子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

第62回日本作文の会全国大会・埼玉・関東大会・作品集

第62回日本作文の会全国大会・埼玉・関東大会・作品集

⑳平和・いのちの学習と作文教育

人権集会作品集 名前は全て仮名

2006年度

作品① 私は負けない 6年   女子

 今から六年前、私が堤小学校に入学した頃の春、保育園では言われたことのないような言葉を言われた。入学したばっかりの時、何人かの子に、
「亜紀ちゃんは,どうして左手がないの。」
といわれました。わたしはいつも、
「お母さんのおなかの中に、忘れてきちゃったの。」
と言って答えました。私はこの時は、あまり左手のことで言われてなかったのに、二年生になったときに、いろいろと悪口を言われるようになりました。何人かの子に,
「身体障害者。」
と言われました。私は,初めてこの言葉を聞いた時は、
(何を言っているのかな。身体って何、障害者って何だろう。)
 ずっと思いながら、学童クラブから、家に帰ってきました。私はこの時は身体障害者という言葉を気にしていませんでした。けれど,さすがに何回も言われると、気になってしまって,お母さんに聞いてみました。
「ママ、身体障害者って、どういう意味なのかわかる。」
と聞きました。そうすると。お母さんは、私のところまで来て、やさしく言ってくれました。
「亜紀みたいに、手がない人や体が自由に動かない人のことだよ。でも、亜紀は、そういうことを言われても、気にしないで、前向きでいなさい。」
 私は、この言葉を聞いて、とても安心しました。
 それから四年後、私は小学校六年生になりました。これまでの四年間は、あまりいやな言葉は言われませんでした。だけど、六年になってから、いきなりいやなことを言われるようになりました。
 12月4日、月曜日の図工の時間が終わって、教室にもどっていたとき、後ろから山田君たちが、
「こいつにさわられたら、ゲームオーバーだ。」
と大きな声で言い出しました。
(何を言ってんだろうたち。うち何か言ったけ。)
 私はそう思いながら歩いていたら、山田君といっしょにいた大木君や水本君がいきなり走ってにげてしまいました。私は意味がわかんなかったので、山田君たちを走って追いかけました。けれど私は、足がおそいので、にげられてしまいました。
 次の日学校に行ったら、山田君の行ってたことが、クラスの男子に広がっていました。
(うわ。ヤバイなって言うより、何でこんなに広がってんの。)
 私は、そう思いました。さらに田中君には、
「うわ。バイキンマン来るな。」
と言われました。私は、何で言われたのかが、全くわからなかったので、気にしていませんでした。だけどその日の五・六時間目の家庭科の時間に、作業しているところに、田中君がきて、わたしの座っていたいすをひいて、わたしをイスから落としました。私は、涙目になりながら、
「おい田中。何でこんなことをするんだよ。」
とおこって言いました。すると、田中君は、
「おれ、やってねえよ。」
と言い返してきました。私はその後、
(またなんかやられないかな。やられたらどうしよう。)
と思って、とても不安で集中して作業ができませんでした。
 次の日のそうじが終わった後、やはり同じ事を言われました。
(まったく。こりないやつだな。)
と思いながら、言葉の意味が知りたくて、男子をおいかけまわしました。後ろの方から、
「亜紀、相手にしないほうが良いよ。」
と言う声が聞こえたので、ふり返ったら、姉の真紀がいました。私は、真紀に服を引っ張られながら、教室にもどりました。
(男子の言っている言葉も気になるけど、彩香の言うとおり、相手にしなければいいのかな。)
と思いながら、五時間目の授業を受けました。

2007年度

作品② いじめをされたこと 三年一組  男子

 学芸会の少し前のことでした。昼休みに友達が、サッカーをやっていました。ぼくは、サッカーがやりたくなったので、大木さんに、
「ぼくもいれて。」
といいました。けれど大木さんは、ぼくの方を向いて、すぐサッカーを始めちゃいました。ぼくが聞いていたのに、だまってひろしさんの方に行ってしまいました。ぼくが、一番きらいな、こしょこしょばなしを大木さんが、ひろしさんにしました。ぼくは、
(ぜったい、こしょこしょばなしをするぞ。)
と思っていました。大木さんは、だまってサッカーをやっていました。
「いれてよ。」
と何回いってもむだでした。ぼくは、かなしくなって、泣いてしまいました。しかし、十分くらい泣いていても、だれも気づいてくれませんでした。だけど、やっと四年生の宮本くんが、ぼくのそばにきて、
「よしゆき、だいじょうぶ。」
と言ってくれました。けれど宮本くんがつよく、ぼくの首をしめたので、また泣いてしまいました。ぼくは、心の中で、
(ぜったい、しかえししてやる。)
と宮本くんにたいして、くやしいきもちでした。少したつと、宮本くんは、いなくなりました。ちょうどその時、ひるやすみの終わりのチャイムがなりました。ぼくは、なくのをやっとこらえて、きょうしつにもどりました。
 つぎのじゅぎょうは、がくげいかいのれんしゅうでした。だけど、ぼくの心には、きずがついて、楽しくもないし、うれしくもないし、元気もないし、声もひくくなりました。
 じゅぎょうがおわって、心細く一人でかえりました。その時、かたをたたいてくれたのが、こしょこしょばなしをした森ひろししさんでした。
「さっきは、ごめんね。」
といってきました。ぼくは、
「もう、二度とやらない。」
とひくい声で、ひろしさんにいいかえしました。ひろしさんは、
「二度とやらないから、かえろう。」
と言ってくれました。ぼくは、
「かえろう。」
と、きもちがすっきりしたから、高い声で言いました。それで、いっしょにかえりました。

