうなったんだろう?」と、いつも疑問を持つような子どもに育てたい。 
 戦争中の治安維持法は、時の権力に都合の悪い人々を、次々に逮捕していった。国分一太郎さんもその犠牲者の一人であった。

4,平和学習を学校ぐるみで。

全校で取り組んだ、平和教育学習

 福田稔さんの戦災孤児としての、戦争体験。福田さんは、語るときに、当時の服装をしながら、低学年でもよく分かる話し方をされた。以後、何回か、「全校の平和学習」で、お呼びした。このような聞き書きがうまく出来るのには、3つの条件がある。1つは、語り手が話が具体的で、分かりやすいこと 2つめは、本人が、じっくり相手の顔の表情などを見て、ていねいに話が聞けて、それを再現できる力がある。3つめは、それを応援する親や教師の励ましの力。この3つのどれかがかけると、「ひとまとまりのきちんとした文章にはならない」

平和な世界へ  東京都墨田区立立花小 4年 山口 美幸

「では、これから語りべの会を開こうと思います。」
と、司会の人が言いました。去年の十二月二十四日でした。その日、墨老連の、おじいさんおばあさんが、学校に来ていました。戦争の話は、いつも三月ごろの平和集会で、してもらうのですが、ちょうどこの機会にめぐまれたので、この会があるのです。イスを持ってせの順にならびました。そのまま二階の集会室へ行きました。パイプイスが、いっぱい後ろの方に置いてありました。一年生から六年生までが来て、座りました。司会の人が自己しょうかいして、墨老連の会長さんが、東京大空しゅうの話を少しして、
「東京のほかにも、色々な所がばくだんで、焼け野原になりました。これから語っていただく方たちは、どのような体験をしたのでしょうか。」
と言いました。私は、体育座りをしました。PTA会長さんが、あいさつをしました。(途中略)二人目の方のお話になりました。筆で書いてある題名の所には、
「信ちゃん」
と書いてありました。浅草の、終戦(敗戦)したころのお話をしてくれました。
「おじさんは、今七十四才です。その当時は、十六才でした。お母さんとお父さんを戦争で亡くして、先の方がとがったもので、たばこを拾い集めていたんです。」
と言いました。また、
「そのたばこの中に、すっていない所があるでしょう。その部分を集めて持っていくと、いま、浅草ロックスの横のあたりで、さつまいも一本か、ぞうすいと交かんしていました。お寺でねようと思い、人をかき分けて見つけたんです。しばらくつかれがたまっていたのでねていると、二本の足が私の上に乗っていました。よく見ると、となりの人の足だったので、起こしませんでした。次の日、起きてみると、となりをみたら、小学一年生くらいの男の子だったんです。その子が、題名の、『信ちゃん』なんです。」
と言いました。私は、
(その子が信ちゃんなんだ。)
と思いました。おじさんは、 
「その子が起きたみたいだったので、サツマイモを一本あげました。信ちゃんは、サツマイモを全部食べると思っていたのに、半分残していました。あとで食べようと思ったのでしょう。そろそろ行こうとした時、信ちゃんは私の服をつかんでいました。一緒に行くことにしました。それから、橋の上で固まっている子供四人に、出会いました。その子達は、『一緒に行かせて下さい。』と言ったので、その子達も仲間に入れてあげました。三人はたばこ拾い、三人はくつみがきをやりました。雨の日は困りました。くつみがきは人がこないし、たばこはぬれてしまっているのです。ある日上野駅で電車を降りてきた、田舎から来たらしいおじいさんとおばあさんがいて、大きいおにぎりを食べていたんです。私は、(信ちゃんには食べさせてあげたい。)と思ってたのみました。おじいさんは笑って、箱に入っていたおにぎりを、七個もくれました。私はすぐ信ちゃんにわたしました。信ちゃんはもらっても食べずに、じーっと見ていました。信ちゃんは、ほかの子たちの分も、分けていたのです。私は、《私は信ちゃんの事しか考えてなかった。》と思い、反せいしました。」
と言いました。私は、
(信ちゃんはそんなにやさしい子だったんだな。)
と思いました。おじさんは
「いつか、この続きを話したいと思います。」
と言いました。
 なぜこのような生活になってしまったのでしょうか。それは、一九四五年八月十五日に日本が戦争に負けて、家を焼かれ家族を亡くした人達は、みんな必死になってくらしていたのです。子供たちは生きていくために、必死で働いていたんです。戦争は、「人間の幸せ」を粉々にして苦しめるものです。イラクで今起きていることは、戦争と同じようなものです。毎日人がなくなっているのです。日本の自衛隊も、数日前に、サマワに着きました。
(関係のない人まで巻きこまれる戦争は、してはいけない。)
と、思います。しかも自衛隊は、先けん隊だけでなく、何百人以上もいる本隊を派けんすることに決まりました。私が見たニュースでは、子供がお父さんに、
「いってらっしゃい。」とか言っている所が映っていました。
(五十九年前のような事をくり返したくない。)と思います。そんなこと、私は絶対いやです。         

