子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

綴方理論研究会 2月例会報告と3月例会の案内(2017年)

綴方理論研究会 2月例会報告と3月例会の案内(2017年)

★ 2月例会の報告
《参加》乙部武志、本間英美子、添田直人、榎本 豊、田中定幸、早川恒敬、左川紀子、高橋朱美(司会)、工藤 哲(記録)(敬称略)。

講義・「とつおいつ89」(乙部武志さん)

(1)NHKのテレビ番組なのですが、土曜日の午前11:30~午前11:54の時間帯に、『目撃!日本列島』という番組があります。24分間という長さですが、毎回、面白いテーマが取り上げられて、放送されているみたいです。2月例会のあった2月25日(土)は、「悩んで、もがいて、生きて~私たちの“二十歳の原点”~」という題で放送があり、乙部先生は、それを見てきたとのこと。二十歳の頃というのは、誰にとっても、熱い想いを抱いていたり、様々な悩みを抱えていたりする時期でもあっただろうと話されていました。『二十歳の原点』という本、私は、知りませんでした。鉄道自殺をした京都の立命館大学の学生(高野悦子)の日記だそうです。自殺をしたのは、1969年の6月24日。京都市内の国鉄山陰線に身を投じて亡くなっています。高野悦子の二十歳の誕生日(1969年1月2日)から6月22日までの日記(この2日後に自殺しているわけです)が、2年後の1971年に、新潮社から『二十歳の原点』として出版されました。今年(2017年)は、出版から46年だそうですが、今年1月には54度目の増刷があり、今でもかなり人気があるようです。25日のNHKの放送は、「ナゼこの本が読み継がれているのか」がテーマだったようです。高野悦子が自殺をした1969年は、私も二十歳でした(私の場合は12月になってですが)。乙部先生が、この本を購入して読んでいらしたというのを聞いて、すごい読書家だったのだなあと改めて思いました。
(2)『四年生の作文教育 -年間計画とその実践- 』の紹介がありました。1973年(昭和44年)百合出版から出版されたものです。一年生から六年生までのものが出版されており、その後、この6冊に続くように様々な本が出版されていったらしく、この時期、日本作文の会がすごく充実していた時期だったのではないかなと感じました。表紙を見て、わたし自身、何年生かのものを持っていた記憶があるのですが、もう残っていません。四年生のものを乙部先生が執筆していたなどというのは全く知りませんでした。出版当時、乙部先生、44歳です。この本の「あとがき」のコピーを下さいましたので、載せておきます。

