子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月10日(日)蔵本穂積さんの「生活つづり方論集」を読んで

3月10日(日)蔵本穂積さんの「生活つづり方論集」を読んで

 今年の1月に上下に分けて、文章を載せ、その原稿を高知の坂田さんのところに送った。「つづる」の原稿依頼のためだった。その後1ヶ月くらいたって、もう一度検討して、書き膨らましてほしいと、再度検討してほしいという厳しい注文がついてしまった。この3週間は、ずっとこの原稿のことで頭がいっぱいだった。何とか、書き直しも含めて、大部訂正も含めて、完成した。ここに一挙に載せておく。

蔵本穂積さんの生活綴り方論集(上下)を読む

  昨年の暮れ、第9回つづりかたフォーラム21研究会に参加した。そこで、蔵本穂積さんの「生活綴り方論集上下」の立派な本をいただいた。この会には、10年以上前から関わっていたので、蔵本さんのお元気だった頃もよく存じ上げている。また、30年近く前に、東京の墨田教組の同和教育研究集会で、記念講演をしていただいた。その頃、木下川地域の被差別部落があり、同和教育が盛んに行われていた。組合員も、600人近くいた。会が終わった後に、蔵本さんを囲んで、反省会を開いたことも覚えている。事前に「墨田の教育」(都教組墨田支部編)を差し上げていたので、その中に出てくる私を含め、10人位の教育実践を読まれておられた。講演中、この本の中には、国分一太郎さんのことに関係している「はじける芽」のことについて触れて下さった。私の実践は、墨田に「作文教育」を広めるために、執行部から毎月1回書くように頼まれていたものだった。その本に、十一回分の連載記事をまとめて載せていただいた。
 そんな蔵本さんが亡くなって、今回このような立派な本になり、私も大変嬉しい。
 上巻の目次を見ると、「私の歩んだ集団主義教育」生活綴り方をたよりにからはじまり、「教師も書こう」「推考のすすめ」「小さな自然」「つねひごろのつづりかた指導をこそ」 「教師がつづるとき」 「105時間をもてあますまい」と、具体的なテーマが並べられている。家に帰ってから、一挙に読み終えた。

同僚からの贈りもの

 蔵本さんは、1948年に教師になる。教師になって、5年目の年に、同学年の教師から、『新しい綴方教室』〈国分一太郎著〉と『山びこ学校』〈無着成恭著〉を紹介してもらう。その同僚のクラスの子どもたちは、その担任が休んだときも、生き生きと授業が展開されて、大きな刺激を受ける。自分がすばらしいと感じた子どもの作文を、その教師に見せると、「君のは『赤い鳥』だ」と批判され、最初その意味がわからなかった。その意味について、理解するまでには、何年かの日数を経なければならなかった。そのことを、少しずつ理解していったのは、被差別部落のある職場に勤めるようになってから、徐々にその意味することを、理解していった。この本の至るところに、国分一太郎さんの文章が引用されている。例えば、伝統的な生活綴方の定義を、「生活綴方事典」から、引用している。
・なお、無着成恭さんは、現在九十歳で、大分県に住んでおられる。国分一太郎「教育」と「文学」研究会の会員でもある。

生活綴方の定義

 「生活綴方とは、生活者である子どもたち〈またはおとなたち〉が、外界の自然や社会・人間の事物、または自他の精神の内部に触れたときに、考えたことや感じたこと、つかみ取ったものを、それが出てきたものである事物の形や動きとともに、ありのままに具体的に生き生きと文章に表現したものを言う。この際生活綴方に「生活」という限定詞を加えるのは、生活者が書くからであり、「綴方」と言われるのは、大正の初め以後、わが国の民間教育運動の中で育ったリアリズムの綴方の伝統・遺産を受け継いだ性格の表現をとらせるからである。またこの生活綴方の作品では、自分のものになったコトバ、体験に裏づけられたで書かれることをことのほか大事にする。〈国分一太郎〉P45
 さらに生活綴方の起点にさかのぼって、『綴方生活』〈1929年創刊号〉や小砂丘忠義の文章〈1931年〉の文章なども引用しながら、現在の部落の子どもたちは、どうであろうかと、これからの解放教育は、どうあるべきかと問い直していく。P46
 再び、「解放教育」19号で強調された、国分さんが強調していることこそ、今日の課題であろう。P53
 「生活現実、人間の生活現象の生き生きとしたリアルな描写のそこに、科学的な知識や法則、本質的な認識にもとづいて分析され総合された知見〈見解・信念・判断・意志などとこまかくいうてもよい〉や、そこから出てきたすみきった、激しい感情・情動がもりこまれているもの、こういう質のものが、あたらしくうまれてこなければならない。」

