子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月22日(火)生い立ち・平和教育その3

5月22日(火)生い立ち・平和教育その3

母の姉は中国に

墨田区立立花小  5年  男子

中国での生活

 僕の母には、中国に姉がいます。僕にとっては、おばさんにあたります。名前は、陳景華(チェンケイカ)と言います。僕は、
(なんで中国に姉がいるんだろう。)
と不思議に思いました。母は、
「おばあちゃんが、二十一才の時、昭和十九年、その当時、おばあちゃんは同盟通信社に勤めていたのね。上司が中国(満州)の支社にいくことになったので、おばあちゃんも一緒に行ったの。」
と言いました。母が祖母に、
(よく親は許したねえ。)
と聞いたら、
(当時、日本は戦争による食料不足、満州は食料豊富だったので行った方がいいと親は思った。それに満州は、日本領土ということになっていたので、外国という感覚じゃなく、東京から北海道に行く位の感覚だった。)
と話してくれたそうです。祖母は新潟から船に乗り、3日ほどで朝鮮半島に着き、汽車で中国に入りました。満州は、お米やお肉、お魚など何でもあったので、豊かな生活でした。中国語は話せなかったけど、日本人が多かったので、困らなかったらしいです。そのうち、太平洋戦争がはげしくなって、一九四五年(昭和二十年)八月十五日、日本軍はアメリカ・イギリスを中心とする連合国軍に敗れました。そのため、日本人は、日本に引きあげなくてはいけませんでした。ところが、一九四五(昭和二〇)年三月十日の東京大空しゅうで台東区にあった家はすべて焼けてしまい、親兄弟と連絡が取れなくなってしまいました。帰れなく困っていた祖母を助けてくれたのは、中国で知り合った友人達でした。その中の一人が陳康初(チェンガンツ)という軍人でした。その人は、中国の国民党軍の人で、台湾にずっと行っていて、中国に帰って来た人でした。祖母は、陳康初と言う人と結婚することになりました。その頃、日本の家族と連絡が取れ、日本の両親も結婚を許可してくれました。日本に帰国しても、満足に食べるものがない時代だったので、中国にいた方がいいと思ったらしいです。戦争が終わった後、日本人はソ連軍の捕りょになったり、引きあげの途中で財産をうばわれたり、病気になって日本に帰れなくなった人も大勢います。その中で祖母が無事でいられたのは、
「陳康初さんが軍人であり、裕福な生活ができる人だったから。」
と母は言いました。一九五〇(昭和二五)年七月に陳景華さんが生まれ、一九五三(昭和二八)年一月ぼくの母が生まれました。その当時は、中国の紹興(しょうこう)に住んでいたそうです。ぼくは、母の話がよく理解出来ませんでした。
 戦争の後、中国では内戦が起こり、共産軍と国民党軍が争いました。
 紹興は、田舎(いなか)で内戦の影きょうはあまりありませんでした。陳康初さんも軍人をやめかんぶつ屋の商売をやっていたため、割合おだやかな生活でした。しかし、国民党軍が負け。国民党軍の総統だった蒋介石が台湾に行ってしまうと、中国の政治が共産主義となって、外国人は全員国外へ出なくてはならなくなりました。祖母の子どもは、父親が中国人ということで、二人ともおいて日本にいくように命令されました。祖母は生まれたばかりのぼくの母を、ぜったい置いて行かれないと思い、
「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」
と強く言いました。ぼくは、
(この時代は、反抗すると、殺されたりなぐられたりするのに、おばあちゃんってすごいなあ。)
と思いました。とうとう願いを聞いてもらって、生後2カ月の僕の母を一緒に連れて帰ることが許されました。しかし、二才半離れた姉は、父親のところでくらすことになりました。ぼくは、母に、
「おばあちゃん、そん時お姉さんに何か言ったの。」
と聞くと、母は、
「お母さんが思うには、中国てあんまり遠くないし、実のお父さんのもとに置いて行くのだか ら、生きていればいつか会えるって、絶望的にはならなかったと思う。別れるときは、なんて言ったかわからないけど。」
と言いました。
 1953(昭和28)年3月、祖母は母をだいて、日本に帰ることになりました。母は帰って来られるからいいけど、中国に残される景華さんがかわいそうに思いました。