2008年度

作品③ 養護施設に、行くことになったこと  6年 男子

 僕の母は、体が丈夫ではありません。僕が2年生の時、母は腰を悪くしました。病院に行ってレントゲンをとりました。医者からは、一ヶ月の入院だと言われてしまいました。僕の家は三人家族でした。姉も五年生だったので、一緒に養護施設に行くことになりました。母は、とても悲しみました。

養護施設に入った日

 10月21日に、養護施設に行くことになりました。僕は、2年生だったから、預かってもらう事の意味が分かりませんでした。預かってもらうところの建物の前に行ったとき、僕は、
(泊まるんだなあ。)
と思い、思わず泣いてしまいました。母も目に涙を浮かべていました。でも、預かってくれる人が、
「お母さんが困っているよ。中に入ったら、いっぱい泣いていいんだからね。」と言いました。僕は心の中で、
(そうだなあ。)
と思っていました。だから、僕と姉は笑って、
「バイバイ。」
と言うと、母も、
「バイバイ。」
と、別れました。

養護施設の部屋

 部屋は、男女別々でした。だから、初めは僕一人で遊んでいました。姉は、女子の部屋に行きました。僕は、一人ぼっちだったけれど、みんなが遊びに誘ってくれました。みんなと言っても十人だけでした。トランプゲームをして遊びました。僕は、トランプが苦手だったので負けてしまいました。最後は、みんなが僕を勝たせてくれました。夜は五人で寝ました。一週間経つと、運動会がありました。障害物レースがありました。僕は一位になって、みんなに、
「一位なんて、すごいね。」
と言われました。その日をさかいに、僕はトランプなどのゲームによく誘われるようになりました。でも、僕の心は悲しくもなっていきました。施設を離れる日が近づいたからでした。最後の日の朝、僕は友達から、
「トランプしない?」
と、誘われました。
「するよ。」
と言って、僕はみんなと遊んでいました。窓の外を見ると、僕の母が来ていました。母の顔を見たとき、僕はうれしくなりました。養護施設の人に、
「もう来たから、帰る用意してね。」
と言われました。一階に下りて、母に会いました。養護施設の人に、
「ありがとうございました。」
と、お礼を言いました。それから、自分の家に帰りました。

初めてお世話になった家

 4年生になり、母の腰がまた悪くなりました。今度は、施設ではなく普通の家に預かってもらうことになりました。その家の人は、社長さんでした。家族は、社長さんとその奥さんの二人だけでした。やはり僕と姉の2人で、そこの家に預かってもらうことになりました。土曜日や日曜日になると、社長さんが運転をして、ドライブを楽しみました。アスレチックや遊園地などに連れていってもらいました。行けば必ず、食事をしておみやげなどを買ってくれました。
 僕は、社長さんの工場に行きました。そこで、車に積んである荷物を下ろしたり、運んだりしました。1回に2時間くらい働きました。終わると、近くのデパートに連れて行ってくれました。そこで、ジュースやアイスを買ってくれました。また、誕生日には、ケーキと飲み物を用意してくれました。誕生日プレゼントも買ってくれました。プレゼントは、熊の人形でした。その熊は、洋服を着ていて、サラリーマンみたいなかっこうをしていました。今でも、大事に机の上に飾ってあります。その人形を見ると、その人たちと過ごした一ヶ月のことを思い出します。
 この1ヶ月間は、社長さんの家から堤小学校まで、バスで通っていました。2回バスに乗り換えて登校しました。一時間くらいかかりました。とても親切にされたので、別れるときは悲しかったです。
 母が、その家に迎えに来てくれました。社長さんの奥さんが、僕たち三人を、
「車で家まで送ってあげたら。」
と言ってくれました。奥さんも一緒に、車に乗って送ってくれました。家に着いた時、僕は、泣きながらその人たちに、
「一ヶ月、預かってくれて、ありがとうございました。」
と、お礼の言葉を姉と二人で言いました。奥さんは姉を抱きしめ、社長さんは僕を抱きしめてくれました。社長さんたちも泣きながらお別れしました。
 僕は、この六年間に多くの人に親切にしてもらい、お世話になりました。大人になったら、その人たちに、お礼のあいさつをしに行きたいです。そして、母親にも親孝行をしたいと思います。
 もうじき卒業していきます。感謝の心を忘れないようにして暮らしていきます。