蔵本さんが感心したその頃の作品

 貯金のための親子 六年 浦野 富佐子
 机の前へ座って水滸伝物語を読んでいた。すぐ横上に電燈がついていて、本の半分が暗く影になっている。母は、しまいごとをするためのお湯をわかしに、かまどに座っていた。そこへ、くつの足音がパリパリと聞こえて、にいさんが会社から帰ってきた。
 かばんを上がり口において、オーバーをぬぎ、私に「富佐子、オーバーかけといてくれ。」といい、母に向かって、「おかあちゃん、きょう定期買うてくるで、かね出してきてくれたか。」と、きいた。「うん、出してきたんで、駅行って買うといでや。」「うん、めし食てから買うてくるわ。もう5500円残ったるやろ。」兄は、去年の10月に、メッキ会社を退職した。その退職金として、2万円あまりのお金をもらった。そうして、そのうちの1万円を銀行へ貯金した。それから後、いろいろなことにお金を出して、あと5500円残ってあるはずなのだ。
 母は、返事をしないでだまっていた。兄はまた、「ねえ、おかあちゃん、もう5500円のこったるやろ。それよりたらんけ。」と、返事をさいそくした。すると母は、こまったようなようすをして、「千円たらんに。いれとこ、いれとこと思ってたんやけど、米買わんならんよってに、そのままになったんやあ。」と、小さな声で言った。
 この千円というのは、ごはんを食べないで、代用食などをしていると、よけいにお金がいるばかりか、おなかもいっぱい大きくならないので、父が、「千円出して米一斗こおてこい。たらんだけ、かっときや。おれ働いて、また、じっきにいれとくよって。よお。」
と、言ったので、しかたなく、千円出してきて、米を買った。けれども、父がいくら働いても、おかねは使ってしまうので、いれられないままになっていた。-以下略- P10~
 この文章を書かれていた頃、蔵本さんは、「値打ちのあることを書け」と子どもたちに呼びかけて書かせていた。ものの見方・考え方は、常に子ども個人に返された。書き直しを何度も要求し、そこで留まっていた。課題と願望を持つことはなかった。綴方に共感はできても、そこから集団思考や行動は生まれてこなかった。
 18年後、蔵本さんは、部落のある小学校に転勤した。そこで、生活綴り方と解放運動の結合をしきりに考えるようになる。
 今回この本の中で、何人かの綴り方教師の生き様が紹介されている。その中で、天野里子さんが、一番に取り上げられていた。

子どもと綴る

 子どもたちに文章を書かせる教師は、自らも文章を書かなければいけないと問うている。そのためには、「つづり方部会」を作り、志を同じにするものが集まり、理論的・実践的に会員で追求することが大事と説く。その中で、天野里子さんの指導した子どもの作品を何点か、紹介している。天野さんは、赤ペンで説教せず、自分自身を正直に語っている。