 原爆体験者の福地義直さんは、墨田区に住んでおられて、偶然知り合った方である。

原爆の悲劇 墨田区立緑小学校 5年 板東 孝訓

「この人が福地義直(ふくちよしなお)さんです。」
 六月二十五日(土)の三~四時間目、広島の原爆体験者(げんばくたいけんしゃ)で、当時爆心地(ばくしんち)から七百メートルのところにすんでいた福地義直さんが来ました。七百メートルだと、ふつうは黒こげになってしまいます。福地さんは、四年前に、広島に落ちた原爆「リトルボーイ」の模型を完成させ、それ以降、いろいろな学校に戦争体験の語りをしに行っています。榎本先生は、
「だんだん日本が戦争が、かっこいいというような雰囲気になってきたからだよ。」
と、言っていました。また、原爆の後遺症(こういしょう)で癌(がん)になってしまいました。ぼくは、
(やっぱり、奇跡的に生き残っても後遺症が残ってしまうんだな。)
と、思いました。
 八月五日、福地さんは、お父さんと交代して、疎開先(そかいさき)から市内にお母さんと妹といっしょにもどってきていました。その日、放送で、明日広島に大空襲があると言っていました。福地さんは、いつ空襲されても良いように下着一枚で寝ました。
 八月六日、起きても何ともなく、福地さんは安心し、勤労動員(きんろうどういん)に行こうと準備を始めました。八時十五分ごろ、いきなりピカッと光りました。本当はドンという音がしたそうですが、福地さんには聞こえませんでした。ぼくは、
(耳が聞き取れないくらい大きかったんだな。)
気がつくと福地さんは家の下じきになっていました。福地さんは、自分の体にささっていた釘(くぎ)をぬき、どうにかぬけ出そうとしました。福地さんは、
「痛いとは感じませんでした。」と、言っていました。ぼくは、
(釘をぬいて痛くないなんて、よっぽどぬけ出したくて必死だったんだな。)
と、思いました。やっとのことでぬけ出して、福地さんはお母さんを探しました。すると、お母さんも家の下じきになっていました。
「引き出したら、お化けみたいに血を出して、おでこから骨がでててね・・・・・・。」
と、福地さんは、言っていました。ぼくは、
(自分の母親がそんなことになったらショック)と、思い、ぞっとしました。お母さんが、
「妹は?」と、言ったので、福地さんは妹のことを思い出しました。妹は、隣(となり)の本屋で遊んでいて、ちょうどその下に防空壕(ぼうくうごう)があり、そこに入っていました。しかし、家がたおれて下じきになってしまいました。福地さんは、必死で家を造っていた木をどかそうとしました。しかし、複雑にからみ合ってなかなか動きません。福地さんは力の限り、引っ張りました。すると、少しだけ木が動きました。そこから妹を助け出し、やっとお父さん以外の家族三人が揃いました。ぼくは、
(火事場の馬鹿力(ばかぢから)って言う諺もあるからな。でも、三人とも生きているなんて運が良い。)
と、しみじみ思いました。福地さんはお母さんと妹を背負って逃げましたが、人を二人背負っているため殆ど動けず、いくら歩いてもなかなか進みません。途中に兵隊が二人立っていて、その人たちに、
「こっちはだめだ。戻れ。」
と、言われてしまいました。ぼくは、
(苦労してここまで歩いてきたのに。)
と、思いました。福地さんたちは、また元来た方向に歩き出しました。少し歩くと、事務(じむ)の仕事をしていたらしい女子学生が、家の下じきになっていて、
「助けて~!」
と、さけんでいました。福地さんは、その女子学生も引っ張り出してまた歩き出しました。
ぼくは、
(自分のことだけで精一杯(せいいっぱい)なのに、見ず知らずの他人を助けてあげるなんて優しいな。)
と、思いました。しばらく歩くと、病院がありましたが、ドアのかぎが開かなく、困っていました。しかし、看護師の人が窓(まど)から入って薬をとってきてくれました。福地さんは、
「わたしはほかの人より気づくのが早かったんですよ。」
と、言っていました。ぼくは、
(もっと気づくのがおそかったらこんな体験は聞かせてもらえなかったんだな。)
と、思いました。福地さんのお母さんは、その医者に赤チンのようなものをぬってもらい、カーテンを破って包帯にしてもらいました。しかし、女子学生の方は治療の方法がないと、医者は首をふるだけでした。もう少し歩くと、赤十字病院(せきじゅうじびょういん)があり、その近くの空き地に三枚の襖(ふすま)で日かげを作ってお母さんたちを寝かせました。福地さんは赤十字の兵隊さんが持っていた胡瓜(きゅうり)がどうしても欲しくなり、分けてくれないかと頼みました。すると、兵隊さんは二本分けてくれました。ぼくは、
(兵隊さんも貴重な胡瓜を二本も分けてくれるなんて優しい。)
と、思いました。また、福地さんは市電の中で脱脂綿(だっしめん)を見つけ、お母さんたちに分けるために持っていきました。ここにいてもしょうがないので、福地さんは、お父さんがいるかもしれない疎開先へ電車で行くことを提案しました。そこで、赤十字の人から下駄を四足もらいました。
「でも、母親が、痛いからといって乗りたがらなかったんだよ。」
と、福地さんはいっていました。ぼくは、
(福地さんも、怪我(けが)をしている母の反対を押しきって乗るのは辛(つら)かったんだろうな。)
と、思いました。しかし、結局はその電車に乗って疎開先へ行き、疎開先へいってその日は過ごしました。
 お父さんはそれ以来行方不明となっています。そのことを話すとき、福地さんは目に涙をうかべていました。しかし、お母さんは回復して、長生きしました。ぼくは、
(人の生命力はすごいなぁ。)と、思いました。
 二十四万人もの命を奪(うば)った核兵器(かくへいき)は、未(いま)だにアメリカや中国などで保有(ほゆう)されています。こんな酷(ひど)い兵器を二度と使わせないためには福地さんのような体験者が次の世代、また次の世代と伝えていかなければなりません。ぼくは、この話を聞いて、改めて戦争の恐(おそ)ろしさを思い知りました。福地さん、ありがとうございます。

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