2009年度

作品④ いやがらせをされたこと  4年  男子

 11月17日の給食のときのことでした。ぼくは担任の山中先生からトイレットペーパーのしんをもらいました。それでロボットを作ろうと思ったからです。
 そうじの時間に、ぼくはそのトイレットペーパーのしんを手に持って、ほうきで教室をはいていました。するとぼくはトイレットペーパーのしんをゆかに落としてしまいました。ぼくがそれをひろおうとしたら、それを見ていた春山くんがほうきでトイレットペーパーのしんをうって、ひろえないようにじゃまをしてきました。ぼくが春山くんを追いかけてトイレットペーパーのしんを取り返そうとしました。すると道彦くんと遠山くんも入ってきて、三人でぼくのじゃまをしてきました。三対一だったので、ぼくは取り返すことができませんでした。すると遠山くんが、
「ふんじゃおう!」
と言いました。それを聞いたぼくは、
「ふむな!」
と何回も言いました。でも、道彦くんと遠山くんがぼくの言うことを気にしないで、わざとわらいながらふんでしまいました。トイレットペーパーのしんは、ぺちゃんこにつぶれてしまいました。山中先生からやっともらって大切にしていたものだったのに、
(なんでわざとふむんだよ。)
とすごくいやな気持ちがしました。ぼくはくやしくて泣いてしまいました。
 すると山中先生がきました。
「どうしたの?」
と聞かれたので、ぼくは、
「先生にもらったトイレットペーパーのしんを、道彦くんと遠山くんにふまれた。」
と言いました。そうしたら、山中先生がすごくおこりました。山中先生は道彦くんと遠山くんと春山くんに、
「祐次くんのトイレットペーパーのしんをつぶして楽しかったか?」
と聞きました。道彦くんと遠山くんと春山くんはだまったまま何も言いませんでした。そして先生は、
「祐次くんはつぶされてどうだった?」
とぼくに聞いてきました。ぼくは、
「いやだった。」
と言いました。すると山中先生はもっと大きな声で、
「さいていだよ。人がいやがることをして楽しむんじゃねえよ!」
と道彦くんと遠山くんと春山くんにどなりました。道彦くんと遠山くんと春山くんはだまって聞いていました。おこられたあと、道彦くんと遠山くんと春山くんが、
「ごめんね。」
とあやまってくれました。きちんとあやまってくれたので、ぼくは、
「いいよ。」
と言いました。

2010年度

作品⑤ ぼくが不登校と言われていやだったこと 5年 男子

 10月19日火曜日の三時間目のことです。 その時、担任の小沢先生は、二人目の子供が生まれる 予定だったので、きゅうかを取りました。 なので、かわりに、4年生の担任の松井先生が来ました。 少したって、桜井先生が、
「手紙あるから、今、配っちゃうからね。」
と言いました。桜井先生が手紙を配りました。 その中に、
「不登校・引きこもりへの対応。」
という手紙 が配られました。その題名を見て、友だちの杉本君となつき君と敬子ちゃんが、ぼくに対して悪口を言ってきました。さいしょ敬子ちゃんが、
「これ、和君じゃん。」
と言いました。その次、なつき君が、
「たしかに。」
と言いました。その後、杉本君が、
「あいつじゃん。」
と言いました。
(ぜったい、ぼくのことだ。)
と思いました。 その後、また、敬子ちゃんが、
「和君におすすめだよ。」
と言った後に、その三人が、
「そうだよ、おすすめだよ。」
と言ってきたので、ぼくは、
(なんだし、うざっ。)
と思いました。配られた手紙に、
(何で、こんな手紙がこの世にあるんだし。)
と思って、手紙をにくみました。ぼくは、その後、
少しいやな顔をしました。 なつおさんは、ぼくが少しいやな顔をしたことに、 気づいていたのか、ちょっとだまりました。
 学校が終わっても、少しいらいらしてたので、 ばれないところで、思いっきり、大きな声で、
「ああああ。」
と1回さけびました。それでも、気がすまないばあいは、 家で、まくらを少し上に投げて、思いっきりそのまくらを一回なぐります。こういうときは、家の人が部屋にいないときにやっています。ばれるといやなので、そうしているのです。
 こんなことが、今まで何回かありました。それで、火曜日は、気がすみました。その後、ねました。
 きょうあったようなことは、けっこうよく言われてい ます。たとえば、朝早くおくれずに、学校にきて教室にはいると、
「宿題やった。」
と言います。やってこなかったときは、せめられてしまいます。よく言う人は、杉本君、笹君、夏樹君、近藤君が言ってきます。
 今日の4時間目に、小沢先生が、そのことを話しました。小沢先生は、ぼくのことを、
「不登校ではありません。」
と言ってくれました。
 話し合いが終わってから、夏樹君が近い席だったので、
「ごめんね。」
とあやまりに来てくれました。ななめ前にいた杉本君も、
「きのうごめんね。」
とあやまってくれました。それで、みんなが反省してくれたので、
(よかったなあ。)
と思いました

