子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月22日(火)生い立ち・平和教育その2

5月22日(火)生い立ち・平和教育その2

お父さんから聞いたせんそうの話

墨田区立小梅小学校 二年 女子
 この間、おばあちゃんが来たときに、
「せんそうってとてもこわい、いやなことなんだよ。」
と言うことを聞き、わたしはお父さんに、
「せんそうのことについてお話しして。」
と言って、一週間ぐらい聞いていました。すると、お父さんは、
「せんそう、それはとてもたいへんなことだったんだよ。純子にはまだ少しむずかしいことだから、そのころ子どもだったお父さんが、今でも心にのこっていることを話してあげるよ。」
と言って、色々話してくれました。
 今から三十七年前、だいとうわせんそうというせんそうのおわりごろ、お父さんはみなとく赤さかにすんでいて、近くののぎ小学校に入学しました。そしてまもなくくうしゅうというとてもこわいことが、はげしくなってきました。くうしゅうとは、てきのひこうきが近くにやってきて、ばくだんとかしょういだんという花火のように明るい火の玉が、空からふってくることだそうです。だから、わたしにとっておじいちゃんのいなかに、お父さんは一人ぼっちで、そかいしたそうです。そかいとは、にぎやかな町だと、てきのひこうきにこうげきされやすいので、いなかのように山や川や田んぼが多く、あまり人のいないところにひっこすことです。お父さんは、いなかのおじさんやおばさんにとてもよくめんどうを見てもらったのですが、夜になるといなかになれていないお父さんは、自分のお父さんやお母さん、それにお父さんは四人兄弟のすっこなので、兄弟に会いたくて、一人でになみだが出てきてなきながらねたそうです。
 お父さんの小学校には、はねだせいきというせんそうのどうぐをつくる会社がひっこしてきていたので、高学年の人はあまりべんきょうしないで、その会社のお手つだいをさせられました。それにいえにあるてつや、くぎなどみんなひろってあつめてその学校にあるその会社にもちよったそうです。それは、ひこうきのげんりょうになるからです。
 またおべんとうばこも同じように、げんりょうになると言われて、ぜんぶのせいとが学校にもってきて、その会社にあげました。だからお父さんたちのおべんとうは、いつもおにぎりで、竹のかわにつつんでもっていきました。お父さんたちも、ときどき名前はわすれたけれども、じょうぶな長い草をつみに学校近くの土手へいかされました。それはへいたいさんのようふくや、さかなをとるあみなどになったそうです。いなかにもだんだんくうしゅうがはげしくなり、じゅぎょうちゅうにサイレンがなり、こうていのはんたいがわに作ってあるほらあなみたいなぼうくうごうという名前のところに、かくれることが多くなってきました。
 ある日のこと「ウー。」と言うサイレンがなって、お父さんのクラスは、だいとく先生という女の先生につれられて、ぼうくうごうにかくれたときのことです。その先生は、
「しずかにしてください。」
と言ってしょくいんしつのほうにかけていきました。いつもいっしょにいてくれるのに、お父さんたちは、
(へんだな。)
と思っていたら、まもなく赤ちゃんをだいてぼうくうごうの方にかけてくるだいとく先生が見えたとたん、
「ゴーッ。」
と言う音がしたと思ったら、
「ダッダッダダダダダダ。」
とこうていの土がはねるのが見えて、だいとく先生はたおれてしまいました。お父さんたちはとてもこわくて、クラスの人たちとだきあって、しばらくじっとしていました。少しすると、こうていの方がガヤガヤして、べつの先生が、
「もう出てきていいぞ。」
と、いったので出ていってみると、だいとく先生は、せなかに大きなあながあき、まわりはちだらけでしんでいました。赤ちゃんはそばで、
「ギャーギャー。」
とないていたそうです。赤ちゃんが学校にきていたのは、だいとく先生の家は神社で、その日おまつりで先生のおばあちゃんもおじいちゃんもいそがしかったので、学校につれてこなければならないのです。お父さんたちはこうていのすみで、長いことないていたそうです。今でも学校のうらにだいとく先生のおはかがあると言っていました。それはいばらぎけんのねもと小学校のできごとです。たすかった赤ちゃんは、その先生の男の子で、今はいなかで高校の先生をやっていると、お父さんは教えてくれました。それからたべものなんかも少なくおいしいものなどたべられない、とてもいやなときだったそうです。
「代用食といってお米のかわりに、おいもやうどんこで、いろいろなものを作ったんだよ。」
 それでおいもも、今みたいにおいしいのではなく、ガソリンいもという大きいばかりであまくないビチャビチャしたのもだったと教えてくれました。
 そのせんそうが終わったときは、一年生の夏休みで、お父さんのお父さんやお母さんが、東京の家をやかれ、いなかにきてすぐのことだったそうです。
 まだたくさんのお話をしてやりたいけど、純子がもう少し大きくなったら、もっとくわしく話してあげると、お父さんは言っていました。わたしはお父さんの話をきいて、おや兄弟とはなれなくちゃならなくなったり、びょうきでもないのに死ななければならなくなったり、食べものがなかったり、いつもこわい思いをしなくてはならないせんそうなんていやです。みんななかよくくらせるように、わたしたちががんばらなくてはいけないと思いました。 一九八二年 三月作
82年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収
 今から36年前の作品である。今回もう一度ていねいに読んでみた。お父さんが語ってくれたねもと小学校が茨城県の何市にあるのか、はたして今でもあるのかとインターネットで調べてみた。すると稲敷市立根本小学校が出てきた。ホームページもあったので、学校の沿革と言うところを検索してみた。すると明治10年9月開校となっているので、かなり古い学校である。学制発布が明治5年に発令されているので、その5年後には開校されている。さらに沿革史を読んでいくと、次のような項目が出ていて驚いた。
 昭和20年 7月 本校訓導,大徳しん氏,機関銃射により死去。19日校葬執行。
 お父さんが語られていた話は、かなり正確に語られていたことがわかる。そのときの大徳先生がだいて助かった赤ちゃんが、この作文が書かれていたときは、いなかの高等学校の教師をされていると書かれている。1945年に赤ちゃんであるから、今お元気ならば、65才以上になられているはずである。もう退職されている年齢だ。作者のお父さんは、交流があったのであろうか。話は、次々に広がってしまう。今、この作者は、群馬県の方に住んでおられる。お父さんは、具合が悪くて、東京から引き取って一緒に住まわれていると、3年ほど前に手紙が来た。この作文が根本小学校に届けられているのだろうか。高校の教師をされていた先生の元に届いているのだろうか。そんなことまで、話は広がってしまう。この作品が書かれた30年近く前に、お父さんと相談して進めておけばよかったと後悔している。今回、自分の整理のためにまとめているのだが、この作者に手紙を差し上げる予定だ。