天野里子さんの文章

「 先生が小さかったころ、家は百しょうをしてたんや。 田うえのころは、暗くなっても、お母ちゃんはなかなか帰ってけえへんかった。暗いあぜ道を、すぐ上の兄ちゃんと手をつないで、歌をうたいながら、お母さんをむかえにいった。途中でこわくなって、一歩もあるけんようになって、ふたりでワァーワァー泣いとったら、声が聞こえたのかしらんが、お父ちゃんが、自転車をおして、お母ちゃんと、たうえ終わって帰ってきたんや。お父ちゃんとお母ちゃんは、はだしや。お母ちゃんのもんぺは、ひざの上までぬれとった。
 兄ちゃんは、自転車のうしろへのせてもろて、先生は、お母さんにおんぶしてもろて、そのときはもう、うれしさと、かなしさがいっぺんにきたような、へんな気分やった。
 そんなことがなんべんもあったんやけど、その兄ちゃんが、えらいむずかしい病気になったんや。カリエスというて、骨のまがってくる病気や。
 入院して、手術、なんべんもした。手術1回するたびに、お金がぎょうさんいって、1まいずつ、田んぼを売っていったんや。
 兄ちゃんの命は助かったけど、とうとう百しょうできんようになってしもうた。
 お母さんは、近所のおひゃくしょうさんから、いもを買ってきて荷車につんで、売り歩くようになった。
 そう、けい子ちゃんのおなじ2年生のころは、先生の家は、八百屋をしていたの。お母さんは、百しょうの時と同じように、夜おそくなるまで、よくはたらいた。
 かたびき車に野さいつんで、近所の村の中を売り歩いた。野さいは、よう売れた。新しいし、安いいうて、ようこうてくれはった。お母さんの車のくるのを待ってくれる人もぎょうさんおった。お母さんは、大きい声で、「八百屋でっせ!八百屋でっせ!」というて、歩いた。
 先生は、学校から帰ると、すぐにお母さんの荷車のあとおしをした。石橋の手まえの坂はきついから、いきおいつけておさなあかん。
 坂をこえると、おじぞうさん。そのよこが、だがし屋で、そこへくると、みかん水を買うてくれる。5円やった。
 帰りは、もうすっかり売れてしまうからあとおしせんでいいねん。だから、お母さんと、ならんで歩ける。車は、カラカラカラカラいうて、気もちいい音をたてる。
 西の空は、夕やけできれいやった。しらさぎも、ならんで帰りよる・・・。」上巻P124~
 このような文章を読んだ、クラスの子どもたちは、書き出さないはずはないと思うのだ。蔵本さんは、天野さんのことを、尊敬しながら、教師も文章を書いた方がよいと説く。私も、天野さんとは、1年に1回、研究会でお目にかかるのであるが、いつもにこやかに挨拶して下さる。その天野さんの小さかった頃は、寂しい思いをしながら、暮らしていたんだなあと、ドキドキしながら、この文章を読んだ。心にしみ通る文章である。

教師もつづろう

 また別の章「教師がつづるとき」というところで、蔵本さんは、天野さんの小学2年生の頃の思い出を書いた文を紹介している。

10円玉-先生が2年生のころ P228~

 夕方、先生が、家の前でたってたら、むかいの家の先生より1つ下のたもっちゃんが、いきおいよく、家からでてきました。でると同時に、チリンとお金が落ちた音がしました。たもっちゃんは、音がしたところを、こしをかかめてさがしていました。先生も「どこへおちたんかな」と思って下を見ると、先生のちょうど足のところにころがって、ぴたっと、とまりました。
 見ると十円玉でした。先生は、おもわずふんづけて、じっと立っていました。
 たもっちゃんは、あたりがだんだんくらくなってきたので、よけいこしをかがめて、どぶの中などをていねいにさがしていました。
「もうあきらめて、早くかえってほしいな」と思っていると、だんだん先生の足のところへちかづいてきます。先生はそれでも、しらんかおして立つつづけました。
 たもっちゃんは、
「どこへいったんやろ、どこへいったんやろ。」
といって家の中へ入っていきました。もうあたりは、まっくらでした。
 あかりのついた、たもっちゃんの家から、たもっちゃんのおこられている声がきこえてきました。たもっちゃんのないている声もきこえてきました。
 先生はそれまで、十円のおこづかいがほしいなあ、五円でもいいからほしいと思っていました。五円あれば、ガムふうせんが買えました。ときどき、学校の門のところで売っていました。ガムを口でくちゃくちゃとかんで、むぎわらの先につけてふくと、かおよりも大きなふうせんができるのです。友だちがほっぺたをまっかにしてふいているのを、いつも見ていました。
 でも、「五円ほしい」とお母さんにいったら、妹も兄たちもほしがるし、先生の家には、子どもにあげるお金がないのは、二年生の先生にも、よくわかっていました。
 先生は、ゆっくり十円玉をひろってポケット入れて、お母さんのところへいきました。
お母さんは、くらいろうじでかぶらのつけものをしていました。かぶらを一つ一つ、おしつけていきました。たるの中でかぶらの玉だけが白く光っていたことを、今でもはっきりおぼえています。
 先生は、お母さんがつけものつけをおわるまで、だまって見ていました。
 それから先生は、その十円玉でガムふうせんを買ったのか、なににつかったのか、まったくおぼえていません。もう三十なん年まえのことです。
 でも、tもっちゃんが、うすぐらい道をはうようにして、十円玉をさがしていたすがたと、電気のついたたもっちゃんの家からきこえたたもっちゃんのなき声は、わすれることができません。わすれるどころか、よけいはっきりと思いだされてるのです。
 子どもの頃のいやな思い出も、正直に子どもに紹介している。十円というお金が、今より貴重で色々なものが買えたときに、あえて、学級文集に書いている。これによって、家の人も必ず見ることも覚悟の上で、天野さんは、それを行う。

