子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

1月18日(木)蔵本穂積さんの「生活つづり方論集」その2

1月18日(木)蔵本穂積さんの「生活つづり方論集」その2

教科書批判 

 1985年2月12日の朝に、蔵本さんは、国分一太郎さんの訃報を知る。「生活綴方と版画の会」に所属していた蔵本さん達は、国分さんの『現代つづり方の伝統と創造』〈百合出版〉を当面の教科書としていた。その知らせを聞いた蔵本さんは、しばらくものが言えなかった。その本の最初の章は、「えらばせる」であった。作文と教育に載ったこの文章は、強烈に私の心に残った章でもあった。蔵本さんも、そのことが同じように胸に刻んだのであろう。いまだに『光村』教科書の5年に残されているとんでもない単元がある。「一まいの地図から」の題名のページには、訳のわからない地図が載っている。その下には、友だちのメモとして、「人」「時代・場所」「中心になる出来事」「あらすじ」として、〈初め〉〈中〉〈終わり〉のことまでが、箇条書きに書かれいる。このページを読んで、「子どもの想像のつばさを思い切りひろげて、物語を書いてみようとなっている。国分さんも、「えらばせる」章の中で、「学習作文」をこっぴどく批判している。過ぎ去ったことを思い出して書かせることは、子どもたちは苦手なのでさせないとしている。うそでも、でたらめなことでもただ書いていけばよいとしている。「虚構作文」「フィクション作文」「想像作文」と呼ばれているものと、対決していかなければならない。この当時、「日書」だけが何とか綴方の伝統を持ちこたえているかに見えると書かれている。この頃から30年経った現在、「日書」は、教科書から手を引いた。どこの教科書にも、「作文」と言う言葉が消え、私達が大事にしている「生活作文」の入り込む余地はなくなっている。

下巻の方は、講演会の記録を中心にまとめてある。

 下巻の中で、特に心に残る文章に出会った。それは、「子と親と教師をつなぐ」の章の所で、高知県の介良小時代に取り組んだ、坂田次男さんと子どもとの取り組みの所だ。その頃、坂田さんは、4年生を担任していた。そのクラスに藤本京佳ちゃんという、被差別部落出身の子との取り組みだ。1時間目の授業のために教室に行くと、京佳ちゃんが、大きくゆっくり口をあけ、何かを訴えようとしていた。「ああ、またお父ちゃんとお母ちゃんがけんかしたんだ。」坂田先生は察したが、「あとでね」と小さく言って授業を始めた。休み時間になって話を聞くと、「夕べ、お父さんとお母さんが、お金のことでけんかしてね、私らあ、みんな夜中に出ていった。2時ごろもんで来たき、あんまり寝てない。」後に、京佳ちゃんがこのことを日記に書いてきた。 坂田さんは、京香ちゃんといっしょになって、共同推考して作品に仕上げた。2学期になって、坂田さんは、京佳ちゃんに、「京佳ちゃんの一番心に引っかかることは何?」と聞くと、しばらく考えてから、「お父さんの手のこと」と返ってきた。「じゃあそのことを綴方に書いて、先生に教えてや。」と約束する。こうして出来上がったのが、次の作品である。

ゆびきり 藤本京佳(高知県介良小4年)