帰  国

 帰国するとき、陳康初さんは、紹興駅まで一緒について来ました。祖母は狼(おおかみ)の毛皮のコートを着て、あかちゃんのおしめを持って、身の回りの物など大きな荷物を持ち、母をだいていました。紹興駅から上海(シャンハイ)まで行き、上海港から船で日本へ帰ることになっていました。祖母は、陳康初さんから、紫色の宝石のついた金の指輪と、水晶の印かんをもらいました。ぼくは、
「その時、おばあちゃん、どういうこと話した。」
と聞くと、
「『1つだけ、三年間たって中国に帰れなかったら、それぞれ別々の人生を生きていきましょう。景華のことは、よろしくお願いします。』と言ったそうよ。もっとくわしく聞きたいけど、おばあちゃんは、『昔のことは忘れた。』と言うばかりで、あまり話したくないと思うよ。」
と、母は言いました。ぼくは、
(ぼくもおばあちゃんだったら、そういうことはあまり話したくないなあ。)
と深く思いました。上海から船でたって3日間で京都舞鶴(まいづる)港につきました。日本が見えてきたとき、緑一色の日本列島を見て、
(ああ。日本の国は、なんてきれいなんだろう。)
と、祖母は思いました。舞鶴港には、祖母の父親と弟が迎えに来てくれました。それから、
汽車に乗り、9年ぶりに東京に帰りました。

実家での生活

 祖母の父親は、戦前鉄工所をやっていた技術を生かして、戦後荒川区南千住で風呂釜を作っていました。大きな旅館などが得意先でした。銅でできた風呂釜は、数年でこわれるため、けっこうもうかっていました。祖母は、母が保育園に入る年まで実家にいました。母は、
「実家がかなり経済力があったから助かった。おじいちゃん(ぼくにとってひいおじいちゃん) おばあちゃんにすごくかわいがってもらったよ。だから、お父さんとか別にいなくても、寂しくなかったんだよ。」
と、言いました。母と祖母が帰ってきてから、すぐ国交断絶が行われました。もう中国に行けないし、手紙も出せません。ぼくは、
(おばあちゃん悲しんだかなあ。)
と、思いました。もう景華さんとは会えなくなってしまったのです。その後、祖母は古着屋の店をやりながら母を育てました。母は、
「お父さんのことを聞くと、『あんたが大人になったら話してあげる』と言って、一言も話して くれなかった。そのうち父親のことは、聞いてはいけないことだと思うようになった。」
と、言いました。
昭和四十年(一九六五年)祖母は再婚しました。その人が、今団地に住んでいる僕のおじいちゃんです。

中国からの手紙

 昭和61年(1986年)11月18日、突然、荒川区南千住の祖父母の家に、母宛の手紙が届きました。中国の景華さんからの手紙でした。前の年、僕の兄が4才で肺炎で亡くなった時、母は初めて、中国に姉がいること、父親が中国人だったことを祖母から教えてもらったそうです。母は、
「子どもを亡くして悲しかったけれど、この地球上に、血のつながった姉がいることは、とてもうれしかった。」
と、言っていました。突然届いた手紙だったので、父の会社の人に翻訳(ほんやく)してもらいました。母は、手紙を開くとき、すごくドキドキしたそうです。母は、
(きれいな字だなあ。)
と、思ったそうです。内容は、「中国のお父さんが9年前になくなりました。」とか、「お父さんの遺品(いひん)から住所が分かった。」とか、「母親が日本人ということで、いじめられ、恨(うら)んだこともあったが、今は、結婚して幸せに暮らしている。」ことなどが書いてあったそうです。その時、祖母にも景華さんから手紙が来ていました。母が言うには、
「ほとんど、同じことが書いてあったらしいよ。」
と、言いました。ぼくは、
(おばあちゃんは、手紙を読んでどう思ったのかなあ。)
と思いました。母と祖母は、景華さんに手紙を送ったそうです。手紙と一緒にいろいろなおかし、例えば「煎餅(せんべい)・チョコレート・クッキー」などなど送りました。後から腕時計3人分(景華さん、ご主人、子ども)を送りました。母と祖母は、中国語が書けなかったので、日本語で書きました。年をとった中国の人は、日本語が分かる人が多いので、必ず誰か読んでくれると、思ったそうです。ぼくは、
(榎本先生も、年をとった中国の人は日本語を読める人が多いとか、教えてくれたなあ。)
と、思い出しました。それから、数ヶ月して、景華さんから返事がきました。
「うで時計をお母さんだと思って大事にします。」
と、手紙には書いてありました。それから文通が始まりました。文通が始まった頃、中国は国内も自由に旅行出来ませんでした。今はだいぶ変わり、一部では海外に自由に行けるようになりました。
 それは日中平和条約が1972年に結ばれ、日本と中国が仲良くなり、国交を回復したことが大きな理由です。

