子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

綴方理論研究会 4月例会のご案内(2017年)

綴方理論研究会 4月例会のご案内(2017年)

日時 2017年4月29日(土)PM1時~5時 
場所 駒場住区センター 目黒区駒場1-22-4
*京王井の頭線・駒場東大前下車。改札前12時45分に集合。

講義 「とつおいつ91」(乙部武志さん)

提案 「日本の児童詩教育のはじまり」その2 (中定幸さん

*前回使用した、田中さんの資料等は、また持ってきてください。
★ 3月例会の報告:《参加》乙部武志、榎本 豊、榎本典子、小山 守、日色 章、高橋朱美、田中定幸、片桐弘子、寺木紹子、左川紀子(司会)、工藤 哲(記録) (敬称略)。

講義・「とつおいつ90」(乙部武志さん)

 乙部先生、何冊も本を持っていらして、話がありました。『日本作文綴方教育史1 明治編』(国土社、滑川道夫)、『限定家蔵版 復刻小学教科書』(文部省で作った最初の国語教科書)、『村に生きる教師』(今井誉次郎)、『尋常小学国語読本』(大正期復刻版合本、巻一より巻六まで)等々。
(1)スタートの話は、明治期、作文教育はどのように行われていたのかに関しての話。明治の初めの頃は、「読書百遍意自ずから通ず」といった形での寺子屋式の教え方がそのまま行われ、手本となる文章を模倣する形で指導が続けられたようで、「範文模倣期」という区分に入る、とのこと。その辺の事情に関し、きちんと整理・記述している本ということで、滑川道夫の『日本作文綴方教育史1 明治編』の紹介がありました。明治期、大正期、昭和初期と3冊の大部を執筆。明治~昭和初期にわたって、作文(綴方)教育がどのように行われてきたのか、様々な資料を駆使、学問的な分析がきちんと行われている本だとのこと。その滑川道夫に関して乙部先生、戦後の作文教育の復興期を形成していった人々の中では、あの時期にはあまりいなかった人材、優れた人材だったとのこと。(2)滑川道夫に関連して、日本作文の会の草創期の委員長だった今井誉次郎と『村に生きる教師』の紹介。(3)『生活綴方事典』、『生活綴方文例事典』などとの関連で、『日本児童文章史』(西原慶一、東海出版社、1952年)の表紙のコピーを持参され紹介。『日本作文綴方教育史』の中で、滑川道夫が、「範文模倣期」に関連した資料収集等に関して、西原慶一のことを高く評価して記述しているという話がありました。(4)、唐澤富太郎の出した『限定家蔵版 復刻小学教科書』に関する話がありました。この人、1961年(昭和36年)に、54か国の教科書を集めて分析、『教科書から見た世界の教育』という本を出すなどしている、そういう人だったようです(=ウィキペディア)。紹介された『限定家蔵版 復刻小学教科書』の中で取り上げられている資料の収集は、子どもたちが実際にどんな教材で学び、教えられていたのかを具体的に調べたいという願いのもと行われたようです。乙部先生によれば、この人、そういった教材を探し出すため、出版元を訪ねてまわり、版木を手に入れるなどして、様々な努力の
末に、この3冊(「小学読本」、「小学入門」、「読書入門」)を、『限定家蔵版 復刻小学教科書』(資料①)として復刻させたみたいです。乙部先生からは、この3冊と唐澤富太郎の「解説」なども含めて一度、具体的に解読する研究会があってもいいのではないかという話がありました。(5)1953(昭和28)年に、金沢で行われた第6次日教組教育研究集会に参加したことがきっかけで書いた文章が、『作文と教育』の巻頭言となって掲載された話。当時の『作文と教育』の編集長、後藤彦十郎氏が、若者(青年)を育てるために温かい配慮をしたのではないかとのこと。この時乙部先生が書いた文章の題名は、『一人の百歩より 百人の一歩』(1953年3月号に掲載)。乙部先生、この時、24歳でした。

報告:「日本の児童詩教育のはじまり」(田中定幸さん)

(国分一太郎・学芸大学特別講義「生活綴方と昭和国語教育史」より、1984年7月
11日に行われた、第6回講義の前半部分のテープ起こしの資料。その資料提供・紹介を兼ねた、報告の一回目。)
第6回講義には、本来は、「国民学校令と国語・綴方の教育」という演題が予定されていたのが、「児童詩教育」を取り上げたいと話があり、講義の前半が、「日本の児童詩教育のはじまり」という演題となる。国分先生は、1.「当時の文部省」、2.「生活詩について」、3.「昭和10年・1935年前後」と簡単な見出しをつけていたのだが、田中さんが、講義の内容に合わせて「見出し」「小見出し」を作成。これがまた分かりやすい。その「見出し」(小見出し)をずらっと並べただけでも、『赤い鳥』から始まった童謡・自由詩が、さまざまな実践を経る中、「児童詩」として発展していく道筋が、大まかだが見えてくる。
1 『赤い鳥』の創刊(とその業績)
・『赤い鳥』の三本の柱  ・北原白秋の抵抗(「対抗」) ・童謡から自由詩へ
2 生活詩への動き
・行動詩を書かせる
3 昭和10(1935)年前後
・子どもを詩人の里子にだすな
4 実践の中から生まれた作品
・主観強調の詩  ・長い詩  ・「端的な表現」の詩
5 子どもの詩の「発想」 
・小さな詩集をつくる ・散文と詩のちがいをわからせる ・一回限りの経験を書いた詩 たびかさなる経験からうみ出す詩

