子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2号

はじける芽2号

昔 村の子供達は

山形県長瀞小 3年土田繁治

   お月様       
お月様の光で
わらすごくおとうさん。
なんぼかうれしいだろう。
お月様をみいみいしている。
お月様よ
毎晩出はれ。
しごとするえから よいぞ。
あかるくてらせ。
まるくてらせ。
どこまでもてらせよ。
お月様。(1933年作)
 去年の夏、高校野球全国大会の中継が終わり、チャンネルをきろうとした折に、『「昔、村の子ども達は」五十年前の子ども』というタイトルが出た。何気なく見ていたら、山形県長瀞小学校の子ども達の描いた生活画が次々に映し出された。そこに描き出される絵の生き生きとした動きにすぐ眼がいった。その絵と同時に、当時の子ども達の生活綴方が朗読されていた。この絵を指導した人が佐藤文利先生。綴方に力をいれた人が国分一太郎先生。そのようにアナウンサーの説明がはいる。 
 画面は、生活画を描いて全国絵画コンクール大会で優勝した時の子ども違と一緒に、教師の姿が大写しに出た。二人の先生が、1935(昭和10〉年代に、東北の貧しい生活をしいられた子ども達に、事実をありのままにとらえる生活画と綴方の教育に本気になってとりくんでいたと、さらに強調する。
 ふたたび、その当時の絵と綴方が次々に映し出される。後半では、50年後の60歳をこした、その当時の子ども達が、国分先生の作った文集『もんペの弟』の中の十編ちかくの綴方を読み、昔の思い出を語る。最後に教え子の一人であり、一昨年まで綴方教師であった鈴木千里さんが、現代の子どもの綴方と比較して、次の詩を読む。

家族とは 山形県 中二  小関陽子
私の家ではみんなくたくたで
話し合うよりテレビ見て
みんな笑ったり雑談したり
日曜日などでみんなそろうと
ドライブに出かけたりして
じっくり話したり
考えあったり
仕事などしあうことなどありません。
こんなこと赤の他人同志でもやれることです。
家庭は こんなものなのですか。

 つまり、 50年前の子ども違は、お月様の光で夜おそくまでわらをしごいてくずをとる作業をする父親の姿を、じっととらえる。暗い所では仕事がはかどらないことを知っているこの子は、明るくてらしているお月様に感謝をしている。労働のきびしさを知っているから、こんな考えができる。ここには、貧しさの中で強く生き抜く子どもの姿が、とらえられる。
 一方、今の子供達の、ものの豊かさに浸っているが、家族の人々との対話や心の交流のないことへの不満、豊かさの中の貧しさが、この詩からとらえられる。ある意味では、今の子供達の方が、むずかしい中にくらしていると考えられる。

こぶし忌への参加

 4月12日〈日)、学期始めの山形県東担市の厚生会館には、三百人余りの人々が集まった。一昨年なくなられた国分氏の業績をたたえ、受けついでいこうと、五十年前の教え子が中心となって企画された、今年で二回自のこぶし忌の会である。
 児童文学者の古田足日さんの国分氏の律義さにふれての講演。生涯の友人、東海林隆氏の生活綴方で人間を育てることを教えられた話。教え子の阿部平蔵氏の、だれにも平等だれにもやさしかったという、昔をふりかえっての綴方の朗読。最後に、作曲家林光さんか、国分さんの綴った「最上川」の詩の作曲を、みずから合唱団を指揮し、会を閉じた。
 生前、国分さんは、「概念くだき」ということを、大事にした。ものごとをとらえる時には、事実をありのままにしっかり見つめとらえ直して、具体的に表現しろということ。ものやことにこだわり続け、ひとつひとつの動きに心や体が生き生きとはたらく子を育てるために、表現活動を大事にした。
1987年 5月1日

国分さんの教え子

 この文章に出てくる国分さんの教え子である鈴木千里さんは、国分さんが亡くなったあと「こぶし忌」の時には、中心的にお仕事をされていた。日本作文の会の全国大会では、時々お見えになっておられた。
 私は、国分さんの追っかけをしていたので、国分さんの分科会で親しげに話されていた姿を思い出す。その頃、2人の関係は知らなかったので、どんな関係の人なのかと不思議に考えていた。その鈴木千里さんも、1989年になくなられた。まだ64歳の若さであった。惜しい方が去って行ってしまわれた。2011.11.5

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