子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

Sさんへ

Sさんへ
あれはもう十五年以上前になるのだろうか。
大学時代の友だちのT君からの依頼が妻から連絡された。
「今度、大田区から墨田に転入される方が、Tさんの友だちで、あなたに会ってほしい そうよ。」
そのころ妻は、荒川区尾久六小に勤めていた。
少し元気の良い職場の中に、僕の妻やT君がいた。

思い起こせば、T君は、埼玉大学の新聞部に籍を置き、
北浦和駅近くの文理学部の正門で、ビラまきする姿をよく見かけた。
真面目な学生運動をする好青年であった。
なぜ彼のことを知っていたかというと、
大学に入って、一般教養の「英語」のクラスが同じであった。
名前の順でクラス編成されていた。
そんな縁で、名前と顔だけはよく知っていた仲だった。
彼は、真面目に世の中の動きを敏感に感じ、それを新聞に発行していた。
T君に比べれば、
学生運動はしていたが、僕のは「バスケットボール」の運動に夢中であった。
やがて僕らは大学を卒業し、T君は北区に採用され、僕は豊島区に採用された。
教育実践を真面目に取り組む人の多い、豊島区立池袋第三小学校に通い出した。
もっともその頃は、どこの職場にも一人や二人、そんな教師がいた。
やがて数年の月日が過ぎ、僕は墨田区に異動し、T君は台東区に異動した。
二十五年近く前になるのだろうか、偶然浅草の駅近くで出会った。
しばらくぶりの再会で、お互いの近況を語り合った。
やがて、月日が流れ、私の妻と同じ職場に「T」という人がいることが判明。
尾久六小分会の合宿に、同級生の彼もいるという事で気軽に参加して、交流を深めた。

そんな出会いが、僕とSさんを結びつけるきっかけになった。
たしか赤羽駅のあまり広くない飲み屋が、初めての出会いであった。
まだ、お互いに四十代だった気がする。
T君も病気で倒れる前でもあったので、
すごい勢いで飲んでいた。
何人かのSさんの昔の仲間も見えていて、
みんなおいしそうにお酒を飲みながら、自分を語り合っていた。
T君は、やけに酔って、
「もう一軒行こう。」
と誘われたが、丁重にお断りして帰った。
やがてSさんは、墨田区立K小学校に転勤した。
そこでの実践は、同和教育を徹底的に学びながら、
被差別地域の子供の側に寄り添った「総合学習」であった。
全国同和教育研究集会や東京教組や墨田教組の研究集会で、なんどか報告された。
特に墨田の夏の合宿に提案した実践報告は、参加した組合員が圧倒された。
大阪教育大学の長尾彰さんも舌を巻くほど、すごい迫力の提案であった。
僕は組合の教育文化部長を勤めていたので、
提案を依頼して、鼻高々だった。
墨田にSありと、参加者をうならせる実践報告であった。
やがて僕らは、いろいろな場面で出会うことになった。
こちらのお願いばかりだが、いつも快く引き受けてくれた。
同じK小出身のSさんや、Yさんを交えて交流する機会も多くなった。
そういう中で、ご高齢のお母様を海外旅行に連れて行く親孝行の一面を知るようになる。
お母様を語るときのSさんは、いつも晴れやかであった。
お母様が少しずつ体調を崩されていくうちに、彼の顔が曇っていった。
しかしながら、家で一人で待っておられるお母様のことは、
片時も忘れずに、懸命に真心込めて誠意を尽くされていた。
時々会っても、愚痴こぼすわけでもなく、
淡々とお母様の病状を報告してくれた。
二才下の年齢の母親を持つ僕にも、介護は深刻なことが分かった。
八十七才まで、生き続けてこられたお母様は、
おそらくあなたに感謝しながら、天寿を全うされたに違いない。
長いことお母様に付き添われ、本当にご苦労様。
これからは、ご自分の人生を大いに楽しんでいただきたい。
あと数年で、僕らの定年組に仲間入り。
人生を充実されるのは、これからだ。
Sさん、ぼくは君と出会うことによって、
誠実な人柄に触れ、たくさんの宝物を学ばせていただいている。
親孝行の見本も見せていただいた。
君のこれからの人生に、乾杯。
 2006.6.16(金) 赤羽駅近くの「いけ増」にて

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional