子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月20日(水) 国定教科書と綴り方運動

10月20日(水) 国定教科書と綴り方運動 [#r693

 しばらく、休戦状態だったが、これから少しずつ書き留めていこう。妻が改まって「きょうはなんの日?」と言うもんだから、ちょっと考えてから「結婚記念日。」と答えた。よく覚えていたと褒められた。そんな日の今日、鈴木健治さんから宅急便で、DVD2枚と、私の方から国分さんの「国定教科書と綴り方運動」のプリントを送った全文を打ち直して何かに活用できると言って、送ってくれた。ここに載せておくことにした。

国定教科書と綴り方運動

国分 一太郎 (1911~1985)
    富岡妙子編 「反権力の思想」
          1971年合同出版
    資料提供 乙部 武志氏

国定教科書と綴り方運動

     国分 一太郎

東北農村の技師になる

 私は1911年 (明治44年)3月生まれ、早生まれのため1917年ロシア革命の年に小学校に入る。ちょうど『ハタ・タコ読本』の最終の小学生でした。次の年入学の人は、「ハナ・ ハト・マメ・マス」という第一次大戦が終わったあとの、よく言われます大正デモクラシーの影響を受けた国語教科書を習った。私が小学校に入って初めて習った唱歌の歌詞は「ワタシの学校よい学校よ、教場広い庭広い。掛図御本や沢山あって、めずらしいもの沢山あって」でした。1年生の時の12月に「忘年会の歌」というのを習ったことを今でも記憶している。「光陰我らを待たず紅顔たちまち移り/白頭まもなく到る/惜しむべきは紅顔/哀れむべきは白頭/梓弓射るが如/この年も暮れゆく」これがどういう意味かサッパリ解りませんでしたが、とにかく暗記主義、つめこみ主義でしたから、おしつけられて習っていまでもちゃんと覚えています。
 小学校3年生になり、国語読本のたぶん五の巻、つまり上巻で「ウメボシ」というの習った。うろ覚えでハッキリ正確に覚えているかどうか、自信はありませんが、歌詞はつぎのようでした。
 「2月3月花盛り/ウグイス鳴いた春の日の/楽しい時も夢のうち/五月六月実がなれば/枝からふるい落されて/近所の八百屋へもち出され、何升何合量り売り/もとよりすっぱいこの体/塩に漬かって辛くなり/シンに染って赤くなり/七月八月暑い頃/3日3晩の土用干し/思えばつらいことばかり/これも世のため人のため/しわはよっても若い気で/小さい君らの仲間入り/運動会にもついていく/まして軍のその時は/なくてはならないこの私」ウメボシを教えるにも戦争と結びつけ教えるというような時代でした。この『ハタ・タコ読本』は国定教科書第二期のもので明治三七年生まれのものから使われた。その年は日露戦争が始まった年であります。
 こうして小学校6年になった。当時中等学校へ進学する子供は平均して15%見当で、20%には及ばなかったでしょう。私はもちろん中学や工業・商業学校には入ることができなかった。私は小さな床屋の長男で、兄弟が八人であった。教師になりたかったが、そんなことはとてもかなわず、高等小学校に2年間入った。ところが偶然にも教師になってしまうような運命にであった。