子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月20日(水) 国定教科書と綴り方運動その2

10月20日(水) 国定教科書と綴り方運動その2

綴り方運動

 私はこういう教育を三年から七年半くらいやらされる中で、個人としあるいは皆とともに、少しばかり抵抗してきたわけです。
 この面のくわしいことは、他の人からおききになった方がいいとおもいますが、この年昭和5年8月には、教育労働組合(非合法)が作られ、合法的には新與教育研究所が教育文化研究ということでできた。もう一つは地理学の先生である小田内通敏博士や尾高豊作氏らを中心として疲弊した農村をどのようにして救うかという郷土教育運動がでている。と同時に、綴り方作品を子どもたちに書かせて現実をみつめさせていく中で教育をしていく遺動が発展していく。このように反権力闘争としての芽ばえがでてくるのが昭和五年。私は昭和6年の四月から8月末までの6カ月間、短期現役で軍隊に入り九月に帰ってきた。除隊する日にみんな陸軍伍長となりますが、これは村の青年訓練所で軍隊式に訓練するためでありますが、私はこれをきらい、やろうと思わなかった。その9月に「満州」で戦争がおこります。そして11月の革命記念日に山形県教育労働組合が地下でつくられ、私も加わることになりました。当初一二人くらいでのちに一七人くらいまでになったとおもいます。山形県教育労働組合という形で発足し、中央に連絡がとれてからは、全協日本一般使用人組合教育労働部山形支部。32年2月ごろに全協に連絡のあった山形の逓信労組からそれがバレてとうとう関係者が検挙された。私は三月六日の地久節(皇后誕生日)に報国婦人会のお祭りで、狂言の末広がりや他の先生と指導しており、出演者がカサをもって、パアッと広げたとき巡査がきて皆の前で連行された。しかしそのときはまだ私は思想が幼稚であるというので起訴にもなりませんし、訓告くらいで教員もくびになりませんでした。しかし他の人びとは六、七人起訴猶予という形にはなったものの退職を強いられた。こういう弾圧当時の朝鮮をふくめて全国的にありましたが、これについては機会をあらためて、他の方にきいていただきます。
 さて32年(昭和7年)四月から教壇に帰りまして子どもたちと働くようになりました。地味に仕事をしようとしたわけですが、修身だの国語だのは、どうも、教えなくともいいみたいなものですし、教えたくもありません。例をあげますと、私がそのころこしらえた文集の復刻版がここにあります。これにのってる詩に、銭のことがいっぱい書いてあります。「だれもいない時母をだまして 銭を貰う/母は一銭をボクの手のひらにあげた/ 牛は首をこっちにむけて/モウと泣いた/母は、ベコも(おまえに) ゼニけんな (くれるな)といふたんだ/なんぎしてとったゼニ
やろちや/けんなねずだな/
『だから、おれ有難くて、もらうと/いうなだデー』/
 ボクは、そういってもらった。」
 これは翻訳しないといけないでしょうか。 "一銭 "という題ですね、兄弟がいないとき、母をだまして、おだてて、母から、ゼニをもらう。母は一銭をボクの手のひらにのせてくれた。『奥の細道』にでてくる芭蕉のとまった、 "ノミ・シラミ、馬がシトする枕元 "というような家で、家人のすんでいるところにつづいて馬小屋、牛小屋が土間にあります。だからお金をこうしてもらったときに、牛小屋の牛が、首をのばして、こっちの方をみて、モーとないた。それで母親がベコのことを、牛のことですね、牛が「お前にゼニやるなというたんだ、難儀してとったかねを、ほんとにお前にやらなくてはならないのかなあ。" やろは愛称。母のいうのはなげくみたいであり、かわいがるみたいであり、しかも一銭だって惜しい。そうすると、この子(作者)が"だからおれ有難くてもらうというだでえ"といってらった。もう倹約だの親孝行だのの説教はしなくてもよいじゃないですかー。
 一方では、3年生ぐらいの子を田や野原に連れていって自然に目をむけさせれば、ネコヤナギやフキノトウに春の感触をさぐりとれます。この文業にはそういう詩もたくさんあります。ところがどうでしょう。習っている国定教科書は? カラマツのことはどういうふうに教えるの か? 4年生の国語読本にはこういう形ではいっている。「記念の木」という題です。