原博おじさんの戦争体験

墨田区立小梅小学校 五年 男子
 僕の家の知り合いに、江東区に住む原さんという八十六才のおばあちゃんがいます。博おじさんは、そのおばあちゃんの長男で六十三才、ぼくの大好きなおじさんです。(途中略)

最初の訓練

初め初年兵と言って、学校で言うと一年生の各部屋に十二,三名入ります。軍隊の中はきまりがきびしくて、何かというとすぐほっぺたにげんこつでぶんなぐられました。例えば言葉づかいです。上の人に呼ばれたら、「はい○○○○どの。」の「はい。」が小さいとなぐられます。
 また、できるだけかんけつにはなさないとなぐられます。といれにいくのに、「中山、便所に行ってきます。」帰ったら「行ってきました。」というのです。言い方が悪かったり、声が小さくてもなぐられます。ずらっと、横一列にならんで順にひっぱだかれるので、初めの人は痛くても、最後の人は、それほどでもなくなります。なぐる人がつかれてきてしまうからです。
 朝は、六時に起床ラッパで起きます。一分ぐらいで制服をつけて外に出て、すぐ上半身はだかになり、かんぷまさつをします。食事のあとで休む間もなく訓練があります。それらは、敬礼が一ばん最初です。軍隊帽をかぶり、真っ直ぐのしせいで、斑づきの上等兵の号令で、右手を目の横ななめ、ひじをぴんとはって敬礼です。帽子をかぶっていない屋内では、真っ直ぐのしせいからこしを十五度の角に曲げる礼です。
 ぼくは、こんな敬礼の仕方をなぜ決めたのだろうかと思います。それが出来ないとなぜ、ぶんなぐられなくちゃいけないのでしょうか。
 次に、右向け、左向け、前へ進めと歩くこと、それが終わると、鉄砲の打ち方とかです。動作が一分早くても一秒おそくても、斑づきの上等兵または、下士官にすごい勢いでなぐられるのです。手だけでなく、ベルトやくつも使います。
 「痛い。」とか、声を出すとよけいになぐられるので、みんな歯をくいしばってがんばるのでした。歯をしっかりかんでないと、口の中が切れてしまうと榎本先生が、教えてくださいました。
 軍隊と言うところは、本当にきそくずくめだったんだなあとびっくりします。