天野さん指導の作品

 正弘は、一年生から四年生まで登校拒否をくりかえした。彼はほとんどしゃべらず、一見無気力にさえ見えた。その正弘が、原稿用紙に三枚、「ばばとり」のことをびっしりかいてきた。これを詩にしてみようと天野さんは、正弘といっしょに推考した。
ばばとり 正弘 P175~
ジャー ジャー
ふといけつのあなから
雨みたいに しょんべん出る
みぞに はねかえって
かおにあたる
しおわったら
ぶる ぶる
ぶる ぶる
しっぽをふる

またから ばばかきで
ばばを みぞに おとす
あしがじゃまになって とれない
おとうちゃんのまねをして
「ちえい」といって ばばかきでつつく

牛が まえへいく
そのすきにとる
さっきとった牛が
また ばばしとる
ばばかきだしたあと
ホースで みぞながした
ズックと ズボンが ぐっしょりぬれた

おとうちゃんは しっぽを
はしらにくくりつけ
ちちを しぼってる
ぼくが わらをかかえてくると
でっかい牛が 大きなつのでにらんでる
ちょっとずつわらやったら
くびをのばして よだれたらしながら
しゃむ しゃむ
しゃむ しゃむ
わらをくうた

 おそらく天野さんは、この詩を完成するまでに、正弘と向き合って、正弘の心の中を悩み事を、少しずつ解きほぐしていったに違いない。あまり文章を書かなくても、常日頃、学校を休みがちでも、父親の働く姿をじっくりいつも観察していたから、こんなにていねいな詩が書けたのだ。

母の生い立ちの記録

 私も、三年前に九十四歳で亡くなった母から聞き書きをした。私の記憶以前の何気ない言葉が、母と私達兄弟を救った言葉だったことを、八十八歳になって初めて私に語ってくれた。
 1948年1月に離婚した。夫だった人は、榎本家の親戚の人にお金を借り、それが原因だった。私は、もう少し、続けようとも思っていたが、私の母(榎本志満)が許さなかった。祖母にとっては、我慢できなかったのだろう。
 離婚をして、実家に戻ってきたある日のことだ。これからどう生きていこうかと悩んでいたときに、とんでもないことを考えていた。しかし、そのことは、豊さんのひとことで、我に返ってやめた。つまり、まだ寝返りも出来ない弟の宏をおぶって、三才にもなっていない豊さんの手を引いて、暗い夜道を歩いていた。今はなくなったかも知れない大宮と与野駅の間にある「欄干橋」(らんかんばし)の近くを歩いていた。その下は、鉄道が通っている。そのとき、「お母ちゃん、お星様がきれいだね。」という豊さんの言葉で、我に返ったんだ。「あの時の豊さんの言葉がなかったら・・・」。私が、七十歳近くになって、初めて聞いた母の言葉だった。
 このことがきっかけになり、「母の生い立ちの記録」という聞き書きの文章を何枚かにまとめた。母が亡くなって、1周忌の時に参加して下さった方に配った。天野さんにも読んでもらいたくて、その一部を最近発行した「作文名人への道3年・4年」(本の泉社)の本と一緒に送った。何日かしたら、お手紙が届いた。
「お母ちゃん、お星様きれいだね」という豊さんの言葉で、我に返ったんだ。「あの時の豊さんの言葉がなかったら・・・」のところは。涙が出ました。そこの部分は、何度も読み返しました。
 うれしいお返事が届いた。天野さんとは、また、ここで、強いつながりができたように感じた。