ぜったい中国に行こう

 最近母から20センチメートル四方の古い布に薄くなってよく読めない、茶色の文字で
「路進神不阻、心連別何妨、○○存証,康哥1953.3」と書いてありました。,
『何、これ。』
と、母に聞くと、
「中国のお父さんが別れるとき、おばあちゃんにくれたものよ。この字はね、中国のお父さんの血で書かれているのよ。」
と、母は小さな声で言いました。ぼくは、
「えっ。」
と、すごくびっくりしました。母は、布をふうとうに入れ、しょっきだなの引き出しにしまいました。ぼくは、
(こわかった。)
と、思いました。ぼくは、
「何で血で書いたの。」
と、母に言いました。母は、
「それはたぶんおとうさんの強い愛情を表しているの。」
と、言いました。ぼくは、
(何で血で書いたんだろう。)
と、不思議に思いました。母は、
「ぼくの体にも中国人の血が4分の1流れている。」
と言っています。ぼくは、
(戦争がなければ景華さんと別れなくてすんだのに、前から思っていたけれど、戦争は恐ろしい。)
と、強く思いました。でも、母は、
「戦争がなかったら、中国に住んでいたと思うよ。」
と、言っています。そうすると母は父とは出会わないことになります。ぼく達3人の兄弟は、この世に生まれなかったことになります。戦争がなかったら、ぼくは母とも会えなかったし、この世にいませんでした。ぼくは、
(戦争のおかげで母や父やいろんな人に会えたんだなあ。)
と、正直ちょっとふくざつな気持ちでした。でも、戦争はよくないものです。おそろしいものです。
母も言っているけど、
「いつか絶対中国に行こうね。」
ぼくも、
(中国に行ったら景華さんにも会ってみたいし、いとこにも会ってみたいなあ。)
と、思ったこともあります。
(お母さん、家族で絶対中国に行こうね。)
と、僕は思っています。
 ○○には、理解できないことも多く、この文章を書くのに何日かかかりました。

ご苦労様!

 私にとってもいろいろ整理するよい機会となりました。変色した古い布の切れ端は、大人になったら娘に見せてほしいと中国の父から託されたそうです。一部読めない字もありますが、
路進神不阻
心連別何妨
○○存証
康哥1953.3と書かれています。
 この文字を書くためにどれだけ血を流したのか。この文字を目にするたび、父の深い愛情と励まし、同時に無念さを思い胸が痛みます。戦争ほど残酷なものはありません。これからも子供たちとは、機会あるたびに語り合いたいと思います。世界中から戦争をなくすにはどうしたらいいのかを。
※康哥は書家としての号で、陳康初さんのことです。 母より
 こんなドラマチックな話、読んでいるだけで胸にこみ上げる場面がたくさんありました。いろんな事情があるんでしょうが、おばあちゃんが元気なうちに陳景華さんを日本にお呼びして、親子3人が対面できるといいのになあと勝手に思ってしまいます。
まだまだ戦後は終わってないなあと、みんなが書いてくれた文を読みながら感じました。中国残留孤児のみなさんが日本にやってくるたんびに、○○君のおばあちゃんやお母さんは、テレビに向かってもしかしたら陳景華さんではないかと思いながら、見ているのではないかと、勝手に想像しています。語らずにいた秘密の話を、お母さんは思いきり語ってくれました。それをこんなに○○君は、心をこめて書いてくれました。中国の陳景華さんに、この作文の願いが届くことを願っています。ぼくも心より応援しています。
 このように、お礼の手紙をお母様に差し上げた。この作文を書き上げて、クラスの中で読みあった。様々な感想が出された。その仲の3人の子どもの作品を紹介したい。