 「村の学校の玄関の/向って右のカラマッは/私の子どもが植えたので/その子はとうに戦死した/あの学校が建った時/裏の畑にあったのを/かついでいって植えたのだ/あの子は十二 /カラマツは/あの子の背より低かった/それが今では学校の/二階の窓にとどいている/あの子が戦にいくときに/学校の前で振り返り/私の植えたカラマツが/あんなに大きくなりました/昨日学校で校長にあの木の事を話したら/始めて聞いた記念の木/大事にするとおっしゃった。」
 校長先生は、だから、いままでだいじにしなかったというんです。自然の木としての美しさなどには、子どもの目を向けなかったのですね。なににつけても先のウメボシと同じように、戦争と結びつけて教える。木一本についてすらそういうふうに教えるわけです。ところがぼくたちの子どもはそうではなくて、ネコヤナギをちょっとこうほったぶにつけたら、春が感じられるというのですね。いちばんできない子(四生生になってひらがなを覚えない子ですが)でも、
「モゥハルダ。 コママワシガハジマタ。」
 北国では道がかわいてコマをまわせるのが春が来たという何よりの喜びでして、そう書いています。この子はいま、南米で大きな農園を経営しているそうですが、私が家庭訪問に行くとその母が「先生、オレの家の良男、できなくて困った」という。私はそういうときには家にはいる前にポケットから小さなノートをとり出して、アイウエオ順に名前を並べてあるところを、森谷良男のページを開けてみてからはいる。だから「家の良男のヤツ、バカでなっす。バカで先生、困ったもんで」というのに、すぐ「バカでないナッス」と返答する。父母たちはヒザを乗り出して「どういうところがバカでないやっす?」ときく。「このあいだこういう字を発明した」といって書いてみせる。村に長源寺という寺があり、チョゲン様(ツァマ)と皆は呼んでいる。良男は綴り方で "ユウベチョゲンサマでアズキガユをクワセルマツリがアリシタ"というのを書こうとした。ところが、ユウベチョゲンまではよいが、「ツァ」という文字が日本にはない。ロシアの皇帝ツァーのツァですね、そこで考えた、「サ」にマルをうって「サ°マ」とした。どんなふうに考えたのでしょうか。"ハー"に°をつけるとパーになるのだから"サ"ニマルをつけれる"ツァ"になるとでも考えたのでしょうか。「良男君はとにかくサにマルをつけてツァになる。誰もこんな発明をした人はいない。これぐらいの力あるんだから大丈夫だ。」そうすると親はまんざらではないと安心する。元気を出せとはげます、さてこの子は馬の絵をかくのがものすごく上手なんです。
 馬の体を毎日洗っているためたいへん上手であった。たいていの人馬をかくのに頭が左側にあるウマしか書けないですね。右側に頭がある馬なんか絵かきさんでもムズカシイ。その子はどこから見たウマでもみな書けるんです。後からの手前からのもすべて。それで、白いノートの部厚いのを一冊やりました、これにはいろいろなウマ書けといって。とうとうウマの図鑑のようなものができ上った。クラスの子どもたちが何かウマの絵を入れるさいに「あの帳面貸せ」といい、とうとうその子にはウマ博士というあだ名がついた。
 私たちはそういう点で実際に子どもたちがおかれている自然の中であるいは社会の中で、どういうことを考え、どういう感情を持ち、どういう欲求をもっているか、そういうところに眼をつけた教育をしなければならないだろう、というようなことを考える。道徳主義的な教育とか、観念的な教育、将来は低賃金労働者、帝国軍人としての下級の兵隊、一銭五厘のハガキで召集されればそのまま冥土にもっていかれるのをあたりまえと考えているような人間をそだてる教育に対して、もう少しそうでない教育をする必要があるだろうということの方に、だんだん自覚をもつようになりました。それがだいたい昭和九年の年から非常に盛んになって、昭和10年から12年にかけてもっとも盛んになりました。昭和8年はそういう動きがだんだん広がっていく年ですが、ちょうどその年の2月4日に長野県赤化教員事件というので大検挙がありまして、350余名が逮捕された。この事件は先ほどの教育労働組合事件のいちばん最後の弾圧であるとともに、『新興教育』という雑誌を中心とした新興教育研究所、新興教育同盟、さらに32年11月の「コップ成立」からなっております運動への最後の弾圧といってよいものでした。この弾圧さすがの長野県でも、新しい教育の運動はしなびてしまいますし、全国でもそうなっていきます。