それは高等二年を卒業した年に師範学校令が改正になり従来ならば高等小学2年を卒業してから特別につくってある学校で高等三年を卒業するか、あるいは一年間家で勉強をして試験を受けるということになっていたのだが、新しく高等2年からすぐに師範学校に入ることができるように変わり、その師範学校の年限が5年にのびた。それでもまだ学校に入ることはできないものだと思っていたところ、偶然に山形県の師範学校の寄宿舎が火事で焼けて通学を許すということになった。通学を許されると、県庁から毎月10円ずつの学資金がもらえた。このため10円の月給とりみたいな形で通学することが可能になったので試験を受けた。試験当日、身体検査があったが、当時私の背は非常に低く、4尺6寸しかなかった。教師としてのていさいからでしょう、入学資格として4尺6寸6分なければならず、6分足りなかった。幸運にも同じ町出身の博物の先生がいて背が6分足りないのに入れないのはかわいそうだ、1年もたてば1寸や2寸すぐのびると主張し、私の前にいた4尺5寸5分の人をまず入学許可へもっていき、つい私を入れてくれた。
 いろいろな方が師範学校・寄宿舎の生活などを書くときに軍隊式できびしい教育にと書くが、私たちのそれは比較的自由な面もあったように思われる。というのは、第一に大正デモクラシーの名残りみたいなのがまだあった。それに芥川竜之介が自殺し、岩波文庫が創刊(昭和二年)され、また改造社から『マルクス・エンゲルス全集』などが発刊されるような時代であった。東京や広島の高等師範あるいは東京の私大を出て師範学校の教師になる人の中にも、社会科学研究会学生運動などに関係した人もいるような気配であった。たとえば、絵や体育や漢文の先生が非常に進歩的なことをいったり、歴史の先生が唯物史観的な立場から日本の歴史を教授してくれたものである。また私の上級生が近くの製糸工場の女子労働者と自由恋愛をし、学内の博物室のちかくで心中をこころみるということもあった。寄宿舎には市内の病院の看護婦さんや女子師範生が出入りして談笑していた。
 やがて寄宿舎も新築されるにつれ、通学の時間がかかるため成績がおちるとのことで、学校側から通学制度を廃止するというようなことをいわれ、良い成績をとるためにガリ勉をやった。
 1930(昭和5)年3月から教員になった。じつは私、付属小学校の訓導に残るようにいわれたが、家を離れて山形市内に下宿するようになると、金もかかるし、とる月給をあてにできないというので、父がこっそり師範の校長に交渉して、現在の東根市、昔の長瀞村小学校に教師として、赴任させてしまった。村は43戸の百姓だけの農村、その隣村が小田島事件という農民運動で有名になった村で、地つづきの長瀞村にも小作人組合・農民組合の組織があった。私の教えた子どもの算数のノートの間などに "農民組合少年部ニュース ",なるビラが入っていてその中の3Lデーを記念せよ "という言葉が、そのときは何やらわからずに面くらったりしました。 私は四4年生を受け持ったが、6年生や高等1年生を受け持った先生が、授業が終わって職員室に 帰ってきたときに「ヤア今日は子どもたちが本気になって勉強している。いままでこんなに本気になって勉強したことはない」という。どういうことですかと問うと、「歩合算で何割引きというのをやったら、眼の色を変えて百姓の子どもたちが勉強している」という。親たちが小作人組合や農民組合で今年の年貢を何割引きにせよなどと地主と交渉しているのを聞いていて、歩合算 になると眼の色を変えたのである。私にとってこの村に来たことはたいへん勉強になった。