M君へ     五年 男子

 M君に中国人の血が流れているとは、知りませんでした。戦争は、とても恐ろしいし、ざんこくです。戦争で何人の人が死んだのか、それはわかりません。戦争なんてやってはいけなかったのです。しかし、戦争がなければ、M君はこの世にそんざいしません。M君のおばあちゃんは、日本に帰って来る時、おじいちゃんの手紙をもって来たそうです。文字はなんと、血で書かれていたそうです。なぜ血で書いたのかは、大切なM君のお母さんに深い愛情を表したかったんだと思います。今、日本人はだいたい英語を習っています。しかし、M君はぜったい中国語を習うと思います。いっこくも早く、中国語を覚えてもらいたいです。それに、何十年も離れ離れになっているチェンケイカ(陳景華)さんと、一秒でも早く再会してほしいと思います。おじいちゃんからもらった布の手紙の中国語の文字を、日本語に直せばぜったいに、強い愛情が感じられると思います。《略》

M君のおばあちゃんはすごい    五年 男子

 中国から日本に行くように命令された時に、M君のおばあちゃんは、
「この子を連れて帰れないなら、日本に帰りません。」と、良く言えたと思います。言うのはM君のお母さんをそれほど育てたいという愛情だけでなく、かくごも必要です。《途中略》ぼくは、M君のおばあちゃんの決意は、すごいと思いました。しかし、チェンケイカさんを引き取れなかったことは、多分一生くいに残ることです。帰国するときに、M君のおばあちゃんが、「三年間たって中国に帰れなっかったら、それぞれ別々の人生を生きて行きましょう。景華のことは、よろしくお願いします。」と言った時は、きっとふくざつな気持ちだったと思います。M君のおじいちゃんの愛情。血で書かれた手紙の部分を読むだけで、深い愛情を感じます。ぼくは、(はじめて読んだ時は、こわかったけど、何回も読んでいると、それが家族に対する思いやりなんだなあ。)と考えが変わって来ました。M君からお母さんから見ればお父さんの大切な手紙です。M君のおじいちゃんからすれば、M君のお母さんをあずかりたかったかもしれない。しかし、M君のおじいちゃんは、おなくなりになりました。

M君の気持ち

 今まで、本当のおじいちゃんだと思った人が、血がつながっていないと聞かされたら、びっくりする。それに、M君の体に四分の一の血が流れていると聞かされたら、ぼくだったら、どうしたら良いのかがわからない。M君は、あまりこの文を見せたくなかったと思う。

M君のお母さんの気持ち

 とつぜん手紙が届き、お姉さんがいると知った時、おどろきとうれしさがあったと思う。ちょうどM君のお母さんのさいしょの子どもが、肺炎(はいえん)でなくなった時だから、色々大変だったと思う。その時が、一九八六年だったそうです。M君のお母さんから見れば、本当の父がなくなったり、子どもがなくなったり、姉がとつぜんいるとわかったりして、びっくりしたと思う。本当のお父さんとお姉さんが中国にいたことなんかだれにも知られたくない。