 この年六月からはいわゆる「大転向」の時代でしたし....。1934年(昭和9年)は周知のとおり東北地方には冷害大凶作があり――8年は大豊作豊作飢饉の年で米があり余るほどとれながら百姓がメシを食えないというようなことがおこった年で、この冷害凶作をきっかけに、東北地方の若い教師が集まっていま私がいったような子どもたちの実際の事実の上に立って、教科書や文部省できめている教授細目にのっていない教育をやっみようということになりました。それぞれさまざまな思想をもった、良心的な教師の協力ということになりますが、これにはいまから考えると三つの特徴があったのではないかと思います。
 一つは、天皇制国家の支配者たちが国の中央から中央集権的に偏見、独断、固定観念、既成道徳、支配道徳を押しつけてくる。それを県視学→校長の手で下部へ流してきて教員一人一人に、しかも国定教科書で教えさせる。こういうのに対して既成の道徳でないものを子どもたち自身の周囲の事実、事実の中にある生活の中からどういうものが美しいかどういうものが喜ばしいことか、何が悲しく、どういうことが辛いことなのか、どういうのが腹の立つことなのかを、下の方から事実にもとづいてつくり直させていくというような点をねらったということ。
 第二として、そのころの考え方として地域共同体というか部落共同体という――このごろは評価のしかたもいろいろあって、コンミューンみたいな見方をするのもだんだん出てきています! ――村落共同体の中にある古さが地域の有力者のいうことに従わなければならないという型で子どもたちにおしつけられるというようなことがありますね。たとえば私の家では自分の母親を"アッカ"としかぜったいに呼んではいけない。それが隣近所のしきたりからいって、もし私や下の妹が自分の母親をオッカアなんて一階級上のことばでよんだりしたら「いつ、あそこの床屋でオッカアとよぶような身分になったかなあ」というふうにいわれる。このような部落共同体の規制がある。ちょうど百姓の家で、何兵衛とか平作、三太、などと呼びすてにされて、その次が何々さん、何々どの、とつくと同じように、少し上等になるとオッカアになるのと同じです。こういう地域共同体での種々の封建的な既成道徳、観念みたいなものにとらわれず、自分たちの考え方や感じ方や生きかたを考えさせていくような教育をする。
 第3に家父長制的な道徳が家の中で重視されて、われわれ子どもたちに伝えられている。たとえば、長男は座っていいのですが、イロリの横に横座というのがあり、かならず家父長しかかわることができない。将来後を継ぐ孫は座ってもいい、というのもあります。あるいはジイさんがこうだといったらかならず従わなければならなかった。クワ頭(がしら)であるジイさんがこういう栽培のしかたをするといえばそれに従い、小豆を明日まけといったらそうしなければならず、草取りは明後日やれといったらそれに従った。ジイさんがカラスは白いのだといったらやはり皆そうだと思わなければいけない。このような家父長的なものがあった。福島のある村で煙出しを作ってはいけないしきたりになっている。渡辺綱の子孫が落ちのびてきて住んでいるからだ。ご承知のように、渡辺綱というのは芥川竜之介の羅生門にあるように鬼に腕をとりかえされてしまう。こういう説があるのでこの部落では煙出しはつくらないのである。そうすると理科や生理衛生のところで、イロリに火を燃やして煙出しがないと、トラホームだとか眼病になりやすい。通風採光に悪いと教える。片やオヤジの方は「イヤ渡辺綱の子孫なんだから」という。こういうのをわれわ れはいったいどうするのか、家父長制下での自己確立をどうめざしていくのか。なぜそういうことをめざし、またしごととして可能だったのか。だれでもこれはいうのですが、文部省は子どもの書く文章、綴り方だけは教授細目を制定していなかった。修身、国語、国史、地理、理科など、こういう内容でこうおしえろというきまりが、国定教科書とともにあったが、綴り方だけにはこれがなかった。「自由に開かれた窓」みたいなものとして綴り方を使うことができる。