生活を綴らせなくてもー教科書批判  P144~

 いまだに『光村』教科書の5年に残されているとんでもない単元がある。「一まいの地図から」の題名のページには、訳のわからない地図が載っている。その下には、友だちのメモとして、「人」「時代・場所」「中心になる出来事」「あらすじ」として、〈初め〉〈中〉〈終わり〉のことまでが、箇条書きに書かれいる。このページを読んで、「子どもの想像のつばさを思い切りひろげて、物語を書いてみようとなっている。
 過ぎ去ったことを思い出して書かせることは、子どもたちは苦手なのでさせないとしている。うそでも、でたらめなことでもただ書いていけばよいとしている。「虚構作文」「フィクション作文」「想像作文」と呼ばれているものと、対決していかなければならない。この当時、「日書」だけが何とか綴方の伝統を持ちこたえているかに見えると書かれている。この頃から30年経った現在、「日書」は、教科書から手を引いた。どこの教科書にも、「作文」と言う言葉が消え、私達が大事にしている「生活作文」の入り込む余地はなくなっている。

「えらばせること」の軽視 P149~

 「現代つづりかたの伝統と創造」(国分一太郎著)の第一章は、「えらばせる」である。綴方で、最も大事なことは、子どもみずからが「何を」書くかを選ぶことである。「学習作文」そこが決定的に欠落しているのである。そのことを、こっぴどく批判している。
-現代つづりかたの指導は、(略)わざわざ「えらばせること」をしないものとの対決にせまられている。 その相手が、いわゆる「学習作文論」であることは、この本の読者のみなさんなら、よく知っているところだ。その「学習作文」論者は、
☆何を書いたらよいか?
☆どう思い出しながら書いたらよいか?
 この苦労を子どもたちには、させたくはないのだという。そのために、こういうことをしなくてもよい「学習作文」をどしどし書かせるのだという。「学習作文」では、今習ったことを書くのだから、過ぎ去ったことを思い出して、何を書こうかと苦労するようなことはさせないですむ。(途中略)
 このほかに「虚構作文」「フィクション作文」「想像作文」と呼ばれるでたらめ作文も、今まで言ってきたような「えらばせること」を軽視するものとなるが、(略)同じく私達が対決していく必要のあるものだとの確認だけを、ここではしておくー
嘘でもいいか 下巻 P73~75
 下巻は、様々なところで講演をしているが、講演集をまとめたものが中心である。
 その中には、「作文と教育」を読んで、それを紹介した文もいくつか載っている。田宮輝夫さんや乙部武志さんの文も、引用している。1989年3月の新学習指導要領告示の時に、「作文指導の充実」が挙げられたときに、野口芳宏氏が、「嘘でも良い」「夢でも良い」「でたらめでも良い」「好きなようにお話を作ってごらん」と暴言を吐いている。
 乙部武志氏は、「増えた時間をもてあまして、『おしりが行方不明になったという設定で作文を書きましょう』というような指導が、日本中の教室で行われていくとしたら・・・」と憂慮しています。乙部氏が言うように、たしかに「『軽さ』」だけでは人間は育ちはしない』のです。〈『作文と教育』469号〉

心に残った作品 子と親と教師をつなぐ P192~

 いくつかの作品が印象に残ったのだが、次の作品もその1つである。指導をされた人は、坂田次男さんである。蔵本さんは、この作文の前に次のように書いている。
 日記やつづりかたの指導は、がっかりすることから始まるといっていいでしょう。子どもと教師のつながり、信頼関係のない間は、なかなかねうちのある題材をえらんで書いてはくれないからです。蔵本さんは、次のように坂田さんのことを紹介している。
 介良小の坂田次男先生は、今4年生を担任しています。そのクラスに藤本京佳ちゃんがいます。被差別部落「西部」の子どもです。
 5月の末ごろ、1時間目の授業をしに教室に行くと、京佳ちゃんがおおきくゆっくり口をあけ、なにかを訴えようとしました。「ああ、またお父ちゃんとお母ちゃんがけんかしたんだ」、坂田先生は察しましたが、「あとでね」と小さくいって授業を始めました。
 休み時間になって話を聞くと、京佳ちゃんはポツリポツリとこう言いました。「夕べ、お父さんとお母さんが、お金のことでけんかしてねえ、わたしらあ、みんな夜中に出ていった。2時ごろもんできたとき、あんまり寝てない。
 後日、京佳ちゃんはこのことを日記に書いてきました。坂田先生はその日記を京佳ちゃんと共同推敲しました。