ぼくの気持ち

 M君の家族で、中国へ行ってほしい。親や姉妹に会えないなんて、どんな人だって会いたいと思う。しかし、中国に行くには、お金もかかる。それに、M君のおばあちゃんは、「三年たったら別々の人生を歩む。」と言って、チェンケイカ(陳景華)さんは、日本に連れて行けなかった事もある。少し気まずいけど、M君の友達として、中国に行って、いとこやチェンケイカさんとそのご主人に会ってほしい。

M君の作文を読んで  5年 女子

 M君の「母の姉は中国に」という文を読んで、私は色んなことにびっくりした。まず、M君の体の中にも、少し中国の血が流れていることと、実のおじいちゃんが、中国人だったってことだ。私は、(こんな身近なお所に、戦争でこんな体験をしたおじいちゃん、おばあちゃんがいるんだなあ。一年生から今まで、ずっと同じクラスだった人に、こんなすごい人がいるなんて。)と思った。遠藤君のおばあちゃんは、食べ物に困ったりしなかったらしいけど、子どもを一人陳景華さんを中国に置いて行ってしまった。(もし、昭ちゃんのお母さんと陳景華二人とも日本に連れて来られたらどうなっていたんだろう。昭ちゃんのお母さんを中国に置いて行ってしまったら、昭ちゃんは今この立花小学校のこのクラスにいなくなっちゃうんだ。昭ちゃんは、戦争があって今このクラスにいるんだなあ。)といろいろ考えた。
(昭ちゃんは、この作文を書くのにどれだけ苦労したのだろう。書くのも大変だったけど、このおばあちゃん達の体験したことや、実のおじいちゃんが中国人だったこと。中国に自分のお母さんのお姉さんがいることを聞いた時、多分大変だったろうな。)
と思った。私の祖母は、東京都の八丈島で戦争を体験した。沖縄みたいに外国になってしまいそうだったらしい。もし外国の島になっていたら、どうなっていたんだろう。私のおばあちゃんはやおじいちゃん達は、だれかをなくしたり、つらいことを経験したりしているんだ。榎本先生から聞いたけど、この戦争体験を誰にも話さずになくなっていく人もいる。あまりにもざんこくな事をしてしまった人がそうなんだろうな。でも、この戦争の事を子孫に話していった方がいいな。そうしないと戦争というおそろしい事を人は忘れてしまう。語り続けていけば、戦争の恐ろしさをわかっている人達がたくさんいれば、とめられるかもしれない。M君の作文を読んで、色んな事にびっくりしたり、知ったり、おどろいたりしました。この作文を読めてとても良かったです。

三人の感想に学ぶ

 このすごい人間としての生き方に、胸の中に熱いものが込み上げて来るものがあった。中国残留孤児が日本にやって来るたびに、どんな思いでその映像をご覧になっていたのだろうか。 M君のお母さんは、三人の子どものうち、一人くらいは中国語を習ってほしいと話された。ご自分も中国語を習い初めているという事である。
 今から三年前に、おばあちゃんと一緒に母親が中国に行き、自分のお姉さんである陳景華(チェンケイカ)とも会うことが実現できたと言うことを、作者であるM君から直接聞いた。戦後六十二年経ってからおばあちゃんは、中国に行くことが出来た。この作品が出来たおかげですと、えんどう君の母親からも感謝された。
 日教組の50次教育研究集会にその作品ができあがるまでの指導過程を発表した。「日本語分科会」の優れたレポートとして推薦され、「日本の教育」第50集の中に収められている。
 この作品が一つのきっかけになり、本間繁輝さん(元『作文と教育』編集長)を団長にして、田中定幸さん(作文の会元副委員長・国分一太郎『教育』と『文学』研究会会長)と私が副団長で中国に出かけた。日中文化交流協会の援助もいただきながら、中国人民と有意義な交流が出来た。

その後のE君 

 その後、彼はアメリカの大学に留学し、そのあと、北京大学に短期留学し、中国語を学んだ。なくなる前のばあちゃんと母親を連れて、中国に旅し、母親のお姉さんとおばあちゃん母親と劇的場面を作った。その時の写真を我が家に、母親と一緒に訪ねてくれて、私にくださった。1年目にクラス会を開いてくれた。今は、結婚し、幸せに暮らしている。