作品⑥ ぼくの母は、卒業式には来ない  六年  男子  

 僕は、今、父と姉二人の四人暮らしです。でも前は、父ではなく、母と四人で暮らしていました。 僕は、母の知り合いの家に泊まっていました。 そのとき、僕はまだ、五才でした。 遊んで疲れたのか、母のヒザで、寝てしまいました。
 少したち、僕が、起きて前を、見ると、 変なおじさんがいました。僕は、母に、
「この、おじさんだれ。」      
と聞きました。母は、
「太郎のパパだよ。」
と、いきなり、言われたので、僕は、ビックリしました。

約束が破られてしまった

 それから、次の日、僕は、父と母と姉二人の五人家族にもどって、暮らすことになりました。でも、僕は、
(うれしいけど、お父さんって呼びずらいなあ。)
と思いました。
 数日後、久しぶりに家族で、食べに行く予定になっていました。
 次の日の夜、父は、約束の時間には、帰って来ませんでした。でも、それは、しょうがない事なのです。父は本当は、帰って来たいけど、仕事が忙しいから帰って来れませんでした。母が、怒って、
「出ていく。」
と言って、お金とカードを置いて出ていこうとしました。僕は、
「出ていかないでよう。」
と泣きながら言いました。でも、母は、
「ダメ」
と言われました。僕は、
「だったら、おれも、連れてってよ。」
と言ったけれど、母は、
「ダメ」
と言ってそのまま、出ていってしまいました。僕は、父が、帰って来るまで、ずっと、家で泣いていました。姉二人は、だまって、ぼくといっしょにいてくれました。

保育園の卒業式

 僕は、保育園の卒業式は、
「来るかなあ、来るかなあ。」 
と、母が来ることを、ずっと思ってました。でも、母は来ませんでした。その代わり、父が卒業を祝って、来てくれました。

堤小への入学

 1年生の、入学式にも、母は来ませんでした。その代わり、父がまた来てくれました。その時に、僕は、
「もしかして、鹿児島に帰ったのかな。」
と思いました。母のふるさとは、鹿児島県なのです。父も、同じ鹿児島県出身です。
「もう、一生会えないのかな。」
と思いました。でも、会えるチャンスが来ました。

鹿児島行きの話し合い

 夏休みにはいる少し前に、父が、いきなり僕に向かって、
「お姉ちゃんたち、呼んできて。」
と言いました。僕は、2人の姉の部屋に行き、父がいるところへ連れていきました。父が、
「鹿児島に帰る。」
と、みんなに言いました。僕は、
(もしかしたら、お母さんに会えるかもしれない。)
と思いました。だから僕は、
「行く。」
とすぐに返事をしました。二人の姉は、予定があるかわからないので、すぐには返事はしませんでした。
 それから、何日かして、この鹿児島行きは、実現することになりました。

久しぶりの鹿児島県への旅行

 父は、鹿児島に住んでいる母の妹に、ちょくちょくメールをしていました。僕からみると、おばさんに当たります。いよいよ六年生の夏休み、家族みんなで、鹿児島に旅行に行くことになりました。僕は、
(よっしゃあ、やっとお母さんに会える。)
と思いました。僕の、心の中で、はしゃいでいました。
 ぼくたち家族は、飛行機で羽田から、鹿児島空港に行きました。着いてからは、レンタカーを借りて、とまるホテルまで行きました。
(いよいよ、お母さんに会える。)
と思うと、心がドキドキしてきました。しかし、母の妹は、母とケンカをしていました。理由は、はっきりしていませんが、母とは、会えませんでした。 僕は、とてもがっかりしました。

あと4か月で卒業式

(じゃあ、小学校の卒業式にも、来ないのかなあ。)
とずっと悲しい気持ちに、なりながら帰りました。今では、母の事は、忘れて、楽しく暮らしています。母より、父の方が、僕や、姉二人を、大事に育てています。大事な家族です。でも、母との思い出や家族五人でいた、思い出を、いつまでも忘れたくは、ありません。でも時々、ほんとに、母に会いたいです。
 学校の生活は、父も母も知りません。父には、時々言いますが、母にも、知ってもらいたいです。でも、心の底では、また、五人で暮らしたいです。それが、かなったら、もっと、楽しい生活になるでしょう。