《ここから》 ――――――――――――――――――――――――

あとがき

教師の備えなければならない資質は何か? と問われたら、ためらうことなく「創造性」と答える。
教師が、創造性をなくしたときは、すでに、教師としての最低条件を喪失したことになる。創造力が枯渇したときに、教師の仕事ぶりはどうなるか。言うまでもなく、それまでの備蓄をはき出す以外にはない。そのたくわえがどんどん減っていくときに、受け持たれた子どもたちの不幸は、測り知れないものがある。教育とは創造だからである。
もちろん、教育には文化遺産の継承という重要な側面もある。これを否定するつもりはないが、ここでいう「継承」とは、単なる引き継ぎではない。ましてや、うけうり(「うけうり」に傍点が打ってある:記録者)にであっていいはずはない。
ところで、自らを顧みて、はたして、この「創造性」が備わっているであろうか。 恥ずかしいことだが、今までの教師生活は、先輩の遺した偉大な足跡を、ただ、なぞってきたに過ぎない。特に、「作文教育」については、ひたすらに、教えてもらい、まねをさせてもらい、危っかしい足どりで、歩いてきたような気がする。そこには、独創というものが、ひとかけらもなかったような気がする。すなわち、自分自身では、精一杯の知恵をしぼって、これこそは、独創と気張ってみたり、こんどこそは、だれもやらなかった方法だと気負ってみることもあるが、結局は、いつか、どこかで吸収したことを、いささかアレンジして出しているに過ぎないということである。
本書をまとめるにあたって、必ずしも、満足できない作文教育の現状を、少しでも、開拓、進展させることに役立てたいと思いつつ筆を進めてきた。大部分は、 (本文中にも説明したように)現在勤務している多聞小学校での実践であり、その記録も新しいものばかりである。今までの実践を総まとめし、現時点でのトータルとして、多くの批判を仰ぎたいとの考えもないではなかったが、理論的な面は稀薄になっても具体的な実践を多く提示することのほうがいいと思いなおし、最近のことを中心に述べた。創造性の有無は読者諸兄の判断にまちたい。
読み返してみて、不備だらけである。とくに、自然や社会のことについてつづらせたことについての実践や、教科の学習で得た知識を、書くしごとをとおして血肉化し、定着させることについては、 一章をおこして述べるべきであったと思っている。さらに、年間計画についても、詳述しなければならなかったし、文集づくりのための技法についても、もっと、たくさんの項目を入れるべきだったと反省している。
前述したように、多くの先輩の実践に学びながら、その足跡をなぞるのみの教師生活ではあるけれども、そして、恥多き実践ではあるけれども、これからも、「作文教育」の道を一途に進んでいくであろう。すでに、「作文」を抜きにした教育は考えられないほど、「作文」は、ぼくのからだの中にずっしりとした重さを占めている。「作文」のしごとをとおして、教育を考えるようになったし、子どもを考えるようになった。生活綴方こそ、ぼくの教師生活の支えといってよい。 だから、日本作文の会に所属していることが、大きな幸せであり、また、誇りでもある。生活綴方に育てられて、今日を迎えられたのである。
本書が世に出ることになったのは、ひとえに日本作文の会の会員諸兄姉のおかげである。もちろん、多くの作品を使わせてもらった子どもたちにも感謝しなければならない。
最後に、ぼくにとっては、初めての単独著作である本書を刊行する機会を与えてくださった百合出版の後藤彦十郎氏をはじめ、やっかいな原稿整理でお世話になった編集部の皆さんに厚くお礼を申し上げたい。
    一九七三年六月    
                  乙 部 武 志
《ここまで》――――――――――――――――――――――――――――――(3)『解放教育』1991年7月の臨時増刊号(No.276)に関するお話がありました。
「生活つづり方の継承と発展 --国分一太郎追悼のひとつの里程として--」という題がついています。国分先生が亡くなられてから6年目、7回忌の年、「国分一太郎の遺志を継承発展させるために」ということで、この臨時増刊号が出されました。
 二部構成になっていて、第一部では、そうそうたるメンバーの文章。『生活綴方と解放教育』(鈴木祥蔵)、『兄上・またこぶし忌が巡って参りました』(国分正三郎)、『生活綴方の「ファーブル」がわれわれに遺した課題』(乙部武志)他。
 第二部は、子どもたちの作品集。こんな詩を見つけました。

  からっぽの背中
 井上 弘子(津山 北陵中 三年)
なあ、みんな
集会のときに整列するじゃろう/ いっつもあの子の後ろからだけ/ 列がとぎれるんで / いっつも いっつもで/ おかしかろう

早う並んでんや/ ほら 始まった/ あたし 違うで あんたじゃが/ 違うでえ/ あんたじゃ/ いやじゃあ 臭いもん

もう やめてや/ みんな/ あの子は聞いとんで/ 何も言わんで/ ただ聞いとんで

どんな顔して立っとるか/ 見てみんちゃい/ なんにも言えんようになるで/ ズンとくるで/ 汚い 臭い/ 気持ち悪い/ 言われてうれしがる人がどこにおる/ 汚いのは洗えばええんじゃろ/ 不満があるんならはっきり言ってあげればええ/ クラスメートじゃもん/ 気持ち悪い 悪くないは主観の違い/ そうじゃろ?

あの子/ ぜったい/ 絶対にふりむかん/ いつも/ いつもギュッと口を結んで前を見すえとるだけじゃ/ けど/ あの子の背中が胸をつく/ そばにおるだけで/ あたしの心は痛い

なあ/ そんなにあたしらはバカなんか?/ あの子の気持ち/わかってやれんほどに……
(岡山県教組『おか山っ子』より)
(4)「とつおいつ」終了後の話し合いで、添田さんから、2点、発言。①1982年
10月の『作文と教育』に、乙部先生が豊田正子について書いている文章を見つけた。見つけたばかりでまだ読んでいないのだけれども、次回コピーして持ってこれそうとのこと。
②『解放教育』のタイトルの中に「里程」という言葉が使われていることに関連、豊田正子の作品は、国分一太郎の生活綴方運動にとって、里程標だった面があるのではないか。自分のやってきた生活綴方運動はどうだったのか、豊田正子の作品を通じて考えていくということを国分先生は考えていたのではないかと思うと発言。
(5)添田さんの発言に対して、乙部先生から、①国分一太郎は、豊田正子をぜんぜん否定していなかった。②それだけでなく、豊田正子が成人してから書いたものなどについても、きちんと読んでいたという話がありました。