まとめ

 墨田区が、東京大空襲の被害のあった地域であることを知り、戦争中の暮らしを親や祖父母に聞いて、それをまとめて、聞き書き作文を始めた。墨田区立小梅小学校に10年間いて、毎年書いてもらった。豊島区から、墨田区へ転勤し、最初に取り組んだ聞き書き作文であった。当時、保護者の中には、大空襲の日の中を逃げて、奇跡的に助かった人が何人かいた。中には、東南アジアまで、志願兵として、戦争体験した父親もいた。当時5年生の担任であった。夏休みの宿題として、昔の貴重な体験を聞き書きする宿題を出した。様々な形で、貴重な戦争体験の聞き書きが出来上がった。
このメニューの中の「私の平和教育」の中にいくつか載っている。その中でも、その5「原博おじさんの戦争体験」 その6「母から聞いたおじいちゃんの話」この2作品は、私の忘れられない作品となった。これをきっかけに、1年に1回は、戦争と向き合って、「聞き書き」を中心に実践してきた。

柳島小⇒立花小

 その後、柳島小で10年間すごし、立花に最後の10年間を過ごすために異動してきた。そこでも、皆さんに聞き書きを課題にした。やはり、様々な戦争中の暮らしが浮き彫りにされた。その中で、遠藤昭城さんが書いてきた「母の姉は中国に」は、私の教師生活の中で、最も心に残る作品に仕上げてくれた。これを語って下さった遠藤さんのお母さんに改めて、感謝している。よくぞ、子ども達にひみつにしてきた真実の話を語って聞かせてくれた。作品として出来上がったときに、遠藤さんは、クラスで読み合うことを賛成してくれなかった。しかし、ここまで語って下さったお母さんの気持ちを考え、何とか承諾してくれた。一番の抵抗は、遠藤さんの体の中に、中国の祖父の血が入っていることが、クラスのみんなに知れ渡ることに抵抗があった。お母さんは、賛成してくれた。しかし、いざ、この文章を、クラス全員で読み合っていくと、大変な反響が出てきた。それを、全員に感想という形で書いてもらい、それをみんなで読み合った。みんな遠藤さんへの心配の気持を乗り越えて、すばらしい感想を、それぞれが書いてきてくれた。

北京大学へ留学

 中国に住んでいるお母さんのお姉さんに会うべきであるという文まで書いてきてくれた子がいた。遠藤君は、このクラスの仲間からのエールを大切にして、2008年アメリカの大学に留学中に、祖母、母と3人で中国でお母さんの姉の景華さんに会い、中国語を学ぼうと決意した。おばあちゃんも、3才で別れた実の娘と50年ぶりくらいに対面することができた。2012年北京大学留学中に、中国語を習った。そこで、中国の紹興に住む景華さんと再び会っている。その時に、学んだ中国語が役に立ったと言うことだ。わざわざ、その時に中国で撮した景華さん家族との写真を我が家に持ってきて、下さった。景華さんは、日本語はしゃべらず、お互いに言葉がなかなか通じないことに戸惑ったと、お母さんは言っていた。

中国の紹興・南京・北京などに出かける 

 ぼくも、この作文がきっかけで、中国に仲間15人くらいで、訪れた。この作文を読んだある人が、映画にしたいと言う話を持ち込んできた。お母さんに相談すると、中国では、この話は誰も知らないので、向こうの方に迷惑がかかると言われて、断念した。

もう一度、読んでほしい

 遠藤君の文章と、クラスの何人かの感想文が、この中に書かれている。「私の平和教育」その2「母の姉は中国に」を読んでいただきたい。私は、この1年間の平和教育の実践を持って、日教組の教育研究全国大会に東京代表で参加した。3日間学校を留守にして、この大会に参加してきた。全国の代表者の中から、優れた教育実践に選ばれて、本の中に入れていただいた。思い出に残る、君たちとの2年間であった。それが、再び17年ぶりに再会で、教師冥利に尽きる。ありがとう。

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