 3年の時でした。学校から帰って、しゅくだいをしました。たくさんあったので、時間がかかりました。やっと終わったとき、ほっとしました。
「さあ、外へ行こうか。」
と、ひとり言を言いました。戸を開けて外に出ると、風が吹いてきて、すーとしました。自転車に乗って、ぶらぶら行きました。あき子ちゃんと、ようちゃんと、まゆみちゃんと、えりちゃんとで、ぼっけんしたり、かくれんぼしたりしました。もうくらくなったので、やめて家に帰りました。
 家に帰って時計を見ると、もう、7時になっていました。おふろばで、手と顔を洗ってタオルでふきました。
 こたつところへ行くと、お父さんがマンガを読んでいました。なんにも言わんかったので、おこっているみたいでした。私が、
「ただいま。」
といって、すわろうとすると、きゅうに、
「帰ってくるのがおそい。今、明るい、くらい。」
と、。お父さんが、顔を上げて、大きな声で言いました。わたしは、びっくりして、たったまま、
「くらい。」
と、こたえました。お父さんは、小さな声で、
「出ていけ。」
と、言いました。私は、
「いや。」
といいました。お父さんはゆるしてくれませんでした。
 また、大きな声で、
「出ていけ。」
と、言いました。〈略 その後作者は、泣きながら外に出て、しばらくすると、母親が出てきて、家の中に入れる。泣きながら家の中に入る。〉
「お父さん。」
と、私がよぶと、お父さんは、こっちを見てくれました。私が、ヒックヒックしながら、
「お父さん、ごめんなさい。もうおそく帰ってこんずく、早う帰ってきます。お父さんごめんなさい。」
といいました。お父さんは、
「お母さんにもあやまってさ。」
といいました。私は、だいどころに行ってお母さんにあやまりました。そして、お父さんのところに行って、すわりました。お父さんは、右の小ゆびを出して、
「ゆびきりをしよう。」
と、いいました。お父さんの小ゆびは、あんまりありません。右も左もありません。2つ目のふしのところから、切れています。
 私は、右の手を出しました。お父さんのそばにいって、ゆびきりをしました。1回めは、すべりました。2回めもすべりました。お父さんは、こまった顔をしていました。お父さんは、私の手をおさえて、ゆびきりをしました。お父さんの手は、ふるえていました。お父さんの目を見ると、なみだがいっぱいたまって、あかくなっていました。
 私は、お父さんの顔を見たら、なみだが出てきました。なきながら、
「お父さんなきなや。」
といいました。お父さんは、なきながら、
「うん。」
といって、テレビの方をむいて、ふくのそでで、なみだをふいていました。そして、
「顔と手をあろうてき。」
といいました。
 私は、おふろばへ行って、顔と手をジャブジャブあらいました。うがいもしました。タオルで顔をおもいきって、ふきました。顔がすーっとしました。

 京佳ちゃんのお父さんは、若いころ、わかげのいたりでみずから指をきりおとされたそうです。でも、京佳ちゃんは、まだそのことをくわしく知らないようです。ともあれ
京佳ちゃんが初めて書いた長いつづりかたでした。坂田先生がたずねます。
「お父さんに読んでもろうてもいい?」
「いかん!」
京佳ちゃんはあわてます。
「どうして?」
「お父さんが泣くき。」
 お父さんをおこらせることはあっても、泣かせたくはない京佳ちゃんのいじらしさ。
 それでも坂田先生は、「ゆびきり」を持って、夜お父ちゃんをたずねます。
『ゆびきり』を読んだお父ちゃんは、
「もっと字の練習をしい。」
 顔をまっかにして、まばたきをがまんしながら、京佳ちゃんを見つめていたといいます。
 3学期、坂田先生は、これをどうしても学級の文集に載せたくて、お父さんにもう1度会い、許可を求めました。
「ぼくは、はずかしいとは思うちゃあせん。自分のことやきしかたがない。それよりも、京佳がちょっとずつ変わってきたのがようわかる。先生、文集に載せちゃってや。」
と、お父ちゃん。
 蛇足をつけくわえることもないでしょう。
 綴方は、子と親と教師のつながりの中でうまれてくるのです。

私の感想

 わたしは、この文を読みながら、坂田さんの子どもに対する優しさを強く感じる。今では、このような文章が出てきたら、その本人と担任だけのことで処理するのを、クラスの中の子どもたちにも伝えたいと考え、お父さんのところに出向く。お父さんも、自分の過去の過ちをさらけ出すことに戸惑いもあったに違いない。しかし、京佳ちゃんが成長している姿を見て、担任の坂田さんを信頼して、承諾するのである。この作品は、30年近く前の作品ではないかと想像する。その後の京佳ちゃんとの関係も続いているのだろう。作品に対する鋭い眼差しも、子どもとの関わりを、丁寧にしているからこそ、厳しいのであろう。京佳ちゃんの作品を読んでいて、目頭が厚くなる文章であった。このような作品を取り上げた、蔵本さんも、心に響いたので、講演の内容に取り入れたのであろう。
 今回、参加者にプレゼントされたものであるが、もう一度丁寧に各サークル読み合って、読書会をする価値がある蔵本さんの遺言の書である。

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