そこの「自由」につけこむおもいで、教師の中でのさまざまなひと、たとえば自由主義の思想、ヒューマニズムをめざす人びと、ドストイェフスキーのすきな人、近代文学の好きな人、プロレタリア文学に関心をもった人、社会科学にめざめた人とか、さまざまな人が協力するようになって、全国的に広がったとみることができます。これが生活綴り方の運動です。しかしこれにも、昭和13年、14年ころから次第に弾圧がおこなわれ、また警戒されるようになりました。ここのところがおもしろいというか、特徴的なことは、ひろい政治的、社会的、思想的、文化的な運動では、もうはやくから弾圧をうけているので、教育界のことは小さな雑魚がやっているものとみたのか、昭和9、10、11年と弾圧はなく、12年ころに全国的なひろがりをみた。昭和12年、中国との侵略戦争が始まるころから、だんだんとにらまれるようになって、やがて太平洋戦争に突入していく前の昭和14年、15年から全国的に大弾圧がはじまったということです。つまりは全国で約300名くらいの人びとが検挙されたり、首になったりすることとなります。私も38年(昭和13年)の春に首になった。また41年(昭和16年)10月には、戦地からかえってきたところを特高につかまり、治安維持法違反で裁判にかけられました。これについては省略いたします。
 学校の方は三九年に国民学校令が勅令によって天皇から下り、1941年から国民学校になっていくわけです。昭和15年つまり1940年という年が国民学校というのになっていく準備をする年でありました。このような30年代、40年代は15年戦争にいくための、高度国防建設と「満州」を中心としての重工業建設という方向に向かい、そしてまた国民精神を総動員していくための、ちょうど教育的な準備を制度の上、内容の上でも、さらに教師に対する弾圧の上でもやった年代ということになります。そういうふうにこのごろは考えたくなります。60年安保の前から勤評があり、教育内容の改定があり、学力テストがあり、教師に対する弾圧がありまして、そしてさいきんでは、68年に指導要領を改悪して、教科書をわるくし、七一年からそれを実施しつつ、一方、中教審は「国家主義」教育企業が要求する能力主義的多様化の学校制度、教師の階層的差別をきびしくした管理体制とそれにみあう教員養成を答申させようとしている。このなかでちがうところは、"ぜいたくは敵だ"というふうには言わないところです。消費社会に適応する人間をつくろうとしているところだけです。つまり倹約せよというところだけはあまり強調しないでマイホーム主義とかレジャーブームにのっかるようなバラバラな個人をつくっていくのでしょう。そのバラバラな個人を「国民」に統一するのが「まとまりのある国民」ということになり、その根底に「反共」と「アジアへの侵出」があります。

軍国主義の復活

 さて70年代の教育は三つの方向があるようです。1つは産業界、企業の側が要求する若年労働者を多様な面で必要とするのにこたえるような多様化の能力主義教育というこれが大学からずーっと下まで及ぶ。第2は、国家主義的な道徳と情操の教育を中心としていく。この場合に佐藤栄作は、沖縄が返還されたのちに、日本がになうべき新任務――を、まっとうすることができるような、あるいは台湾、あるいは韓国にいったんことあるときには、日本の安全に心して前向き に行動をおこすのにみあうような子どもたち、青少年たちを作っていく教育あって、戦後20年間の教育が人間と社会、個人と社会というふうに考えさせ青少年たちに社会の不十分な部分に不平をいわせてみたり、国家に対してのサービスを要求するようなことばかりさせてきたのに対して、新しい価値観をもった子どもたちを作らなければならない。それはなにかというと、共同体国家、民族共同体の一員としての国民を作り上げることだというのです。これらは戦前30年代に準備された重工業中心の高度経済国家、国民総動員的国防国家のそれと、まったく似ていると思います。つまり大国主義、帝国主義的な進出の方向といえましょう。
 第三は操作主義教育で、自然科学教育や数学教育の人びとが、こう呼んで批判しているものです。技術主義といってもいいんですが、技術主義よりも、もうすこし情報化社会とか、管理社会とかいわれているところで、物の見方、やり方、感じ方、仕方、考え方をみな、How to もの式に教えるというのが非常に強調される点で、ちょっとちがいます。みなさんもお読みになったと思いますが、家庭科教科書なんて、飯のつけ方などが書いてある。お汁のもりかた、インスタントスープのつくり方、何でも作り方一辺倒。いま検定出願中ですけど、中学校の技術家庭科の指導要領はおもしろい。ぜんぶ日常生活をおさえて、機械器具のみわけ方などについておしえる。