先生 ねむたい 高知県介良小4年   藤本京佳

朝、
先生の顔を見て、
「ゆうべおとうさんとおかあさんがけんかした。」
と、大きな口をあけて
声を出さずにいった。
先生は、小さな声で
「あとでね。」
といって、
勉強はじめた。
みんなは、元気いっぱい発表しはじめた。

先生
ゆうべねえ
「お金たらん。」
ゆうて、お父さんがお母さんにおこった。
ほんでねえ
「出ていけ。」
ゆうて、大きな声でゆうたき
私とお母さんとしょう君とたつひろで、
出ていったが。
雨がふりよったき
みんなかっぱきていった。
お母さんのせなかで、たつひろはねよった。
しょう君は、
お母さんの自転車のうしろに乗っちょった。
ダンプに水もちらされた。
車のライトが光ってまぶしゅうて
ひかれそうになった。

先生、
私、
ねむたいが。
おなかもすいちゅうか。
私のこときいてや。
 この坂田さんと京佳ちゃんの関係は、大きな信頼関係の上に成り立っている。そうでなければ、人に知らせてたくない出来事を、これだけ丁寧に書いてはくれない。ここまでたどり着くまでには、クラス集団が、何を言ってもよいクラスになっていなければならない。子どもたちが書いた作品は、一人ひとり大事に受け止めているにちがいない。担任教師への絶対的な信頼が、一番悩んでいる心の叫びを発してくれるのである。
 だから、両親の夫婦げんかが元で、夜に家出をし、眠くてしょうがない。どんなに忙しくても、ここのところは大切にする。当たり前のことだが、今の教育現場は、あまりにも忙しくて、ここのところが抜けてしまうことがあるのではないだろうか。「先生 ねむたい」の最後の5行は、京佳ちゃんの心からの叫びだ。坂田先生にいえば、何でも受け止めてくれるという安心感から発した叫びだ。蔵本さんは、さらに坂田さんと京佳ちゃんのことを紹介している。
 2学期になって坂田先生は、児童館で京佳ちゃんに問いかけます。
「京佳のいちばん心にひっかかっちゅうことはなに?」
京佳ちゃんは、ちょっと天井をにらんでいいました。
「お父さんの手のこと。」
「じゃあ、そのことをつづりかたに書いて先生に教えてや。」
「うん。」
 こうして書き始めたのが次の文でした。