フィリピンでの出来事

 軍隊は、いつも司令の命令で、異動します。おじさんは、まもなく南の方に転ぞくするために、船に乗せられ、着いてみると、フィリピンのマニラでした。そこでも憲兵隊司令部に所ぞくしました。戦いは、だんだんはげしくなり、アメリカ軍の攻げきも強く、日本軍は、だんだん山の中に追われて行くようになりました。
 山の中では、つらいことばかりでした。アメーバ赤りにかかり、マラリアで死にそうになったりしました。アメーバー赤痢りは、川の水を飲むことによってかかる病気です。水がないので、川の水を使い、川上から川下へと次々に病気が広がって、食べ物も、薬もなくみんな「戦病死」していくのでした。
 おじさんも、この病気にかかって動けず、山の中の一けんの小屋でじっとしていました。おじさんは、持っていた「クレオソート」を飲み、あとは飲まず食わずでじっとねていました。
 マラリアとは、蚊にさされて高い熱が出て息苦しくなり、食べ物がのどを通らなくなって、うわごとを言いながら死んでしまう病気です。おじさんは、それほどひどくなく、熱で苦しみながら、
(ぜったいこんな所では死ねない、母さんの所へ帰るんだ。)
と自分に言い聞かせて、
「母さあん。」
とさけんだ時、元気をとりもどしました。マラリアにもアメーバ赤りにも負けず、よごれたままの軍服とズボン、ただ必死で山の中を歩き通しました。草の根を食べたり、トカゲを食べたりしました。
 山の中で、フィリピンにある日本の会社につとめていた人たちと会いました。この人たちも病気や飢えで次々と死んでいきました。
 ある女の人は、夫と子どもをなくし、一人になって生きていてもしかたないから、そのピストルでうって殺してほしいと言いました。この女の人は、けっきょくなくなってしまったのがわかりました。おじさんは、部下に手伝わせて、ていねいにほうむってあげました。
 死んでいった兵隊に出っくわすと、浅く土をほって、その場にねたまま土をかけてほうむりました。家族に知らせるためには、その人の小指だけ焼いて、その骨を小箱に入れ名前といっしょに保かんしました。
 おじさんは、心の底から戦争のこわさ、おろかさを感じて悲しく思いました。

捕りょ

昭和二十年八月十五日、日本は、アメリカ、イギリス最後にはソ連まで加わった連合国との戦争に負けたのです。このことをおじさんは山の中の憲兵隊司令部で知りました。戦争が終わっても、すぐには日本に帰れず、きょうせいてきにアメリカ軍の捕りょになって、収容所に入れられ働かされました。毎日、作業をやらされて、アメリカ兵にこん棒でなぐられたこともありました。ある日、
「何かやろうよ。」
と言うことになり、おじさんは歌に自信があったので、申し込み用紙に記入して、演芸部に入りました。そして「青春日記」というげきをやりました。
 部隊を作り、着物はメリケン粉のふくろで作り、色は花でそめたり、かつらをあさなわを一本ずつそろえてほぐして作りました。げきを演じると、みんな涙を流してじいっと見つめていました。おじさんは、このげきの歌の作曲をして、主役の妹役をし、歌ったりしました。作詞をした人は、西野さんと言って、荒川区の人でした。この人は、帰国後十二年くらいあめ屋をしていました。ガンという恐ろしい病気でなくなりました。その後、おじさんは、西野さんの三人の娘さんの結婚式に招かれました。その式で三回とも、
「これがお父さんの作詞した歌ですよ。」
と言って歌いました。するといつもおくさんと三人の子どもさんも、涙をポロポロこぼして泣いていました。