 数学教育の場合は函数や、集合・確率についての正確な事実と知識は教えることなく、函数的な見方、集合的、および確率的な見方を教える。理科の場合も同じです。自然科学的な見方、考え方、感じ方を教えて自然愛好の精神を養う。たとえばブラックボックスの実験。ブラックボックスを真中において両端に電池と豆電球を設置して、その配線の仕方によって電池のつき方がどうちがうのかというアイデアを考えさせる。アイデアについて一つ一つ検証することなく、ただたくさんのアイデアさえ考えればよいというような創造力を育成する。たくさんアイデアを考えるほどよく、そのアイデアのうちでどれが実用化、商品化するかは、入社した会社の社長・重役が決定するという仕組みになっているのとマッチする教育をする。この操作主義がマイホーム主義、消費生活にちょうど見合うようにできている。この点では戦前の倹約主義とたいへん違う点である。ここに自由があるようにおもわせて、じつは大きく統制していく。ぬかりなく、柔軟に、かっこうよく教えていく。私たちの時代をふりかえってみましょう。
 「大日本、大日本/神代この方一度敵に負けたことなく月日と共に/国の光が運勝る/大 日本、大日本。
 神の御末の天皇陛下/我ら国民の八千万を/我が子の如く思し召される/大日本、大日本。 我ら国民八千万は/天皇陛下を神とも仰ぎ/親ともしたいてお仕え申す/大日本、大日本。」  そして、"大日本"といっている先生の背後には世界地図が壁に貼ってある。弓なりの小さい日本の国が赤くえがいてある。その小日本は鉄、石炭はとれない、羊毛はとれない、綿はとれない、ダイヤモンドや金はとれない、豚もすくない。米さえ不足だ。とにかく何もなく人口はうようよいる。その地図をよくみる、東南アジアなどのところは、オランダ・イギリス・フランス・ ベルギー・ドイツなどの領地になって、それが色分けになっている。子ども心にこれをみると、狭い日本で物はない、人はウヨウヨいる、国債は50億といわれ、くやしいなァーと思う。こんなことならもう少し前に、300年ぐらい前にあそこらへんを少しばかり取っておけばよかったなァー、鎖国させて徳川幕府はバカだったなあ、いまからでは遅いだろうしなァーと考える。と、どこからかの声は「いまからでも遅くはない」とひびいてくる。とくにアジア大陸の東北部、満州には、鉄も石炭も大豆も豊富にあり、1平方キロあたり何人の人しかいないとか、ここを王道楽土にすればということになり、日本の"生命線"になった。それを言い表わすには、東洋平和と天皇の御みいつを海外にまで輝かす、こう言った。
 ところが現在ではどうでしょうか。それをロコツにはいわない。現在では消費社会の謳歌、経済大国のほこり、その経済面での東南アジアにたいする指導者意識を、自然のうちに育てている。「脱亜」のほうにいくように、ことをすすめていく。アジア革命にたいしては、反共連合国のおもな大国としての役割を考えさせようとする。ちょうど戦前の日独伊防共協定が結ばれて太平洋戦争に突入していく30年代と形としては似ているが、かつての加害者が改心したふりをして、それは忘れて、こりもせずに、また加害者に新しい形でなっていく道をつきすすんでいる。30年代と60年代。かつての40年代とこんどの70年代。よくにているようでちがうのである。昔、弾圧され、いま生きながらえて立っているこの小さな教師の体験は、ここに処するに、なにかの教訓をもたらすのでしょうか?
 以上、自分の短い教師生活の体験から考えたりしています。教育運動史的に正確に時代を追って話せば学問的になるのでしょうが、今回はほんとの、ただ経験から考えたことをのべてみました。このような小さな良心のもちぬしたちのしごと、運動が挫折したわけについては、いまは省略いたします。みなさんすでに考えてくださっているはずですから。
1971.12.8 合同出版 「反権力の思想」

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