子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

5月4日(金)生い立ち・小学校転入

5月4日(金)生い立ち・小学校転入

埼玉大学教育学部附属小学校へ転入

 小学校3年生の時に、与野町立本町小から附属小学校へ、途中編入した。当時は、途中編入試験というのを、やっていた。その頃は、まだ与野に住んでいたので、与野駅から電車で北浦和駅まで行き、そこから歩いて学校に通った。優秀な子どもが多くいて、私は、そこで少しずつ自信をなくしていった。授業中指されると、顔をまっかにして、何も言えない子になってしまった。赤面恐怖症という病気だったのかも知れない。しかし、学校に慣れてくると、そういうくせは自然に治っていった。友だちとは、仲良くして、学校生活を楽しんだ。4年生になると、クラス替えもあり、そこで、色々な友だちができた。体育の時間に相撲を取り入れる先生が、担任になった。荒木恒則先生だった。相撲は、小さい頃からよくやっていたので、クラスの中では、横綱か大関だった。そのことも、自分に自信がついてきた。5年生になると、図工の得意な柴崎和夫先生になった。私は、小さい頃から、せつ叔母に図工を習っていたので、絵を描くことは好きだった。通信簿で言うと、5か4を、いつももらっていた。どの担任の先生も、それぞれ、思い出を作ったが、2年間担任をしてくれた柴崎先生とのことが、一番心に残っている。母は、卒業式の時に、柴崎先生に最後のご挨拶をしようと思っていたのだが、どうしてもそれができなかったそうだ。「胸がいっぱいになって、しゃべれなくなってしまったんだ。」と、卒業式が終わってから、ぽつりと、私に話してくれた。今から考えてみると、1つの節目に、色々なことを思い出したのだろうと、察しはつくが、その時はどうしてなんだろうと、不思議に思った。

母の帰りがいつも遅かった

 祖母や母の妹2人や弟たちと一緒に暮らしていた。狭いながらも楽しい我が家だった。その間、母は、「教え子を戦場に送るな」というスローガンに共感し、日教組の運動にも関わり始めた。私が小学生の時には、浦和市教組の執行部に加わり、帰りは、いつも遅い毎日だった。当時の浦和市教組は、組合員が3000人くらいいた。そこで、母は、婦人部長(今は、女性部長)になった。その頃のことで覚えていることは、夕飯を食べ終わり寝る頃になっても母は、帰らなかった。祖母と一緒に玄関に出て、待っていても結局帰る姿は見えなかった。そんな時は、「もう遅いから、寝よう。」と言って、祖母と一緒に寝たり、母の妹たち2人の間に入って寝ることもしばしばだった。1957年の「学力テスト」反対闘争の時には、家に帰らず、そのまま職場に行ったということもあった。また、家庭科教育にも力を入れて、家庭科教育者連盟に加わり、教育実践にも力を入れ、日教組の全国教研にも何度か出かけた。また、家計を助けるために、家庭教師の掛け持ちなどをして、生計の足しにしたりしていた。母が、遅く帰ってきても、祖母がいたおかげで、私達2人兄弟は、安心して暮らすことが出来た。

浦和の県庁前の通りで

 あるときは、こんなことがあった。学校の帰りに、県庁前を通りかかったときに、大勢の人たちがデモ行進をしていた。それも今のような、整然としたデモ行進でなく、激しいジグザグデモをくりかえしていたのである。みんな赤い鉢巻きをして、男の人も女の人も気勢を上げていた。何とはなしにそのデモを見ていると、その渦の中に母の姿を見つけたのだった。今から考えてみれば、全国の教師が、「勤務評定反対!」(勤評反対)と言って、一斉に立ち上がった闘争があり、埼玉県教組もその中で、果敢に闘っていた頃だった。その頃の埼玉県教組の井上委員長が逮捕されたりしていた。たしか、母親も戒告処分をされていた。やがてこの闘争は、裁判闘争になり、結局和解をして、決着した。母の戒告処分も取り消された。家に帰って来た母に、「今日県庁の前の通りで、ジグザグでもしていた?」と聞くと、「ああやっていたよ。」という返事だった。「あの中で、鉢巻き姿のお母さんの姿を見つけたよ。」と母に言うと、「よく見つけたわね。」と笑っていた。

与野から浦和へ引っ越し

 与野から、浦和の別所沼地区の常盤町に引っ越した。その頃から、住宅ブームが始まった頃で、母が住宅金融公庫に金を借りて、新築の家を建てた。母の給料から考えたら、大変な借金だったが、25年ローンの1軒家に住むことになった。母にとっては、大変だったけど、一番充実していたに違いない。浦和の駅からは、歩いて20分くらいのところであった。そこで、中学、高校、大学と通い、結婚するまで、そこで暮らすことになった。
 祖母が元気だったので、よく我が家に泊まりに来ていた。祖母も気ままなところがある人で、しばらくいると、いつの間にかいなくなり、他の自分の娘の家に泊まりに行ってしまうことがたびたびだった。私達も中学生と、小学校5年生になっていたので、祖母がいなくなっても、少し気になったが、そのままにしていた。

附属中学校へ

 附属中学校へ入学した。今度は、電車に乗らずに、歩いて、15分くらいで、学校に着いた。従兄弟の松岡猛ちゃんも、中学の試験に合格し、入学式は、なかよしだった猛ちゃんと一緒に学べることがうれしかった。入学式が終わった後は、川越の叔母さんと猛ちゃんと私と母の4人で、どこかの食堂に入って、一緒に食事をしたことを覚えてる。1年A組になり、猛ちゃんは1年B組になった。あるとき、文房具を売る店が校内にあり、そこで、猛ちゃんが購買の叔母さんと何やら言い合って泣いていた。そのことをあとで、川越のおばさんに言うと、猛ちゃんと気まずくなり、以後学校のことについては、一切言わないことにした。また、2人が、従兄弟であることも言わないことにした。クラブ活動は、最初バスケットボール部に加入した。その頃は、体育館でなく、外で、練習した。1年間やっていたが、部内の人間関係がいやで、バレーボールクラブに転部した。勉強の方は、あまり成績はよくなかった。何しろ、男子の半分の50人近くが、浦和高校へ合格する。女子も50人くらいは、浦和第一女子高校合格する。クラスのどのくらいかはわからないが、家庭教師がついていたようだ。英語などにも、特別に習っている子もいたようだ。そんなわけで、まわりの子は、経済的にも安定していた。猛ちゃんは小さい頃から本好きで、頭もよかった。高校は、浦和高校に合格し、ぼくは蕨高校だった。

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