子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

8月28日(火)有志のクラス会に招かれて

8月28日(火)有志のクラス会に招かれて

 昨日は、最初の教え子の有志9人が集まり、1名は2組の幹事さんだった松川麻里さんが、飛び入りで参加してくれた。彼等は、来年還暦(60才)を迎える。私を含めて10人のメンバーだった。6月6日に菊池敦子さんのさんのスナックに行って飲んだとき以来である。その前に、3クラス合同の同窓会を開いてから半年も経たないうちに開いてくれたのである。今回は、澤田(旧姓生須)洋子さんがシンガポールに、旦那さんの仕事の関係で行くと言うことで、しばらく会えないだろうと言うことで、幹事になった関克則君の配慮で企画されたものだった。1時間時刻を間違えて、6時30分に遅刻したと思いながら富久寿司(厚木康章君の店)に到着したら、7時からだったので、誰も来ていなかった。定刻の時刻前に岡本康二君が見えた。やがて7時を過ぎる頃になると、次々にメンバーが集まってきた。

全員で10人集合

 菊池敦子さん、井上一実君、長峰巌君、関克則君、白鳥豊君、生須洋子さん、2組の松川麻里さん、少し遅れて秋山紀子さんが見えた。何回かの乾杯をしたあとは、それぞれの席で、話が盛り上がり、あっという間に2時間が過ぎ、9時頃からそれぞれの近況を話すことになった。

近況報告 

 最初は、菊池さんだった。始まる前に、「小学校時代の思い出も入れてほしい。」と私からお願いをした。菊池さんは、小学校時代は、スポーツ万能で、駆け足もクラスナンバー1だった。みんなからもその話が、いくつか出た。今は、東京の1当地に、立派な店を持ち、そこのママさんをしている。かん(井上一実)君の話は、初めて聞くようなことで、ビックリした。30年間単身赴任で、料理人で仕事をして、週末になると、自分の家に帰るとのことであった。小学校時代のことは、私のことは、今までにない先生の印象を語ってくれた。彼は、さらに続けて出席者全員の思い出も付け加えてくれた。途中から、「小学校時代、誰が好きだったんですか?」と言う質問が誰かから声がかかった。私の隣に座っていた生須さんが、「私、かん君のこと好きだったんだから。」と驚きの発言があった。ビールをかなり飲んでいたので、本音が出たのであろう。次の順の生須さんは、「今年の12月頃、シンガポールへ引っ越すので、今大学4年生の娘を一人残していくのが心配です。」と話された。小学校時代の思い出は、「学級が楽しかった。それは、榎本先生がいたから。」と嬉しいことを発言してくれた。その話が終わってから、参加してくれた人たちに、プレゼントを渡してくれた。続いて、飛び入り参加の松川さんは、クラスは違うのに参加出来た礼が述べられ、「この年になって、仕事さがしは大変だったが、やっと新宿の宝くじ売り場の採用になった。また、前回の同窓会のときに、1組のみなさんが、具合の悪くなった川口恵利子さんを、いやな顔せず介抱して下さった。」とお礼が述べられた。先に帰ってしまったので、何にも知らなかったので、その発言を聞いて嬉しかった。続いて、幹事の関さんが話した。「池袋の実家は、両親が亡くなり、今は空き家になっている。」彼は、13年前に同じく教員をしていた奥さんを亡くされ、男手1人で、2人の息子を育てた。私の住んでいる川口近くの小学校の校長職である。次は、秋山さんが、「今回の同窓会を開くのに、決まりかけていた場所を変更して、すみませんでした。」とお詫びの挨拶から始まった。その時、幹事長をやっていた白鳥君が、「いや、決まりかけていたんだけど、あの時は、ビックリした。でも、最終的には、良い場所だったので感謝している。」とかなり酩酊しながら発言していた。途中で、席を離れていた長嶺君が、発言した。彼は、池袋の実家に両親と妹さんと一緒に過ごしているとのことであった。今は、透析病院の運転手をしている。

最後の方になって

 最後に、かなり酔いが早かった白鳥君の番だった。彼は、いつも同じ話を、おもしろおかしく話す。「榎本先生は、暴力教師だった。掃除中に、掃除用具箱の中に北井豊君が入って、フランケンシタインの真似をしていたときに、突然榎本先生が入ってきて、みんな並べさせられて、ビンタをされた。今だったら教師免職だ。」 この話を、何度もするのである。そのあと、今回は、次のような話をしてくれた。「小学校時代、私と何人かの人を連れて、海に行ったこと。」を話した。そのことが、彼には、印象に残ったのだろう。「つい最近、九十九里浜に出かけて、そのついでに御宿海岸に寄った。小学校のときに連れていってもらった海を見てきた。」と話をした。担任中に、確か6年生の頃、何人かの子どもを連れて、1泊の海水浴を楽しんだ。そのことが、彼の心には、ずっと楽しい思い出として残っていたのだろう。

私の近況報告

 最後の、私の番になった。「池袋第三小学校は、区内で最も民主的な学校でした。その学校に決まり、4年生の担任になった。最初にくじ引きがあり、3つの袋の中から1つをひくと、それが4年1組の君たちのクラスだった。みなさんの保護者の方にも、ずいぶん助けられた。あるとき、中嶋先生と飲んでいて、急に生須さんの家に寄ったら、お母さんが出てきて、ビールを出してくれた。国鉄の電車が止まったときに、白鳥君の家に泊めてもらった記憶がある。あの時、シングルマザーと言うことは知らなかったので、よくうわさが立たなかったと。また、卒業式の礼服は、仕立屋さんだったお父さんに作ってもらった。このように参加してくれるみなさんは、恵まれている人たちです。来たくても来られない人、いまだに行方のわからない人、そんな人たちと、連絡が取れたら嬉しい。」 このような話をさせてもらった。時刻は、10時半を回っていた。帰りは、店の前にみんな出てきて、握手をしながら別れた。川口まで一緒の、今は浦和に住んでいる関君が、付き添いで一緒に帰ってくれた。池袋駅の近くで、小学校の高学年のときに「店の手伝いで、お豆腐を自転車に積んで、そこの店に届けたことが何度かあった。誰か友だちに会ったら、いやだなあと思って、店まで運んだ。」と言う話をしてくれた。その両親も、今は、もうこの世の人ではない。その話をしながら、今は、両親に心から感謝していると言うことを付け加えてくれた。

白鳥君が、「えのさん日記」を時々読んでいるけど、この頃、書き方が雑になっているというようなことを話されたので、この文は、2時間以上をかけて、ていねいに書いたつもりである。

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