ゆびきり 高知県介良小4年 藤本 京佳

 3年の時でした。学校から帰って、しゅくだいをしました。たくさんあったので、時間がかかりました。やっと終わったとき、ほっとしました。
「さあ、外へ行こうか。」
と、ひとり言を言いました。戸を開けて外に出ると、風が吹いてきて、すーとしました。自転車に乗って、ぶらぶら行きました。あき子ちゃんと、ようちゃんと、まゆみちゃんと、えりちゃんとで、ぼっけんしたり、かくれんぼしたりしました。もうくらくなったので、やめて家に帰りました。
 家に帰って時計を見ると、もう、7時になっていました。おふろばで、手と顔を洗ってタオルでふきました。
 こたつところへ行くと、お父さんがマンガを読んでいました。なんにも言わんかったので、おこっているみたいでした。私が、
「ただいま。」
といって、すわろうとすると、きゅうに、
「帰ってくるのがおそい。今、明るい、くらい。」
と、。お父さんが、顔を上げて、大きな声で言いました。わたしは、びっくりして、たったまま、
「くらい。」
と、こたえました。お父さんは、小さな声で、
「出ていけ。」
と、言いました。私は、
「いや。」
といいました。お父さんはゆるしてくれませんでした。
 また、大きな声で、
「出ていけ。」
と、言いました。
 私は泣きながら、外へ出ました。そして、げんかんの横の花だんに、丸くなってすわっていました。外はまっくらで、とおくに、電気がいっぱいついていました。いっときすると、なみだがとまって、どうやってあやまるか、かんがえました。いっときすると、戸をあけて、だれかが出てきました。顔をあげるとお母さんでした。お母さんは、おこった感じで、
「はいってき。」
といいました。私は、なきながらはいりました。そして、こたつのあるところに行きました。
「お父さん。」
と、私がよぶと、お父さんは、こっちを見てくれました。私が、ヒックヒックしながら、
「お父さん、ごめんなさい。もうおそく帰ってこんずく、早う帰ってきます。お父さんごめんなさい。」
といいました。お父さんは、
「お母さんにもあやまってさ。」
といいました。私は、だいどころに行ってお母さんにあやまりました。そして、お父さんのところに行って、すわりました。お父さんは、右の小ゆびを出して、
「ゆびきりをしよう。」
と、いいました。お父さんの小ゆびは、あんまりありません。右も左もありません。2つ目のふしのところから、切れています。
 私は、右の手を出しました。お父さんのそばにいって、ゆびきりをしました。1回めは、すべりました。2回めもすべりました。お父さんは、こまった顔をしていました。お父さんは、私の手をおさえて、ゆびきりをしました。お父さんの手は、ふるえていました。お父さんの目を見ると、なみだがいっぱいたまって、あかくなっていました。
 私は、お父さんの顔を見たら、なみだが出てきました。なきながら、
「お父さんなきなや。」
といいました。お父さんは、なきながら、
「うん。」
といって、テレビの方をむいて、ふくのそでで、なみだをふいていました。そして、
「顔と手をあろうてき。」
といいました。
 私は、おふろばへ行って、顔と手をジャブジャブあらいました。うがいもしました。タオルで顔をおもいきって、ふきました。顔がすーっとしました。
 京佳ちゃんのお父さんは、若いころ、わかげのいたりでみずから指をきりおとされたそうです。でも、京佳ちゃんは、まだそのことをくわしく知らないようです。ともあれ
京佳ちゃんが初めて書いた長いつづりかたでした。坂田先生がたずねます。
「お父さんに読んでもろうてもいい?」
「いかん!」
 京佳ちゃんはあわてます。
「どうして?」
「お父さんが泣くき。」
 お父さんをおこらせることはあっても、泣かせたくはない京佳ちゃんのいじらしさ。
 それでも坂田先生は、「ゆびきり」を持って、夜お父ちゃんをたずねます。
『ゆびきり』を読んだお父ちゃんは、
「もっと字の練習をしい。」
 顔をまっかにして、まばたきをがまんしながら、京佳ちゃんを見つめていたといいます。
 このように紹介している。
 1学期のころの出来事を、ずっと覚えている。おそく帰って、父親に怒鳴られて、「出ていけ。」と大きな声で怒鳴られてしまう。だから夜くらい外へ、出ていく。どうやってあやまるか、考えているところに、母親が手をさしのべてくれる。
 家の中に入り、「お父さん。」と呼ぶと、お父さんは、こっちを向いてくれました。
「お父さん、ごめんなさい。もうおそく帰ってこんずく、早う帰ってきます。お父さんごめんなさい。」とあやまったことは、一生忘れない台詞だろう。「お母さんにもあやまってさ。」というお父さんの誘いに、お母さんのところにも行ってあやまる。
 お父さんのところに行って、すわりました。お父さんは、右の小ゆびを出して、
「ゆびきりをしよう。」と、いいました。お父さんの小ゆびは、あんまりありません。右も左もありません。2つ目のふしのところから、切れています。
 京佳ちゃんは、このことをずっと気になっていたのかも知れない。
「 私は、右の手を出しました。お父さんのそばにいって、ゆびきりをしました。1回めは、すべりました。2回めもすべりました。お父さんは、こまった顔をしていました。お父さんは、私の手をおさえて、ゆびきりをしました。お父さんの手は、ふるえていました。お父さんの目を見ると、なみだがいっぱいたまって、あかくなっていました。」
 上手くゆびきりができないので、「私の手をおさえて、ゆびきりをしました。」そのときに、お父さんの手が震えていることに、気がつく。お父さんの目も涙がいっぱいたまって、赤くなっている。
 「『お父さんなきなや。』といいました。お父さんは、なきながら、『うん。』といって、テレビの方をむいて、ふくのそでで、なみだをふいていました。」京佳ちゃんは、お父さんが泣いた顔を、初めてこの時に見たのかも知れない。お父さんは、なんで泣いたんだろうと、すぐには、理解できないかも知れない。しかし、この日の出来事は、一生心に残っているに違いない。
再び父親に会う
 話は、ここで終わらないのである。蔵本さんは、2人の関係を取り上げる。
 3学期、坂田先生は、これをどうしても学級の文集に載せたくて、お父さんにもう1度会い、許可を求めました。
 その本人と担任だけのことで処理するのを、クラスの中の子どもたちにも伝えたいと考え、お父さんのところに出向く。お父さんも、自分の過去の過ちをさらけ出すことに戸惑いもあったに違いない。しかし、京佳ちゃんが成長している姿を見て、担任の坂田先生を信頼して、承諾するのである。
「ぼくは、はずかしいとは思うちゃあせん。自分のことやきしかたがない。それよりも、京佳がちょっとずつ変わってきたのがようわかる。先生、文集に載せちゃってや。」
と、お父ちゃん。蛇足をつけくわえることもないでしょう。
 つづり方は、子と親と教師のつながりの中でうまれてくるのです。
 京佳ちゃんはいま、しきりに割り算をおしえてくれとせがんでいうのだそうです。
「あたし学校の先生になる。ほんで、さべつしたらいかんということを子どもに教えちゃる。」
と。
 ここまでのところを読みながら、私は、坂田さんの子どもに対する優しさを強く感じる。これでもかこれでもかと、京佳ちゃん並びにその家族も追い込んでいく。子ども、親、教師が、日記を通して、強く繋がっていく。生活綴り方ここにありだ。
 この作品は、30年近く前の作品ではないかと想像する。その後の京佳ちゃんとの関係も続いているのだろう。坂田さんに電話で聞いてみたら、今では結婚して、子どもが2人いるとの事だった。作品に対する鋭い眼差しも、子どもとの関わりを、丁寧にしているからこそ、厳しいのであろう。京佳ちゃんの作品を読んでいて、目頭が厚くなる文章であった。このような作品を取り上げた、蔵本さんも、心に響いたので、講演の内容に取り入れたのであろう。