6年生の作品を、他の学年の児童は、どう受け止めたか。

作品⑦ 私の家族     三年 女子 

 昨日、人権集会がありました。私は、三年生の代表でした。六年生の代表は、太郎さんでした。太郎さんは、お母さんのいないことを書いていました。その作文を読んでいるとちゅうに、私は、
(私は、お父さんがいないなあ。)
と思いました。私は、年長さんくらいまで、長野県にいました。そのころまだ、私のかぞくは、四人家族でした。三才くらいの時、母がごはんを作っていました。作り終わって、私がつくえにはこびました。父がごはんを食べようとしました。そしたら、ごはんの中に、かみの毛が一本はいっていました。父が、
「ごはんもういらない。」
と言いました。母は、何も言いませんでした。私は、
(何で食べないんだろう。かみの毛をとって食べればいいのに。)
と思いました。ごはんの中に、かみのけが、入っていることが、なぜか多くなりました。 私は、年長さんになりました。そのときは、わたしのおばあちゃんのああちゃんが家にいました。母は今までのことを、ああちゃんに言いました。その時、母は、けついしました。母は、
「長野を出て、東京に行こう。」
と言いました。つづけて、
「MとTは、どっちについていく?」
と聞きました。私と兄のTは、ちょっとだまっていました。わたしと兄は、
「ママに、ついて行く。」
と言いました。私と母と、兄とああちゃんは、そっと家を出ました。私の友だちの母の車に乗せてもらって、駅に行きました。四人は、友だちのお母さんにお礼を言って、電車に乗って、東京に行きました。
 一週間くらいして、長野に行って、東京にひっこしました。私は、新しいようちえんに行きました。兄は、今もいる堤小学校に行きました。母と父は、まだりこんしていないので、私は、
(りこんするのかなあ。)
と思いました。その後、私は、この堤小学校に来ました。今の生活ではなく、長野での学校はどうだったのか、ぎもんです。たまに長野の友だちに手紙を送ったりします。

作品⑧  あまり聞きたくなかった 4年 女子

 2月17日に、人権集会がありました。1年生から6年生までの人の作文で、えらばれた一人一人が読む集会でした。私が聞きたくなかったのは、6年生のKさんの作文でした。6年生の作文は、母がいないことの作文でした。私も父がいません。ようちえんの時からです。私は、楽しいことを考えて、六年生のKさんの作文を聞かないようにしましたが、父のことを思い出してしまいました。六年生のひとは、母がいないことですが、私は、父がいないのです。ようちえんの行事で、母の日や父の日がありました。母の日は、ようちえんで、私たちのいろいろなお母さんたちが、来てくれるぎょうじです。母の日の時は、母が来てくれました。父の日は、ようちえんを休んでいました。なぜなら、父がいないからです。私だけいないのは、とてもつらいからです。ようちえんは、年少、年中、年長があって、私は、年中からようちえんに入っていました。年中の時は、母の日は行きましたが、もう年長になってからは、母の日も父の日も、ようちえんを休みました。母が、
「今日は、母の日だけど、父の日も行かないよ。一人だけお父さんがいないのは、いやでしょ。」
と言われたのは、今でもずっとおぼえています。年中の時、母のと父のための手紙みたいのを作る時がありました。私は、少しかなしくなりました。母の手紙の用紙は、ピンクで、父の手紙の用紙は、青でした。私の父は、青が大好きでした。私は、父がいませんが、六年生の太郎さんは、母がいないと聞いて、
(わたしよりつらいのかなあ。)
と思いました。母は、何でもやってくれます。でも、そんな母がいなくなるのは、つらいと思います。私もようちえんのそつえん式は、母だけでした。でも、母がいてくれただけで、私は、うれしかったです。そんなことをずっと思って、六年生の作文をきいていたら、六年生の作文は、終わってしまいました。こんな人権の作文は、聞きたくありませんでした。父は、よく高い高いという、上に高くなげてキャッチしてくれるのが大好きでした。私は、母がいます。だから、母をもっと大切に生活したいです。