帰国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員泉の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。

焼けあとの東京(全面略)

おじさんは、十三才の時から、お父さんに仕事を教えられ、手に職をつけていました。ガラスのお皿やコップに、もようをきざむカットガラスという仕事です。それが始められるというので、一年ぐらいで一人で東京に出てきました。墨田向島一丁目の家は燃えずに焼け残っていました。その家には、お母さんといっしょには、そかいしなかったお父さんと妹二人が、ずっと住んでいました。おじさんは、お父さんと妹二人と四人でくらし始めたのです。
 東京は焼けて食べ物もなく、ひどい状態でした。焼けあとを掘って鉄くずや、ガラスくずをあつめるもの、食べ残しの食物を拾い集めるもの、子どもたちは、かっぱらいやスリをやったりしていました。
 戦争で親をなくした子どもたちが、上野の山などにわんさといました。めんどうを見てくれる人はいないので、グループを組んで食べるためには、なんでもしたようです。昼は、くつみがき、夜は駅の地下道で寝て、服はよごれ、おふろへ入らないので、かみのけもボサボサ、しらみ(虫)が住みついてしまうのです。
 こんな状態は、ぼくにはそうぞう出きません。住む家もなくて、子どもだけで、毎日、本当にくらせたのだろうかと不思議です。こころぼそくて泣いたり、おなかがすいて泣いたり、けんかもあったと思います。昔の子は、生きていく力がすごいと思いました。
 その後、この子たちは戦災孤児として、いろいろなし設で、りっぱに育てられたのです。

おじさんのうけた教育

 おじさんの小さいころは、
「男の子は、かならず戦争へ行って兵隊になるのだから。」
と、強く正しくと教えられました。また、体をきたえる運動や剣道、柔道などもきびしくしごかれました。
「戦争になったら、喜びいさんで行ける人になれ。」
と、そればかり心がまえを教えられたのです。
 科目は、「算術」「読み方」「修身」「図画」「唱歌」「操行」とかです。男子と女子はいっしょに並びません。男子はいつも女子より上と教えられ、学校でも家でも、男子はとくべつに大事なあつかいを受けました。
 兵隊に行くことになった時、おじさんは、人がいる前ではうれしそうにして、一歩外へ出ると、とたんにがっくりしました。お母さんが、心から喜ぶはずがないと思ったからです。
 今は、あんなところ(軍隊)へ行くのはいやです。これから若い人にはぜったいに戦争には参加してほしくありません。このことを忘れずに、とおじさんは強く言っておりました。   

