子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月3日(木)生い立ち・小学校2

5月3日(木)生い立ち・小学校2

道が遊び場だった

 何しろ、戦争に負けて、食べる物もそんなにぜいたくに食べる時代ではなかった。自分の家だけでなく、みんな貧しかったのである。でも、みんなで、外で元気に遊ぶことだけは、みんな天才であった。ろじうらと言って、細い道は、子供らの遊び場であった。車などと言うものも、ほとんど走っていなかった。乗り物は、馬車や牛車が荷物を運ぶので残っていた。馬や牛が、道路のすみで一休みしていることもいつでも見られた。

家に帰ってからが楽しみ

 遊びは、たてけい列で、一番上が6年生で、下が1年生と幅があった。「みそっかす」と言って、1年生くらいの小さな子は、何かして遊んでいてダメになっても、鬼にしない約束などができていた。そんなふうにして、5~10人くらいの子どもが、広場などに集まってきて、遊びを楽しんだものだった。ぼくは、そういう中で、「ガキ大将」だった。ガキ大将とは、みんなを楽しませるリーダーみたいなものだ。他の友達も、ガキ大将には、一目置いてくれた。

相撲大会

 今でも印象に残っている遊びの1つに、遊ぶときは、縦の系列でガキ大将を中心に、集団でよく遊んだ。一番印象に残っている遊びに、相撲大会がある。上は、中学3年生で下は、私達小学校1年生が、大勢集まって遊ぶのだ。相撲大会は、楽しかった。雨が降っても遊べる、屋根付きの遊び場があった。そこに土俵を作り、みんなで相撲を楽しんだのだ。まわしは、藁で作った縄をこしに巻き付けて、ふんどし代わりにして、ズボンの上から巻き付けて、そこを掴んですもうを取った。勝ち抜き戦など、子どもなりに工夫して楽しんだ。この時の遊びは、本当に楽しかった。

落とし穴作り

 良く楽しんだ遊びの1つに、落とし穴作りというのがあった。自分の家の小さな庭に、友達何人かとスコップで穴をほる。作り方は、穴を掘ったら、細い小枝を拾ってきて、穴の上を、おおう。そのあと、新聞紙をその上にしき、まわりを石で押さえる。最後に静かに土をかけておしまいだ。誰を落とすか相談をして、その友達を連れてくる。「幅跳びをしよう。」と誰かが言い出し、とんだ先に落とし穴がちょうど来るようにしておく。うまく落ちたときは、みんなでおおさわぎして、大笑いする。落とされた方も、一緒になって、笑い転げることが多かった。しかし、泣き虫の子などを落とすと、大変だ。その子が家に帰って、「豊ちゃんが、落とし穴を作って落とした。」と母親に告げる。その親が時には、怒鳴り込んだりしに来た。ぼくら遊び仲間は、そういう子どもとは、絶対に遊ぶのをさけるようにした。

アメリカザリガニの思い出

 ざりがにとは、アメリカザリガニと言うのが正式な学問的な名前である。僕らは、ざりがにと言ったり、えびがにと言ったりした。このえびがにを、つかまえるのが楽しみの一つであった。たんぼや川などに住んでいて、その頃どこにいってもつかまえることができた。今は、たんぼにはほとんどいなくなってしまった。それは、農薬をたんぼに使うようになってから、このざりがには見られなくなってしまった。もちろん川などにもたくさんいたが、この頃は、気をつけてみないと、なかなか見付けることも難しくなってしまった。ぼくは小学生の時には、自分の家の近くに田圃や池があったので、よく二才下の弟と一緒に出かけたものだった。
 このざりがにをつかまえるやり方は、二つあった。一つは、ざりがにの大好きなするめを餌にする方法である。それを、糸につなげてちょっとした棒に結び付けてやる。ざりがにようのつりの道具は、それで十分であった。餌がない時は、つり場の近くに行って、エサさがしと言うことになる。そのエサはカエルである。とのさまガエルと言う、カエルをつかまえてきて、それを、殺して皮をはいで、立派な餌になるのである。ずいぶん残酷なことをしたものである。こうやって、子どもたちは、休みの日だとか、土曜日も午後などに出かけていき、バケツ一杯のざりがにを、つかまえることも出来た。
 もう一つの方法は、たんぼに直接行き巣を作っているところで、大変大きなざりがにをつかまえる事ができる。それには、ざりがにの巣を見付ける事が一番大切になる。この巣は、なれてくるとすぐに見付かる。それはたんぼの中に泥で作った糞の形をした物の中にすんでいる。ざりがには、日本中どこへ行っても、巣を作って住んでいた。エサは、お米の稲の根っこ等を荒らすので、農家の人は子供達が取ることをとても感謝してくれていた。この糞の泥まんじゅうをどけると、その下は、直径四~五センチくらいの穴が出てくる。その穴に手を突っ込むのである。そうすると、穴の下の方に大きなザリガニに触れる事ができる。なれてくると、そのまま手でつかまえることができる。穴の長さは、大きいもので、子供のうでの付け根当たりまで行くことがある。こうやって取ると、半日もしないうちに二十匹位のザリガニをつかまえる事ができた。
 つかまえた物は、うちへ持ってきて飼う事が多かった。時には、テンプラの餌になるようなこともあった。このざりがには、家でも上手に飼う事ができた。ただし、餌をあまりあげないと、すぐにざりがにどうしで共食いをしてしまうので、気をつけて飼っていた。
 大変元気な動物で、寒い冬でも元気に生きていた。洗面器に氷が張っても氷の下で元気良く生きていた。冬は寒いのでじっとして活発には行動しなかった。
 一度母の勤めていた小学校のプールに離して、一年間そのままにしておくと、どのくらい大きく成長するかをやってみたことがある。母が小学校の教師であったのでやらせてもらったら、倍以上の大きさになってビックリしたのを覚えている。昔の子供達は、このように自然がたくさんあるところで生活していたことが、今の子供との大きな違いである。日本中どこでもこんな生活をしていたのである。その頃の農業人口は、50パーセント近くいたにちがいない。現在は、十パーセントをわっている。

親子3人のお風呂屋へ

 また、今でも時々思い出すのは、おふろが家になかったので、近くの風呂屋に出かけた。大人15円、子ども8円だった記憶がある。母の仕事が、少し早く終わったときには、兄弟2人と母の3人で風呂屋に出かけた。小学校高学年まで、男風呂でなく、女風呂に入っていた。何しろ、男風呂は、時々浪花節などのうなり声が聞こえたりして、ちょっとこわかったのである。風呂から出ると、母は、いつも空を指さして、「あの白く帯のように見えるのが、天の川だよ。」と教えてくれたりした。冬の空は、なおさら星がいっぱい見えた。「あのひしゃくの形が、北斗七星で、ダブリュウがカシオペアで、あの北の空に光っているのが、北極星だよ。」と、楽しく語り合いながら、家に帰ってきたことを、なぜか鮮明に覚えている。あの頃の空は、よく星が見えたのである。

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