忠君愛国の教育

 では1930年から7年間、そのころ私たちがやった教育について少し話してみましょう。ご存じのように1930年は、前年の世界恐慌について大恐慌・農村危機といわれた年であった。私は明治四四年以後生まれから昭和元年生まれの子にまで使われた『ハナ・ハト・マメ・マス読本』の子どもを教えた。ハナは文化を、そしてハトは平和を意味するということで、第一次大戦の反省として国際平和をねがうという内容の少し軟かい教育をすることになる。大正デモクラシー時代の児童の心理をだいじにし、児童の自発性、内発性を尊重するというようなことも特徴のひとつだった。一年生では、
 「コレハワタクシノハコニハデス。コノタカイトコロハ、ヤマデス。コノヒクイトコロハ、カハデス。ヤマニハキガウヘテアリマス。カハニハハシガカケテアリマス」というぐあいに具体的に物や事を正確に写した文が入っていた。この文章は岩波書店から教科書の中の名文という問い合わを受けたときに、幸田露伴が「箱庭という文章が一番名文だ」と答えたこともあったものです。同じように、
 「アサヒニムカッテ/リョウテヲアゲルト/ミギテノホウハミナミデ/ヒダリテノホウハキタデス/マエノホウハヒガシデ/ウシロノホウハニシデス/ヒガシ、ニシ、ミナミ、キタ/コレヲシホウトイイマス」
というのをみてもきちんと教えていたことがわかる。ついでに、七一年から使われる検定の国語教科書をみると、きちんとした説明文はひとつもない。具体的な事物と結びつけて文章を読んだり書いたりするような教材はいまの教科書にはない。それが昔あったのはなぜかというと、先ほどのべたように児童尊重主義、あるいは実際的事物とことばを結びつけて教えるという、たいへんたいせつなことをそこに採り入れていたからである。
 もちろん文語文というのがあり、非常にムズカシイものを教えなければならなかったが、それなども地球儀を持ってきてちゃんと教えれば教えられるものが四年生の教科書などにあった。 "地球 "という題で、
「我らの往む世界はその形丸くして球の如し/故に、これを地球という。地球の表面には海と陸とありて、海の広さは陸の広さのおよそ二倍半なり......。」 というようなことを正確に書いてある文語文がある。これなども地球儀をもってきて、それを教えますと、子どもたちは頭のなかで想像することができるのでその文章が解る。それを私などは文語文を口語文に訳して、それをこんどは山形県村山地方の村山弁に方言訳をさせるというしご とをやった。「オラだが住んでる世界はナレー/そのカッコーナレー 丸くてナレー/まるで玉みたいダズー/ンダサケテ、カイヅバ、地球という、ナダズー」
というわけ。"ズー"というのは断定の気持を非常に強く出すときに使う方言。このため文語文の気分を子どもがよくのみこんでくれる。このように子どもたちの気持を積極的にしていくという点では大正10年代から昭和初頭にかけて国語教科書の文章、その一部は立派だったと思います。
 しかし、その中で日本国民とか日本臣民とかいうのをどういうふうに教育していくかという方向になるとまた別です。やはり明治10年代の自由民権思想弾圧の後、やがて大日本帝国憲法を作り、そして、帝国議会をつくって日本に立憲の議会政治というのをとり入れたのを、あと始末をするのが学校教育だという建て前になっていました。その根幹が明治23年にできた教育勅語。学校でべんきょうすることも、修身、国語、算術、国史、地理というふうにならぶ。 "君に忠"とか"忠君愛国"とかいうことを一貫して教えさせた。つまり国家主義教育。私たちがやったその教育、やらされた教育でいちばん特徴的だったのは数学や理科の教育では一定限度の合理的な科学的知識を教える。しかし、修身はもちろん、国語の中の文学その他の教材、あるいは国史、地理などでは非合理的な道徳教育をするというふうになっている。たとえていえば、子どもの頭の中に、引き出しを二つこしらえておいて、数学や理科で習ったものはこちらに入れておく。メ ートル法だとか、台風がおこるわけだとか......。兵隊になったとき、敵は右前方七〇〇メートルというとき、前方何町何間何尺打てというふうでは鉄砲はうてないので、メートル法を教えたりする。一方ひきだしのこちらの方には"神風"だの何だの、天皇は神様であるなどを入れておく。この二つを使い分け、きちんと区別し、混同しないように教えるということ。これを明治以来、和魂洋才と言ったのである。そこで子どもが北条時宗や元寇などというのを習っていて「神風はほんとうは台風が吹いたのではないのか」などと質問する。こうなると先生は胸がドキドキしまして、厄介なことをいうヤツが現われたな、と思いつつも、しかし、「この時間は理科ではない。国史だ国史」と叱るわけにはいかないので、少しうろたえる心を抑え、「いま、そういう質問があったけれど、国史の本の十何ページをひらいてみましょう。そこには、『おそれ多くも亀山上皇は御身をもって国難にかわらせたまわんと、伊勢神宮にひたすらお祈りをしたのであった。折しも神風にわかに』......」と、うやうやしく朗読しなければならなかった。「水兵の母」という有名な教材、これは『ハタ・タコ読本』からひきつづいてのっている、だれも知っている名文である。いまの教科書には朗読にたえる文章があまりない。昔は趣旨が国家中心、天皇中心であったけれども、文章としては朗読できるようになっていた。だからみんなの頭にこびりついていた。