作品⑨  堤小に転校してきたのは 5年  男子 

 僕は、二年生の九月に堤小へ、長野県から転校して来ました。
 なぜ堤小に転校してきたかというと、長野県にいたときの事です。その時は、一年生になるちょっと前の月に、長野の県ないから引っ越しきました。それまでは、マンションに住んでいました。一軒家に、僕、妹、母、父の四人で暮らしていました。
 父は、その日くらいから様子が変でした。どこがおかしいかというと、怒ったり、ほめたりするする普通の人だったのに、その時から気が短くなりました。
 たとえば、母が作った食べ物に、髪が一本入っているだけで、
「なんで髪が入っているんだ!もうこんなの食べない。」
などと言って、その食べ物が入った皿を、床に投げつけて、皿を割ったたりしていました。僕は、いつも、
(なんでそんな事で、お皿を割ったりするんだろう?)
と、思っていました。それが日に日にひどくなってきました。
 僕は、ただ手がすべって、お皿を落としただけで、父に殴られる事もありました。 
 一年生の終わりごろ、僕がまたお皿をテーブルから落としてしまった時は、もっとひどく、一時間正座させられた事もありました。
 その次の日、母が僕を呼び、話をしました。 その話の内容は、その時住んでいた家から僕と母と妹で、母の祖母(母と母)と祖父(母の父)が住んでいる東京に逃げるという事でした。
 僕は、学校の友達と別れるのが嫌だったので、
「嫌だ。」
と答えました。
 それから、二週間ほどたち父が、仕事でアメリカの、ニューヨークへ行った時、母のケータイに一通のメールがとどきました。
 その内容は父からで「今、飛行機に乗っています。」という事でした。そのメールを見て、僕と母と妹で、
「この飛行機、海に落ちてパパ死ねばいいのにね。」
となってほしい事を三人で言いました。
 しかしその飛行機は、海には落ちませんでした。母は、父が無事だったことをメールで知り、
「なんだよ!」
と言いました。 
 それから、僕は二年生になりました。父の気の短さは、またひどくなりました。ついに六月ごろ母は、僕に、
「もうこの家からを出よう。」
と言いました。ぼくは、
「友達と別れるんでしょ。」
と言いました。母は、
「ママは、もう限界だな。じゃあ一週間だけ東京へ、行って見よう。」
と言いました。僕は、
「うーん。わかった。」
と言いました。 
 祖母と祖父に連らくし、7月に東京に1週間行くことになりました。僕は、学校を一週間休みました。僕たちは、父に見つからないように東京へ行く準備をしました。なぜ父に見つからないようにするかというと、また父になんかやられるからです。東京へ行くとき祖父と祖母と長野の家の近くで、待ち合わせをし、その時間に家を出て、母が家で昼寝をしている父に、
「今から一週間、東京に行くから。」
と言い、二十秒くらい待ちました。父は、パンツ一っちょで、寝ているので外に出られませんでした。僕は、無言で祖母と祖父の所へ行き、タクシーで駅に向かいました。電車に乗って、東京駅に着きました。そこからまた電車にのって、鐘ヶ淵駅に着きました。そこから歩いて、祖母と祖父の住んでいる団地に行きました。
 僕たちは、長野に戻った後の事を話しながら、そこで一週間いました。
 ついに長野に戻る時、僕は、
(帰りたくないなあ。)
と、思っていました。長野の家に着き、僕たちは家に入りました。すると母たちは、一階で話を始めました。僕と妹は、二階で遊んでいました。一時間くらいして、話しが終わると、父が僕に、
「豊!最近きっていなかった髪を切りに行こう!」
と言ってきました。僕は、
「行かない!。」
とは言えず、強引に、僕を車に乗せました。すると、父は、
「あっ!家のカギを忘れた!」
と言い、家に戻って行きました。
 一分くらいして母と祖母が来て、僕を車から降ろして、僕に、
「豊!なんで車に乗っているの?」
と聞きました。僕は、
「パパが、髪を切ろうって言って、車に乗せたの。」
と言いました。すると父が、
「何やってんだ!早く車に乗って、髪切りに行くぞ!」
と言いました。母は、
「何言ってんの!行くわけないじゃん。一週間、何でいなかったかわかってんの。」
と言うと、父は、
「はぁ~?お前こそ、なに言ってんの。」
と言い合いを始めてしまいました。しばらくすると、言い合いがとまり、母と父と祖母と祖父は、また話を始めました。しばらくすると、母が僕に、
「豊。もうパパと会えなくてもいい?」
と聞いてきました。僕は、
「うん。いいよ。」
と答えました。母は、
「学校変わるんだよ、わかってんの?」
と言いました。僕は、
「うん。わかってる。パパと離れられるなら。」
と言いました。母は、
「じゃあ、じいじ(母の父)と東京に行く。」と聞きました。僕は、
「うん。でもママたちは?」
と言いました。母は、
「パパともうちょっと話してから。たぶん明日には、帰るから。」
と言いました。僕は、
「わかった。」
と言い、一時間後。祖父の車に乗る時、母が、
「荷物は、トラックで来るから。」
と言いました。妹と母と祖母の三人は、残りました。僕は、
「うん。」
と言い、祖父二人で、東京に祖父の車で、行きました。
 その次の日、母たちが東京に来ました。僕は、
「パパともう別れたんだよね。」
と聞きました。母は、
「そうだよ。」
と言いました。僕は、ほっとしました。
 それから一週間たちました。母が、
「学校どこにする?」
と聞きました。僕は、
「なるべく近いところがいい。」
と言いました。すると、祖母が、
「堤がいいんじゃない?」
と言いました。母が、
「ああ、いいね。」
と言いました。ボクは、
「どこそこ?」
と聞きました。母が
「ママが通っていた小学校だよ。ここからすごく近いし、そこにしたら。」
と言いました。僕は、
「うん、いいね。」
と言いました。
 僕が転校する学校は、堤小学校に決まりました。そして僕は、堤小に行くことになったのです。