報告:文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子―作品「さえぎられた光」の生成過程―

その二(添田 直人さん・豊田正子を愛する会) 
 1950(昭和25)年11月の『人民文学』創刊号に、豊田正子は小説『眞夜中の爆音』を書いています。空襲の劫火の中で死んでいった下の弟のこと。上官が豪華な食事をしているのに、ろくな食事も供されず「栄養不足がたたって乾した蛙のようにやせて」死んでいった海軍整備兵の上の弟のこと。戦後になって、この戦争は負けると思っていた等居直る「自由主義者」や「インテリ」たちの狡さ、欺瞞性。そういった、さまざまな矛盾や不正義に対する怒りを、豊田正子自身は、書ききれないことに気がついていきます。短
早う並んでんや/ ほら 始まった/ あたし 違うで あんたじゃが/ 違うでえ/ あんたじゃ/ いやじゃあ 臭いもん

もう やめてや/ みんな/ あの子は聞いとんで/ 何も言わんで/ ただ聞いとんで

どんな顔して立っとるか/ 見てみんちゃい/ なんにも言えんようになるで/ ズンとくるで/ 汚い 臭い/ 気持ち悪い/ 言われてうれしがる人がどこにおる/ 汚いのは洗えばええんじゃろ/ 不満があるんならはっきり言ってあげればええ/ クラスメートじゃもん/ 気持ち悪い 悪くないは主観の違い/ そうじゃろ?

あの子/ ぜったい/ 絶対にふりむかん/ いつも/ いつもギュッと口を結んで前を見すえとるだけじゃ/ けど/ あの子の背中が胸をつく/ そばにおるだけで/ あたしの心は痛い

なあ/ そんなにあたしらはバカなんか?/ あの子の気持ち/わかってやれんほどに……
(岡山県教組『おか山っ子』より)

(4)「とつおいつ」終了後の話し合いで、添田さんから、2点、発言。①1982年
10月の『作文と教育』に、乙部先生が豊田正子について書いている文章を見つけた。見つけたばかりでまだ読んでいないのだけれども、次回コピーして持ってこれそうとのこと。
②『解放教育』のタイトルの中に「里程」という言葉が使われていることに関連、豊田正子の作品は、国分一太郎の生活綴方運動にとって、里程標だった面があるのではないか。自分のやってきた生活綴方運動はどうだったのか、豊田正子の作品を通じて考えていくということを国分先生は考えていたのではないかと思うと発言。
(5)添田さんの発言に対して、乙部先生から、①国分一太郎は、豊田正子をぜんぜん否定していなかった。②それだけでなく、豊田正子が成人してから書いたものなどについても、きちんと読んでいたという話がありました。