 最後のまとめ、「 5 子どもの詩の『発想』 」の部分。・詩のノートにいろいろな種類の詩を書かせる ・詩のいろいろな形態を学ばせていく等、具体的な実践の進め方が語られている。教師となっていく可能性の高い、聴講している若い学生たちに、児童詩教育では何が大事なのか、国分先生は、しっかりと伝えたかったようである。
逆に時間の関係で言及がなく、残念に思ったこととして、田中さんから次の件の紹介があった。白秋が、雑誌「綴方倶楽部」に、「提言」を書いている(1936・昭和11年6月号)。それを、『綴方生活』で「提言」を斬ると題して、寒川道夫がバッサリ斬っているらしい(1936・昭和11年、10月号)。
「提言」と「提言」を斬る の内容がどういうものだったのか、私たちももっと具体的に知ることができればと思う。
 田中さんの説明の中で、大変興味深かったこと、もう一つ。
雑誌『赤い鳥』発刊の半年ほど前らしいが、鈴木三重吉が「童話と童謡を創作する最初の文学運動」というパンフレットを出している。発刊の趣旨と宣伝を兼ねたもののようで、次のような内容が書かれている。
(1)今、だれもが、子どもたちの読み物に随分困っている。私たちも、今出されている少年少女の読物や雑誌の大部分は、決して子供に買って与える気になれない。西洋人とちがって、われわれ日本人は、ただ一人も子供のための芸術家を持ったことがない。われわれは、われわれの子どもたちのために、立派な読物を作ってやりたいと思う。
(2)現在、子供が歌わされている唱歌なぞも、芸術家の目から見ると、実に低級・愚かなものばかり。
(3)巻末の募集作文は、私の雑誌の著しい特徴の一つにしたい。私は、少しも虚飾のない、真の意味で無邪気な純朴な文章ばかりを載せたいと思う。作文のお手本としてのみでも、この『赤い鳥』全体を提示したい。
(4)扱う材料は、すべて会員ないし会員の子どもたちの作文、または会員が推薦する作文(いずれも尋常小学から中学一年迄のもの)を対象とする。
(5)これらの作品を私が選定補修して、小さい人たちの文章の標準として与えたい。
(6)それと共に、そのようにして掲載した作品を読んでいただくことを通して、会員の皆様方全体の大きな家族的な楽しみも提供したい。
(7)どうか文章の長短に拘わらず、空想で作ったものでなく、ただ見たまま、聞いたまま、考えたままを、素直に書いた文章を、続々お寄せいただきたい。

 いよいよ発刊となる1918・大正7年7月1日、子どもたちに読ませたい文学作品の
作家協力者や若手の文学者として、そうそうたるメンバーを集められている。唱歌・童謡担当は、北原白秋。少し後に、山本鼎が「自由画」担当として『赤い鳥』の重要なメンバーとなっていく。綴方担当は、もちろん鈴木三重吉。三重吉は、主宰者として「私が選定補修をする」と書いている。つまり、文章のお手本を与えるために、推敲すべき部分には「朱文字」を入れると書く。この「朱」は、子どもの作品に止まらず、大人の作品にも例外なく行われていくことになる。この「朱」に関しては、次回、その一例として、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の原稿に、三重吉が朱文字を入れて直しているものが紹介される予定である。
創刊から18年後、鈴木三重吉54歳、北原白秋51歳でいいのかな。国分一太郎25歳、寒川道夫26歳、今で言えば「若造」が、白秋の「提言」(主張)をバッサリ斬ったという。 
国分先生が講義の中で使っている「わたしたちはなまいきだったから」という言葉に、私は強い印象を受けた。昭和恐慌の中、白秋の「花鳥風月」は乗り越えなくてはならないものだったのだが、しかし、という国分先生の思いが伝わってきそうだ。芸術運動としての『赤い鳥』の運動は、日本の綴方教育、文学教育、音楽教育、自由画教育にとって、多くの人々に影響を与え続けていく優れた運動としてスタートを切ったのだろう。
順序はめちゃくちゃになるが、『赤い鳥』から大きな影響を受けながら、それでも反発を感じ始めた面々。いろいろな同人誌、雑誌等の中で、投稿された作品一つひとつについて、「作品研究」と呼びながら意見を述べ合い、議論を尽くしていく。そういったオーソドックスな方法で理論構築が続けられていた、1936年・昭和10年前後。この頃は、児童詩教育の発展という意味ではかなり大事な時代だったのだろう。
それにしても、『赤い鳥』に関しても、知らなかったことばかり。『赤い鳥』運動の影響、すごかったのだなと思う。
まだまだ学んでいかなければならないことがいっぱいありそうだ。
          (文責:工藤)

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