 「明治27・8年戦役の時であった。我が軍艦高千穂の艦上でひとりの兵士が女手の手紙を読みながら泣いていた。ふと通りかかった大尉がこれを見てあまりにめめしき振舞いと思い『こらどうした。命が惜しくなったか。妻子が恋しくなったか。兵士として戦場に来たのを男子の面目とも思わずこの有様は何事だ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ』と言葉鋭く叱 った。」
 これを劇化したり朗読したりして、小学校の学芸会などでよくやった。たいせつな道徳的・国民的な教材ということになっている。これを扱うにさいして急所はどこかというと、大尉が「お前のおかあさんの心がけは感心の外はない」といったその心がけのよくわかるところは「どこか」それをさがせというのでした。すると子どもはお母さんの手紙の中から「一命を捨てて君恩に報ゆるためには候はずや」というところをそう答える。先生はニコニコとして黒板にそれを書いて、赤いチョークで横に線を引いて、「えらい、さすがは日本の子どもだ」とほめるようにできているのでした。
 修身で「友情」を教えるところは、「友だち」ということ、"信吉と寅蔵"というのがで てくる。二人が小学校を卒業して同じく工場に入社する、しかし、片一方がそのうちにまちがいをおこして会社を首になる、残りの一人がどうか首にしないでくださいとお願いする、けれどもそのときはダメだったから、いずれそのうちいい機会ができたらお願いしようと思っていた、そのうち、残った方がたいへん能率の上がる機械を発明した、そのため工場の能率が非常に上がり、社長がほうびになんでも望みのものをあたえるといった、そこで彼は前に首になった寅三君をもう一度就職させてくださいとお願いした、というような話が修身の教科書に書いてある。この本のほかに教師用書というのがあって、この中に先の話についての教授方法が書いてある。いちばん最後のところの「目出度く再就職することができた」というあとに、教師の話すことが指示してある。「諸子よ友情というものは誠に有難きものにあらずや......。」気にくわなければクビ、会社が発展すれば再就職、実にうまくできている話である。私は自分の受持の子どもたちに「もしかりに社長さんがお前たちに何でも望みのものを与えてやるといったら何をのぞむか」ときいてみたところ、一人の子が「馬肉が食いたい」といった。当時馬肉は100匁25銭くらいであったが農村では馬肉すらなかなか食することができなかった。答えた子は当時三反百姓の子で地主の家の隣に住んでいた。夕方、彼が自分の弟や妹を背負って、母親の帰りを待っているところに、地主の家のヘイ越しに馬肉を煮るいいにおいが流れてくるのをしきりにかいでいたのであろう。その地主は村会議員であったが、渾名(あだな)を "砂利食い"といわれていた。彼は土木係の議員で廃村まで通じる農道を修理するのに、砂利が150俵あれば足りるものを250俵かかったことにして、 残った100俵分をワイロに取ったというのでその名前があった。毎日毎日よく馬肉を食うのを見た村人たちは、「砂利を食うぐらいだから歯が丈夫で、馬の肉なんか食べるの何でもないだろう」といった。きっとこのことが頭にあったのだろう、私の質問に「馬肉を食いたい」と答えた。これらが修身教育であった。
 大筋は、忠君愛国を教える国家主義教育・臣民教育で、これは前にもいったとおり。では個人の幸せという点からいえば、どういうことを教えたか。第一には勤勉でなければならないということ。第二は倹約、第三は忍耐、第四に精神一到何事か成らざらん、第五に立身出世主義の、5つである。"玉磨かざれば光なし"とか"シバ刈りナワないワラジをつくり、親の手をすけ孝行尽くす、手本は二宮金次郎"とか"働け働け、死ぬかくごで働け"かせぐに追いつく貧乏なし"といった。つぎは倹約。障子紙は切り貼りせよとか、上杉鷹山が紙すき場に女中を連れていき、紙を粗末にすることをたしなめた話など、とにかくつつましく生きて倹約丁ることが貧乏な国に生まれたわれわれにとって大事なことだということをしつこく教えた。これらはがまんづよい兵隊と低賃金の労働者をつくるのに役だったのあろう。第三の忍耐は"ならぬかんにんするがかんにん、不平不満があっても、腹をたてるな"と忍耐を強制するのである。