ぼくの思うこと

「赤紙」を見せてもらいました。おじさんは、赤紙が来て戦争に行ったのではありません。手元に持っていたものです。ぼくには、むずかしくて全部は読めませんが、「臨じ召集令状」と書いてありました。次の所には、名前を書く所、とう着地、召集部隊。うらには、びっしりと注意や心得、しょち、刑罰などが書いてあります。これをもらうと、どんな人も軍隊に入らなければなりません。乙種合格の人にも、年の多い人にも、戦争がひどくなると、ほとんどの家々に赤紙が来ました。「学徒出陣」と言って学生さんも、みんな戦争に行きました。
「兵隊に行くと言うことは、死ぬことだ。」
とみんなかくごしていたそうです。そうすると、死ぬことをしょう知して、みんな、りっぱに出かけたと言うことですから、ここのところは、こわいと思います。
 また、そのように小さいときから訓練されたと言うのも、ひどいことだと思います。
 おじさんのように戦地に行って、生きて帰ってきた人は、本当に少ないのです。フィリピンから帰った人は、特に少ないそうです。
 ある人は、ジャングルの中で戦病死、またばくげきでひとかたまりに吹き飛んで、また船が沈んで海の底で、そして、飛行機といっしょにつっこんだりして、みんななくなりました。
「お国のため」とか「天皇へい下バンザイ」と言って死ぬ人もいましたが、ほとんどの人は「お母さん。」と言って死んでいったのです。ぼくはやっぱりもうだめかなと思っても、最後まで生命をそまつにしないで、れいせいに行動する人になりたいです。
 実際に戦地に行ってきたおじさんから聞いたこの戦争の話は、とつげきとか、鉄砲や飛行機で戦うような場面ではありませんでした。でも、じゅう分、戦争のこわさ、むなしさ、悲しさを伝えてくれました。ぼくは、戦争はひどいな、やってはいけないな、悲しいことだなあと、心の底から思います。
 なぜ戦争が起こるのか。どうして国と国が戦う所まで行ってしまうのか、今のぼくにはわかりません。
 ぼくは、これからいろいろ勉強して、何が正しいかを知ったり、日本の国の憲法なども、しっかり学んでいきたいと思います。平和の大事さ、ありがたさをわすれないようにしたいと思います。
 おじさんは、戦争体験を今までは、他の人に話したがらなかったそうです。でも、ぼくに、よくわかるように、正直に話してくださいました。生きるために、フィリピンの人の水牛をつかまえて、殺して食べたり、そのことでフィリピンの人々に、おじさんが捕虜になって、車で収容される時、
「カラパオ、パタイ(水牛を殺した)」
と言って、石を雨のように投げられたりしました。
 また、捕りょで作業の時、アメリカ軍のいもん袋から、お菓子をぬいて食べました。
「こんなことは、しちゃ行けないんだよ。本当はね。」
と言いながら話してくださいました。
(ずいぶん、苦労したんだなあ。)
とぼくは、つくづく思いました。
(でも、生きて帰ってきて、よかったね。おじさん。)
と何度も心の中で言いました。
一九八五年 三月作
85年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収
 この作品は、四百字原稿用紙24枚の圧巻だった。当時の年刊文集は、こんな長い文章も、ノーカットで載せてくれた。最初のきっかけは、「ぼくの知り合いのおじさんは、戦争体験者です。」という一言が、別の題材で日記帳の最後に書かれていた。それがきっかけで、そのおじさんとのやりとりが、手紙やテープ起こしを入れながら始まった。「小見出し」を入れると読みやすいことも教えた。帰国して母と対面するときは、何度読んでも胸に迫ってくるものがある。
 国分さんは、亡くなる一年前、神戸で開かれた日教組第33次日高教第30次教育研究全国集会全体集会で、演題は「『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と」記念講演された。その中でも、昔の貴重な事実を掘り起こし、それを後世に伝えていくことの意義を強調された。その話に勇気をもらい、この聞き書きを始めたのだった。
 この作品が完成する前後の二月に、国分さんは、息を引き取った。
 二十八年前の第三十二回石川大会(一九八三年)の時に「生活綴り方と平和教育」分科会に参加し、平和教育の大切さをたくさん学んだ。その時の世話人が国分一太郎さんと谷山清さんであった。大会資料として、「平和・われらと世界のねがい」が二ページにわたり、世界史的な観点から、一九四五年の国連憲章前文から始まり、日本国憲法前文・教育基本法前文・世界教育憲章・児童権利宣言・ユネスコ軍縮世界大会会議の報告などが載せられていた。国分さんが、そのあらましを簡単に整理して説明してくれたことを覚えている。そこの考えを受けて、この分科会ができた経過が語られた。谷山さんは、平和学習の取り組みとして、「広島修学旅行の実践」が語られた。私は、この時初めて、平和教育の大切さを、歴史的に学ぶことができた。自分の勤めている墨田区で何ができるかを自分に問い返した。それは、墨田区が東京大空襲の被害の中心地区だったので、それの掘り起こしが私の仕事の中心になるという結論にいたった。以後、この三月退職するまで、子どもたちに「年配の人から昔の出来事の中で、心の中に強く残った事をていねいに聞き書きしてそれを綴ってみよう。」という指導題目は、何年生を担任しても子どもに向き合わせてきた。
 その後、退職5年前に「母の姉は中国に」という作品ができあがった。

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