◆報告:文学雑誌「人民文学」時代の豊田正子―作品「さえぎられた光」の生成過程―
その二(添田 直人さん・豊田正子を愛する会) 
 1950(昭和25)年11月の『人民文学』創刊号に、豊田正子は小説『眞夜中の爆音』を書いています。空襲の劫火の中で死んでいった下の弟のこと。上官が豪華な食事をしているのに、ろくな食事も供されず「栄養不足がたたって乾した蛙のようにやせて」死んでいった海軍整備兵の上の弟のこと。戦後になって、この戦争は負けると思っていた等居直る「自由主義者」や「インテリ」たちの狡さ、欺瞞性。そういった、さまざまな矛盾や不正義に対する怒りを、豊田正子自身は、書ききれないことに気がついていきます。短
編であったこともあるのでしょうか。
 添田さんから興味深い話。西沢隆二が、国分一太郎に、鈴木三重吉祭をやるべきだと言いだした話は、『いつまで青い渋柿ぞ』の「11 ヨウシュヤマゴボウ」に詳しいのですが、この西沢隆二、『人民文学』を創刊するのに係わった人だったらしいとのこと。推定ですとの断わりがありましたが、豊田正子を指導した大木顕一郎、その指導者である鈴木三重吉はすばらしいと考える西沢隆二ですから、豊田正子を編集委員として呼ぼうと考えたのはこの人だった可能性があると思うとのこと。
 ところが、編集委員となり、自身、小説を書いていく正子なのですが、“『綴方教室』の豊田正子”のままでは、「書けない」、このままでは弟たち二人の死に対する悲しみ、怒りといったものを「書けない」と、豊田正子は考えていったようです。そして、10年後。1960年(昭和35年)、『さえぎられた光』(『傷ついたハト』理論社・所収)が発表されます。資料として配られたものを読むだけでも『眞夜中の爆音』とはまったく違った筆致。正子の認識の変化、書きぶりの変化をどう分析することが大切なのかなと思います。弟たちがどのようにして死んでいったのか、自分たちはどうあるべきだったのか。『さえぎられた光』の中の母親の語りが印象的。、二人の息子を失った悲しみ、怒りがひしひしと伝わってきます。
 『赤い鳥』綴方と生活綴方の違いに関して、前回も今回も話に出ましたが、添田さんが資料として配った『いつまで青い渋柿ぞ』の「11 ヨウシュヤマゴボウ」。私は、これを読んでストンときました。『生活綴方ノートⅡ』でも、「『綴方教室』と『山びこ学校』」と題した部分でかなり厳しい書き方で国分一太郎がその違いを論じていて、まるで西沢隆二に向かって書いているような印象を受けたと添田さんは話していました。それを聞いていて、何としても手に入れたいと思って調べてみたのですが、『実践生活綴方ノートⅠ、Ⅱ』は手に入るのですが、『生活綴方ノートⅡ』の方は、古書店では「扱っていない」としか出てきませんでした。
◆報告の後の話し合いで出たこと 
(1)豊田正子の3、4年の頃の作品、たいへんよく書けているが、大木顕一郎の指導の仕方はどういうものだったのかという質問。戦後に出された『綴方のふるさと』という豊田正子の作品の中に、大木顕一郎がどのように綴方の指導や授業をしたのかに関する記述があるとのこと。子どもたちの書いた作品をくりかえし書き直しをさせ、でき上がった作品を謄写刷りして配り、みんなで読み合う。正子の作品もそのようにして紹介され、書いてある中身についてみんなから質問を出させ、正子がそれに答えるなど、そういう授業が行われていたようです。さらに、『赤い鳥』の作品の読み聞かせも行われ、どう書けばいいのか、どう書き直していけばいいのかなどが分かるように指導が行われていたみたいです。
(2)『赤い鳥』に載った豊田正子の作品の改作の問題。そのことが分かった事情に関する質問。様々な経緯、事情があったようです。「改作」に関するいろいろな研究者たちの評価は、定まっていないよう。教育的配慮と言っていいのかどうか。時代背景から言って「仕方がない」ものだったのかどうか。明らかに「いきすぎ」だったのかどうか。
(3)「綴方」と「作文」の概念、どう違うのかということに関して、いろいろな話が出ました。明治の初めは、「作文」という言葉が使われていたこと。明治33年の小学校令の改正で、国語科の中に、「綴方」が設けられたこと。「綴る」という言葉に関連して、「綴字」、「編綴」、「範文模倣期」等々。「作文」から「綴方」、「赤い鳥」綴方、生活綴り方(前期と後期)など、明治期、大正期、昭和期と、「綴方教育」がどのように行われていたのか(それぞれの時期、子どもたちの書いていた文章は、どのようなものだったのか。時間割はあったのか等)分かっているようで分かっていないことが多いのを痛感しました。(4)田中さんから2点、要望。①大木顕一郎や鈴木三重吉によって「展開的記叙」(展開的過去形表現)の指導を受けた豊田正子。文学作品を書くようになれば、ある日のことだけでなく、時には、長い間にわたることも書かなければならなくなるし、説明的な文章も入れなければならなくなる。豊田正子も、もしかしたら作品のどこかで、「脱皮」しているようなところがあるのではないか。作品が大きく変化したとか、題材が全体をとらえていて、いつも考えている、感じていることはこうなんだというふうに書いている、そういう作品があったら教えてほしい。②大木顕一郎か鈴木三重吉のどちらが書いていたのか、今はっきりしないのだけど、文章を書かせる時、短い間のできごとを書かせるということを書いていた。自分の実践面でも、遠足のことを書く時など、朝から晩までのことではなく、遠足の中の一コマを選んで書くようにさせてきた。そういったあたり、二人がどのように書いているか、分かったら教えてほしい。(5)司会の高橋朱美さんのまとめ!「田中さんから、新しい宿題が出されました。」次回すぐでなくて結構です。添田さん、またどうぞよろしく。
(文責:工藤)

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