 4番目の精神一到何事か成らざらん、と5番目の立身出世主義とがからみついていて、時計の針も絶え間なく動くことなどを教える。2年生の国語読本に次のような文章がある。
「柳の枝に飛びつく蛙/飛んでは落ち/落ちては飛び/落ちても落ちてもまた飛ぶほどに/と うとう柳にとびついた/木の葉の間に巣を張るクモ//張っては切れ、切れては張り/切れても切れてもまた張るほどに/とうとう木の葉に巣を張った。」
というわけで、"精神一到何事か成らざらん"になる。四年生だったかになるとこれが「椎の木と樫の実」というすごいのになる。文字はこのとおりではないが、
 「思う存分はびこった/山のふもとの椎の木は/根元に草もよせつけぬ/山の中からころげ出て/人に踏まれた樫の実が/椎を見上げてこういった/今に見ているボクだって/見上げる程の大木に/なってみせずにおくものか/何百年がたった後/山のふもとの大木は/あの椎の木か樫の木か。」 私の妹が家に帰ってきて、これを読んでいるのを聞いたとき、子どもの私はほんとうに胸がドキドキした。
 「思う存分はびこった、山のふもとの椎の木は/根本に草も受けつけぬ」
などというのを聞くと、村の地主や酒屋のダンナなどを思い出し、
「山の中からころげ出て/人に踏まれた樫の実が」
というのにくると「ああオレの家だ。貧乏床屋のことだなあ」としみじみ感じ入る。そして最後のところに行くと、 .
「何百年かたった後/山のふもとの大木は/あの椎の木か樫の木か」
ということになり、何言年かというところがちょっと、気にかかったものの、おれたちだってそのうちにそういうにふうになれるのだと思った。つまりそこで大金持とか大臣・大将とかになるには、勤勉節約、忍耐、精神一到何事か成らざらん、そして立身出世 (とうまい具合につながっている)。
 ではこの通りに頑張ってもうまくいかなかった場合、どう考えたらいいか。 "成ば成る、成さねば成らぬ何事も、成らぬは人の成さぬなりけり"というように努力不足をといたのである。 明治四二年かに石川啄木は"はたらけどはたらけど、なおわが暮らし楽にならざり、じっと手を見る」とうたったけれど、手なんか見るヒマがあったらもっと働け、ましてや『何が彼女をそうさせたか』(藤森成吉)とか、石川達三『転落の詩集』のように政治とか社会のおかげで人間が不幸な目に合うんだというようには考えてならない。この点では教育勅語以来一貫していたが、昭和八年の『サクラ読本』になっていくと、こういうところがなおいっそう濃厚になっていくことは周知のとおりであります。
 昭和五年の農村の危機、その前に帝国議会で陸軍大将であった田中義一総理大臣は「農村問題は肥料の問題の解決であります」と答えた。ほんとうは農村問題の根本は農地問題にあったことはご承知の通りでありますが、肥料を増産して安い肥料を田畑にやれば作物がよくできて百姓たちは幸せになるという理屈であった。が、しかし、それは国家の財政の中から肥料増産のための予算を沢山とり、昭和電工や日本窒素などの資本に補助金を与えて、肥料工場を建てさせる。ところがその工場は知らず知らずのうちに大火薬工場になっていて1931年(昭和6年)9月にいまの東北といわれている旧「満州」において戦争を始めるための準備であったのだ。日本内地での経済恐慌や農村危機という矛盾を日本帝国主義の「満州」侵出によって、よけてとおろうとしたのだった。つづく上海での戦争、そして「満州国」の建設ということになってくると教育のやり直しを迫られ、いよいよ昭和八年よりアジアへの侵略をめざす、『サイタサイタサクラガサイタ読本』になっていくのであります。
 最近の山住正巳氏の著書『教科書』(岩波新書)の中に、つくり方が非常にうまくできているとこの読本の例がのっている。「サイタサイタサクラガサイタ」という文章にはひとつの理由づけがていさいよくあった。いままでの「ハタ・タコ・コマ」「ハナ・ハト・マメ・マス」は単語の羅列から始まっていたが、昭和の御世になったことだし、これからは文学、舞踊、祭、演劇などがいっしょに花と咲きほこった芸術の原初的なところから出発する。子どもたちの叫び声みたいなものから出していく。が、そのあと、サクラにはじまった『サクラ読本』は小学校六年になり、いよいよ巻十二になると"山ざくら花"という最後の課にたっする。
「うらうらとのどけき春の心よりにほひ出でたる山ざくら花――賀茂真淵」
続いて高崎正風の、
「国といふ国をめぐりて日の本の人と生まれし幸は知りにき」
こうして日本人として生まれたありがたさを思わせ、そして最後には本居宣長の、
「さし出づるこの日の本の光よりこまもろこしも春を知るらむ」
となる。"こま"とは朝鮮で"もろこし"とは中国を意味しますが、朝鮮も中国も日本の光から春を知るであろうとして、昭和の大御世というものから、次第に向こうに侵出して行くことが象徴的に教科書に出ている。

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