指導題目 学校生活や、家に帰ってから、友達との事でいやな思い出を書いてみよう。

作品⑩ 頭がはげになってしまった過去

     墨田区立堤小学校 5年男子   ぼくが三年生の五,六月になったころのことでした。二年生の担任は、K先生という男の先生でした。三年生の担任は、一年生の担任だったS先生に、再びなりました。
(また、同じ先生で良かったな。)
と思いました。クラスは、一クラスなので、同じ友達でした。クラスの班決めをし、六人一組の班になりました。この班で、給食当番やそうじ当番をやりました。最初の班の時は、仲の良い友達で、けっこう楽しんでやっていました。何回かの席がえで、新しい班になりました。Aちゃん、Bちゃん、それとはっきりしないけど、男子二人の五人の班になりました。最初は、何もなく楽しんでやっていました。やがてある日、自分のえんぴつがなくなったり、テーブルクロスやハンカチなどがなくなりました。
 ある時、こんなこともありました。ぼくは、気づかなかったけれど、ぞうきんがなくなっていたのです。何気なく、机の横を見たら、なかったはずのぞうきんが、かかっていたのです。その時初めて、ぞうきんがかくされ、元に戻っていたことに気がついたのです。ある時は、テーブルクロスをぼくの目の前で、取り上げられました。僕は、
「返してよ。」
とAちゃんとBちゃんから、取ろうとします。すると、そのテーブルクロスを他の人に渡してしまうのです。渡された人の所に、
「返してよ。返してよ。」
と何度も言いました。泣きたいのをがまんして、取り返そうとするけども、返してくれません。S先生に言おうとすると、Aちゃんは、
「じゃあ、返してやるよ。」
と、少し強めにいやな感じに僕に言ってきました。本当に、いやなのは、こっちなのに、何か逆切れしているみたいで、僕がイライラしてきてしまうのです。こんなことが、何回も続きました。担任のS先生に言う前に、解決をしていたのです。だけど、僕の心の中はいつも、モヤモヤしていました。
 また、えんぴつがなくなる時もありました。授業中、よそ見をしていると、となりのAちゃんがさっと、筆箱から、鉛筆を取り、知らん顔をしているのです。僕が見ると両手を後ろに回しているのです。ばれると、筆箱の中にもどしてくれるのです。こういうことが毎日のように起きました。だから僕は、学校に行きたくなくなりました。でも、学校は休まず、行きました。母には、そのうちになくなると思って、話しませんでした。
 ある時、僕のかみのけをイライラしてさわっていると、自分の机の上に、かみのけが少し落ちてきました。家に帰って、母に、
「なんか、最近、かみの毛がぬけるんだけど。」
と言いました。母は、
「ええ。」
と言って、
「ちょっと頭、見せて。」
と言って、僕の頭を見てくれました。すると、
「頭のてっぺん、ハゲてるよ。」
と教えてくれました。
 次の日、さっそく病院に行きました。病院の先生が、
「何かいやなことがありましたか。」
と聞かれたので、僕は学校であった、物がなくなったり、からかわれたりされたことを、先生と母に言いました。病院の先生によると、ストレスが原因でかみのけがぬけるということでした。その日は、薬をもらって帰りました。
 その後、学校に行くと僕の頭を見て、理由を知らない5年、6年の人たちが、
「ここ、ハゲてるよ。」
と笑いながら、からかわれました。そういうときは、ますますいやな気持ちになりました。担任のS先生の所に行って、
「五,六年生の人が僕のことを、ハゲって言うんですけど、どうすればいいですか。」
と聞きました。
「注意しておきます。」
と言ってくれました。5,6年生のからかいは、なくなっていきました。
 病院は、一ヶ月くらい通っていました。やがて、夏休み前に、新しい班になりました。僕のハゲもだんだんに毛が生えて、ハゲも治っていきました。
 僕は、今元気で、友達にもめぐまれて、毎日楽しくくらしています。僕のクラスには、まだ人のことをきずつけたり、おもしろがっていやなことを言う人もいます。K君は、クラスのほとんどの人にからかわれたり、いじめられたりしています。本人は、本当によくたえて、がんばっていると思います。なので、いじめは早く消えてほしいと思います。
2008年度 「日本児童生徒子ども文詩集」(百合出版)