教師も本当のことを正直に書く

 なお、京佳ちゃんと坂田さんとの触れあいについては、「つづり方通信57号」で、くわしくさらに書かれている。「ふけつといわれた」という日記の文章に、赤ペンをいれるのに悩んだ。、そこで、自分の4年生の頃をできるだけ克明に思い出して、書いている。その文章は、坂田さんがおねしょを良くしてしまい、布団を汚してしまった話。そのことを、友だちにからかわれて、友だちに殴りかかってしまったことを、帰りの会で担任の先生に言われ、「ごめんなさい」とあやまった話。その日のうちにあった出来事を、家に帰ってから、お父さんお母さんに話さなかった。心配かけたくなかったからですと結んで、京佳ちゃんの日記帳に書いた。このことは、天野さんが、赤ペンの代わりに、自分の子供時代の心に残った文章を書くのに似ている。

国分一太郎さんを師と仰ぐ蔵本穂積さん

  至るところに、国分一太郎さんの書かれた内容が、引用されている。その中で、こんな文章が、印象に残っている。
「1985年2月12日の朝に、蔵本さんは、国分一太郎さんの訃報を知る。「生活綴方と版画の会」に所属していた蔵本さん達は、国分さんの『現代つづり方の伝統と創造』〈百合出版〉を当面の教科書としていた。その知らせを聞いた蔵本さんは、しばらくものが言えなかった。」と書かれている。
 今回、この本の紹介を兼ねて、プリントにして、我が理論研究会で、読み上げた。今年九〇歳になる、乙部さんもその席に座って聞いておられた。乙部さんのことに触れて書いてあるところを読むと、嬉しそうにして聞いてくださった。思えば、綴るの会を最初に紹介をして、連れていってくださったのも、乙部さんだった。その乙部さんも、国分さんとのつながりで、この会を知ることになる。
 生前国分さんは、全国至るところに、つづり方の種を蒔きに出かけたのだった。我々は、月に2回、国分さんの自宅で、「綴り方理論研究会」を開いていた。15年以上をお世話になっていた。「来月は、北海道で日教組の全国教研集会に出かける。」といった。前の月の12月に国分さんの自宅で、そのお話を伺ったのが、国分さんとの最後の別れになってしまった。一九八四年、国分さん七十四歳、私は三十九歳だった。今年の夏、国分さんの故郷山形の東根で、14回目の研究会がある。国分さんの墓前にこの本を持って、「先生の理論と実践を、大阪の方では、大事にして、継承されていますよ。」と捧げるつもりでいる。蔵本穂積さん、ありがとうございました。
 今回、参加者にプレゼントされたものであるが、もう一度丁寧に各サークル読み合って、読書会をする価値がある蔵本さんの遺言の書である。


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