子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

32号

はじける芽32号

下町の子の冬休み-3年生ー

あがったよ たこ 3年女子

おもいっきり前へ走った.
手がおもたくなるのか、
ひっぱられたから
手首をグルグル回わした。
ぼうにまいてあるひもがほどけた。
「わあ、あがったよう。」
と、後ろから声がそう聞こえた。
たこをみあげてみた。
わあ
もっとひもを長くするぞ。
もうひもも終わりになった。
まだまだおちないようにするぞ。
たこは空で気もちよさそうに
あがっている。

たこあげをしている瞬間の所から切り取っている。たこあげの喜びは、糸がたこに引っぱられて手に力が入る所だ。終りが進行形で結んでいるのも良い。

お年玉 3年 男子

みんなからお年玉をもらって
「ありがとう。」
と言う。
どうしてお年玉って、
お正月だけにもらえるのかな。
もらうたびに考える。
「お父さんが、おまえぐらいのころは五百円ぐらいだったよ。」
と父が言っていた。
今は、ニ千円も三千円ももらっている。
何で今とは、ちがうのかな.
「お年玉じゃなくて、お年さつになっちゃったね。」
と、母が言った。

昔も今も、お年玉は子ども達の楽しみの一つだった。父母のしゃべった会話を聞きのがさずにとらえている所も良い。

まっ白いスキー場 3年 女子

ゴー、ゴー、風がつよい。
わたしたちは、ふきとばされそうだ。
きゅうな坂から、まっ白いしゃめんに、
ボーソーぞくをしてすべると、
よけい風がうなる。
ゴーグルをしないとだめだ。
雨もバラバラとふってきた
そのうち雨はザーザーとふってきた。
「ゴーグルちょうだい。」
わたしは母に言った。
「はい。」
と母は言って、わたしにピンク色のゴーグルを
わたした。
風はまだうなる。
ゴー、ゴー。

スキーが大衆化して、子ども時代から親しんでいる子が増えてきた。自然のきびしい風の中でのスキーをしていることが伝わってくる。ゴーゴーという凝声語がはじめと終わりにうまく使われている。

たこあげ 3年 男子

ヒュルヒュル ヒューン。
糸がのびてかぜにあたった。
走って、たこを青空にあげた。
ヒュー ヒュー
どんどん糸がのびてゆく
糸をクイクイひっぱって、
空の上の方で、
たこがあばれまくっている。
たこは 空ににげそうだつた。

たこが空にあがっていく場面にのみ、まとをしぼっている。終わりの2行は、作者のするどい見方で書きあげている。

しも柱 3年 女子

しも柱をふむと
ザクザクと
音がする。
しも柱は、はえてくるのかな。
まっすぐとうめいの色のしも柱。
手でそっとさわったら
手が氷のようにこおったようだ。
つめたい風と土の間にはえていて
いつも元気にのびているんだなあ。

地球の温暖化現象と、都会のアスファルト化で霜柱を目にしたり、足で踏んでみるような機会はなくなってきた。霜柱を知らずに育ってしまう子も出てくるだろう。“はえる”という発想がおもしろい。

初もうで  3年 女子

家族そろって、初もうでに行った.
かめい戸天神には
人が何百人、何千人いた。
きものをきて、おしゃれをしている人もいた。
せびろをきて、だれかとまちあわせをしている人もいた。
二人で、出かけている人たちもいた。
私たちと同じに
家族で来ている人たちもいた。
みんな、今年が良い年であるように、
おまいりしているんだなあ。
神さまも、大へんだなあ。

クリスマスでキリスト教、大みそかの除夜の鐘で仏教、初もうでで神道。日本人はこの十日間位の聞ににわか信者に変身する。初もうでをした時の、まわりのようすに気がついている目がいい。おしまいの一行のしめくくりも良いa

春の七草 3年 女子

「お母さん、七草がゆっておいしいの。」
兄が言った。
「うん、たぶんね。」
母が言った。
「スズナ、スズシロ、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、
ホトケノザが入っているんだよね。」
と、わたしが言った。
「そうだよ。」
と、母が言った。
「どうして七草食べるの。」
と、わたしが言った。
「さあね。」
と、母が言った。
また、食べたいな。

七草がゆという風習が、いつ頃から始まったのか知らない。こういう風習を大切にして、季節感を育てている家族の思いがうれしい。春の七草を全部書けているのも大切なことだ。

 子ども達が遊ばなくなったと言われて久しい。遊べなくなる程忙しくなってしまったと言った方が正確かも知れない。短い冬休みの課題の一つとして、暮れから正月にかけ体験できないような事を見たり、したり、聞いたりしてみようと呼びかけておいた。お正月らしい遊びもたくさんしてほしとも言っておいた。その中から5つ、「詩のノート」の中に書きとめておくものだった。
 昔のように、家族が一緒になって楽しむような遊びも期待してでのことだった。日頃、テレビゲームなどに明け暮れている子ども達に、昔の遊びの楽しさも家族でしてほしかったのだ。カルタ・双六・福笑いに変ってトランプや人生ゲームでも良いからみんなで楽しむ時を少しでも持ってくれという願いであった。おせち料理をつまみながら、おぞうにや、おもちを味わいながら、ふだんとちがうのんびりとしたお正月、心うきうきする何かを1人でも多くの子が切り取ってくれればと考えていた。
 子ども達は、精一杯ふだんとちがう生活をおくってくれた。いろいろな遊びを話に書いてくれるかと期待していたが、意外と少なかった。3年生位でもこうなら、高学年になればなおさら遊びから縁遠くなってしまうのだろうか。1つだけ言えることは、お正月というものが昔ほど楽しみの多いものでなくなってきたのかも知れない。食べもの一っとっても、ふだんからけっこうおいしいものを味わっている。お年玉にしても、もらった金を貯金するほどたくさんの金をもらったりしている。ふだんから高価なものをねだって簡単に手に入れて楽しんでいる。
 お正月だからと言って、心ドキドキするような感動が少なくなってきたことも、子ども達の感性を鈍くしている。豊かさの中の貧しさを乗り越えるために、やっぱり詩は大切だ。
1992年1月23日

下町の子の冬休み

 このタイトルは、正月になるとどの学年を担任しても毎年続けていた。冬休みを迎える前に、必ず師走から正月にかけての暮らしについて話をした。除夜の鐘や初もうでのことは、昔から人々が大切にしてきた行事であることも伝えた。仏教やキリスト教や神教の話もした。こういうときこそ、宗教教育をきちんとする良い機会である。正月でないと出来ない習わしもよく覚えておいて、それを冬休み明けに詩にすることも伝えておいた。たこ揚げや百人一首やカルタなどの遊びは、出来るだけやるように仕向けた。
2012.3.34

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