作品⑪ 手術してから十年 墨田区立柳島小 6年

 私は2才の時に手術をしたのです。そのため足のバネが弱くなり、走るのもおそいし、跳び箱もほとんど跳べないのです。これが私の悩みです。
 私が生まれる前、母は、
(どんな子が生まれるかしら。)
と、初めて子どもが生まれdてくるのを楽しみにしていました。私は昭和五十三年十一月十二日墨東病院で生まれたのです。けれども、
「この子は足が悪いですね。」
と生まれてすぐに言われたのです。病名は先天性内反足というもので、両足がものすごく内側に曲がっていたのです。母は夢にも足が悪い子など生まれると思ってみなかったので、すごく悩んで悲しんだのです。母は、
(自分は悪い薬なども飲んだ覚えもないのに、どうして私の子が生まれたのか。)
と、すごく考え込んでよく泣いたのです。
 生まれて三日目には、同じ墨東病院の中にある整形外科に行きました。そのときは、まだ私には名前がついていなかったので、診察券にはUべービーと書いてありました。整形外科の曽我先生に診察してもらい、マッサージをすることになりました。
 リハビリの部屋に行き、泣いているところを押さえつけて足を外側に曲げると、私の顔やくちびるが赤を通り越して紫色になるまで続けて声が出なくなると休むと言うことを何回送り返したので、そのとき一緒にいた父は見ていただけで気持ちが悪くなってしまいました。母はそばにいるだけで何もしてやれず、涙をこらえることができずぼろぼろ泣いていたのです。私は、
(お母さんはとてもつらくて泣いてしまったのだ。)
と思いました。入院している間は、そのマッサージを続け、十日目に退院するときには、足にお湯でとけるギブスをしていました。退院したと言っても、一日おきに病院へ通わなくてはいけないので、実家に帰ることもできず、母の実家の祖母に来てもらいました。病院へ行く前にお湯でギブスをとかしから取り、お風呂に入れました。病院に行くと、またあのマッサージをしてギブスをつけて帰るというのを一日おきに続けました。ギブスをつけた足は重いので、足の下にざぶとんを置いて寝ていたのです。写真にはこういう風景が何枚かあり、このざぶとんがなぜあったか初めて知りました。
 一ヶ月を過ぎた頃、肩からつるすきょうせい具を作って、やっとギブスをしないですむようになったので、病院へ行くのも二週間に一回になりました。
 一才のお誕生日には、内またながら二,三歩歩けるようになりました。父や母は、私が歩いたときとても喜んだでしょう。外に行く時は、家の中ようのきょうせい用具をつけ、その上にくつを二重にはいて、外を歩いていました。その頃、父が知り合いの人から人工革をもらってきて、母がそれできょうせい具の上からはけるくつしたを作ってくれたので、いつもそれをはいていたのです。
 二才の誕生日が過ぎて、曽我先生に、
「あまりきょうせい具の効果がないので、やっぱり手術をした方が良いでしょう。」
と言われました。そのとき、母は、
(内まただけど、何とか歩けるようになったのだから、手術しないですむものならやりたくない。女の子だからあとできずが残って悩んだらかわいそうだし、手術しないで足が今以上に悪くなったら困るし・・・・。)
と色々悩んで、父や祖父母などと相談して、結局手術することに決めたのでした。
 お正月が過ぎた一月の十七日に入院して、一月の二十日に手術することになったのです。入院していろいろな検査をしていよいよ明日手術という夜になって、私が急に具合が悪くなり、夜中に何回ももどしてしまったのです。
 次の日の朝、先生の診察を受けて、結局手術は中止になり、家に帰ったのです。
 三月になり、先生から
「今度は大部屋ではなく、個室に入院して手術にそなえましょう。」
と言われ、三月二十四日に入院しました。
 今度は、無事手術の日を迎えました。眠くなる薬をいやがって飲まなかったので、ギャーギャー泣きながら母から、引き離されて手術室に入って行きました。手術は六時間くらいかかり、帰ってきたときはマスイが切れてギャーギャー泣いて点滴もできない位でした。母にだかれてやっと泣き止んで寝たのでした。
 五日目にギブスをしたまま退院しました。ギブスをつけたまま家の中をはって歩いたので、たたみはぼろぼろになり、ギブをずい分すりへりました。また中がかゆくて、はしでギブスの中の足をかいたのを覚えています。
 一ヶ月半くらいして、ギブスをはずすとき、いつもの先生じゃなかったのでで、泣いてあばれたのです。ギブスを切るときに、足を切られ、今でも切られたあとが黒く残っています。
 手術が終わり、外を歩くきょうせいぐつを作っていつもそれをはいていました。それは皮でできた赤いくつで、普通のくつより重かったのを記憶しています。両親は、
(幼稚園に入る頃には、普通のくつをはけるようになるといいなあ。)
と思って、夜寝たあとで病院で教わったマッサージをよくしてくれたのです。そのおかげかどうかわかりませんが、幼稚園に入る年には、普通の運動ぐつをはいてもいいという許可が出ました。
(やっと普通の子と同じくつがはけると、父も母も喜んだんじゃないのかな。)
 でも、夜寝るときには、まだきょうせい具をつけていました。
 幼稚園、学校では、いつもかけっこは最後の方でした。病院の曽我先生には、
「運動以外のことでがんばればいいんだよ。」
と言われました。
 手術してから十年がたち、私は六年生になり、最初は跳び箱が跳べなかったけど、友達にはげまされたりして、六段の跳び箱が跳べるようになりました。
 今回この作文は、榎本先生に勧められて、母に話を聞いて書き上げることができました。初め話を母に聞こうとしましたが、なかなか話してくれませんでした。
 最後に話してくれたときは、話をしながら泣いていました。
「本当は、もっと大きくなって、母親になる頃、話すつもりだったんだよ。」
と言いました。
 私は、父や母たちが色々苦労して育てられたんだというのがよくわかりました。とてもつらいことをよく話してくれたなあと思いました。 1991年年刊文詩集

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional