子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

玉田勝郎・生活綴方の教育思想・自己表現・自己解放の根

没後30年第11回国分一太郎「教育」と「文学」研究会

2015年7月18日(土)地元歓迎の企画 19日(日)分科会と全体会

記念講演の資料

生活綴り方における「生活の理法」と文章表現指導

玉 田 勝 郎

序 国分一太郎と中野重治

中野重治と教育(第十一回) 新確定原稿・加筆

Ⅰ 『こころのノート』と『新しい綴方教室』

 今日、学校教育の実践において、「思考力、判断力、表現力を育む」という標語が盛んに唱えられ、子どもたちは様々な機会に作文を書いている。書かされている。日記、行事作文、総合的な学習の時間の「まとめ」、夏休みの宿題、等々。「人権作文」もあれば、道徳の作文、「反省文」、「私の夢」作文もある。そこでは、戦前・戦後を通して続けられてきた〈生活綴り方〉とよばれる文章表現指導の研究の成果・蓄積や方法的原則(基礎基本)が継承されることなく、それゆえ踏まえられることなく、作文課題が指示され、その課題にしたがって、いわば「自由に」書くことが奨励されてもいる。あるいは「強制」されている。
 ここにいう「自由に」あるいは「強制的に」ということの意味は、題材(何を書くか)や文章構成(どこをどのように詳しく書くか)、説明と描写(特に描写のための「思いだし直し」)、さらには推敲、等々の、手間ひまかけた、系統だった、丁寧な指導を無視し(ないし欠落させたまま)、「できるだけ詳しく書こう」という類の指示だけで、作文させるやり方を指している。たとえば、道徳の時間に取りあげられたテーマないし〈徳目〉にそって、それを児童生徒の経験や心理と結びつけて「着床」させようとする意図のもとに、その実、子どもの実生活における〈理法〉と〈実感〉から遊離した、観念的な〈概念文〉が文字通り誘導されている。そうした作品がいたるところで書かれている。生み出されている。そこでは、〈生活綴り方〉指導の原則(基礎基本)とされ、確証されてもきた、〈展開的過去形〉表現の指導が、小学生の段階においてさえかえりみられず、無視されてきた(いる)のである。〔この表現形体については後述する。〕
 本稿(第八回、本誌140号)においてすでに論じたことの再論になるが、かの『こころのノート』(道徳の時間の「教材集」)に採用されていた作文事例を再度引用しておきたい。
〈なつ休みに、・・・いえのちかくの/子どもかがくかんへいきました。/いろいろなのりものにのったりして、/たくさんあそんでのどがかわいたので、/水のみばにいきました。/水のみばには、人がたくさんならんでいて、/とてもまちました。/やっとぼくのじゅんばんがきて、/口をあけて水をのもうとしたとき、/ちょうど小さな女の子が/うしろからやってくるのが見えました。/その子は、あせがたくさん出ていて、/まっ赤な顔をして、ぼくよりものどがかわいているようだったので、/じゅんばんをかわってあげました。/女の子はよろこんで水を/たくさんのんでいました。/うしろをふりかえって見ると、その子のお母さんがニコニコしていて/とてもうれしそうでした。〉(『こころのノート』1・2年生用、 42頁)

これは、作文指導の基礎・基本

――(生活綴方の基本表現法・「展開的過去形」表現)――を省みず、無視し、ねらいとする「あたたかい心」や親切心という〈徳目〉そのものを、それ自体として伝えようと企図した悪しき〈概念文〉の典型である。これを書いた(書かされた)子どもは、与えられた徳目(課題)にそって(それを書こうとして)文字通り「頭の先」でデッチあげたものである。ここには、「のどがかわいた」ときの状況、水のみ場の様子、「水のみばで」とても待たねばならなかったときの(渇きの)状況、「女の子」はどのように水を飲んだのか、何もいわなかったのか、等々が、事実と心理(ものごと)に即して書かれていない。よく思い出して〔思いだし直して〕写し取られていない。状況の概念的・概略的〈説明〉だけがあり、その場の生きた〈観察〉や〈事実描写〉は皆無である。オノマトペ一つ使われていない。交わした(であろう)会話すらない。遊んだことの楽しさも、汗だくの様子も、子どもの肉感で捉えられていず、「たくさん」の一言で済ませている。(「たくさんあそんで」・「たくさんならんで」・「汗がたくさん出て」・「たくさんのんで」・・・) [#o6e21602]
 もし、このような作文によって、「思いやり」・「親切心」・「やさしさ」といった心情を読み取らせ、また実際に書かせるようなことになれば、まちがいなく子どもは作文嫌いになるだろう。さらにいえば、確かな表現力(書く力)を身につけることができないのは、いっそう明白である。
 ちなみに、現行の『私たちの道徳』(文科省)に掲載されている作文(小学三年生)も、「家族への思い」を読み取らせようとの意図のもとにでっち上げられた、同根同質の「概念文」である。「弟の病気」という重大事すらが、病名も病状も書かれていず、書き手の皮膚感覚でとらえられていず、母親との会話すらない。ここに紹介・引用することさえ憚られるしろものである。   

名著『新しい綴方教室』 

 1952年、国分一太郎は、戦後の生活綴方「復興の書」と言われる、名著『新しい綴方教室』を著した。この書を読んだ数多くの教師たちによって、〈生活綴方教育〉とよばれる教育実践が全国的に展開されたのであるが、その展開過程、そこでの諸問題や論争、指導方法をめぐる論議、等をここで追うことはできない。子どもの作文あるいは文章表現指導が、公認の徳目への教化・誘導の方便・手だてとして利用され、国家主義的な〈教育改革・再編〉――道徳の「特別の教科」への格上げはその一環――路線が強行されようとしている今日、生活綴り方の理法と指導法があらためて省察されねばなるまい。子どもの作文、作文指導が、徳目の「定着」への便法として利用(悪用)される、便宜主義を許してはならない。
 この点に関連して、国分一太郎は、約60年前の『新しい綴方教室』の中で、つぎのように記していた。
〈(社会科は)頭の中でつくられた観念を子どもたちにおしつけて、その目で、その心で、社会現象をながめさせる教科になりつつある。これでは、綴方の精神が、のび育っていく土台がない。子どもたちの目をひらく、子どもたちを古い慣習のきずなから解放するといいながら、そのような努力は、コトバ通りにはなされていない。「相互依存」とか、「協力」とか、「公共の福祉」というような観念をおしつけて、ふたたび、修身科にもどそうとあせっている。これが、(生活)綴方をさかんにしない、ひとつの原因だ。〉(16頁)
 このように、「外」から「上」から押しつけられてくる観念/概念を、生活者としての子どもの目、皮膚感覚をとおして吟味させることを許さない「社会科」や道徳教育を批判しながら、国分は、子どもが生活現実や「環境」に能動的・意欲的に働きかけ、そこから実生活や自然現象の中の〈理法〉(ことわり、道理)というものに気づき、あるいは新鮮な発見をしていく姿に目を向けた。そうした子どもの素朴な、気づき・賢さと意欲性から、彼は一生涯目を離さなかった。 
〈めしをくうこと、水をのむこと、大小便をすること、ねることなどは、一日のうちの大きな部分をしめる「現実」なのだ。かわききったのどをうるおそうとする子どもたちが、井戸をみつけたとき、水をのむ順番をきめて、「おれ一!」「おれ二!」「おれ三!」と列をつくる。あの真剣な顔つきをみたまえ。そして、ひとりでも、この順番をぶちこわそうとする専制主義者があったときの、あのすさまじい怒りようを見たまえ。〉(80頁)
 蛇足ながら付言すれば、「順番をきめ、順番を守る」ということわり。これも一つの〈生活の理法〉といってよい。先述の『こころのノート』作文は、それをいとも簡単に手放したのである。「親切な心」への誘導と「証明」ゆえに。そこから書かれた作文が、緊張のない、事実描写を欠いた概念文となったのは、理の当然である。(註1)

Ⅱ 中野重治の〈生活綴方〉へのまなざし

 これまで本論考において、私は文学者・中野重治が〈生活綴り方〉(とりわけその作品)に注いできたまなざし、批評、提言、等について、幾度かとりあげ、紹介・考察してきた。(第三回、第八回、第九回)。生活綴り方運動、そこから生み出された作品、それらと文学との関係、表現(法)の特質、等について、中野重治ほど強い関心をよせ、いわゆる〈綴方教師〉の実践を励まし続けた文学者はいない、と言っても過言ではあるまい。彼のそうした関心、生活綴り方への評価観を引きだす上で陰に陽に力を貸した、また彼の教育観に影響を与えもした一人に、国分一太郎がいたことは広く知られていよう。(註2)
たとえば、今回取り上げる「日本語を大切にするということ」(全集第二十二巻)は、国分一太郎の勧めによって、日本作文の会(日作)の機関誌・『作文と教育』に掲載(連載)されたものである。(註3)
 それは、一種の「名文案内」をとおして、漱石や鴎外や諭吉、柳田國男などの優れた文章(作品)の精髄をとり出し、その表現の固有の価値、面白さを中野重治的美意識から説明したものである。その中に、「育ちざかり食いざかり」という見出しの付けられた文章があり、そこで中野は、〈(子供たちは)どんな具合にして言葉を正しくおぼえ、書きあらわすことを正しくおぼえ、一つの独立した文章を正確に書いているのだろうか〉と問い、岐阜県の綴り方運動が生み出した、一人の中学二年生が書いた「曲輪」(まげわ)と題する作文を全文取りあげて紹介し、それの「名文」――「ほんのもう少しで完全というところまでしあげられた」――である理由を多面的に分析し、批評している。
 最初に、その作品・「曲輪」を紹介しておこう。全文約4千字なので、中略を許されたい。
 

「曲輪」 (中学2年・1952)

〈僕の家はセイロ(むし器)を作っている。つまり曲輪をしています。今家で働いている人は、セイロを作る人は父母と職人の清兄さんと三人です。それでいろいろ細かい仕事を父のかわりにしてもらう職人の人を一人と、ガワをけずる人が一人、それで職人が三人いるわけです。仕事は八月から十二月の末にかけて忙しくなります。(中略)/ 去年の十一月時分は、職人さんも父母も、時間のたつのを忘れて午前三時ころまでセイロを作っていたことはすけなくなかったのです。そういう時、僕は布団にもぐったがカンカンとたたく音で目をさまし、ソーと仕事場をのぞいて見ると、父も母も目を赤くして、疲れはてた体をだるそうに動かして仕事をやっていたこともありました。それぐらいやっても仕事に追いつけないのです。/僕は家の仕事を手伝おうとして、セイロの底板を切る仕事をしたりかんぱ(桜の皮)をこいだり、セイロの底をぬったりします。これから仕事の順を追って、材木がどんなにしてセイロなり、どのようにして都市に出てゆくか、を書いてみます。(中略)/ こんなにして買い入れた木は、トラックをたのんで家まで持って来てもらう。トラックもやはり運賃がかかります。そして最初はその木を三尺三寸から四尺五寸くらいに、大きな両引のこぎりで切ります。これは二人で切るもので、両側から引合いながら仕事をするのです。こうして切られた木は、ムシロの上に立てます。なぜムシロの上に立てるかというと、切った木に土がつくと、割る時はよいが、けずる時にセン(板をけずる刃物)の歯がこぼれるので、始めにムシロをひいてその上で割るのです。木割はかしの木で作った矢を大なたで打ちこんだあと、矢を入れてバイコ(たたく物)でなぐると少しずつ木へめりこんでいく。強くたたいてやると、木はメリメリと音をたてて割れます。とてもねばりのある音がします。節だらけの木は、そう簡単に割れない。(中略)/ こういうことを僕も手伝って、おじいさんと、職人さんの丈一兄さんとでまげる。ロクロをおしてゆく力というものは、すばらしく力のいるものです。自分のあるだけの力を出して、うなってまげるのだ。始め僕はロクロを押してみた。なかなかロクロは動かなかった。グイグイと押して行くうちに頭から湯気が立ち、汗がダラダラと体の中へ入って行く気持の悪さ。少し休むと体の中は汗がひえてつめたくなる。その時の気持の悪さは体がゾゾーとする。風邪をひいたような気になる。まげてからよいめてセイロになるのです。/今度はセイロの底板を切ります。底板は製材でひいて来た板を丸く機械で切りとります。寸法は八寸九分、一尺とありますから、それに合わせて切るのです。そして幅一寸五分くらいのかずら板に合せて木ばさみでゆずらんようにしてまんりきでしめる。その後カンバを細かく目通しで穴をあけた所へ通してぬう。こうして底を作ってから親板(もとになる板)を底に合せてこれもカンバでぬう。今度は底板と親板を合せて再びうごかぬようにぬうのです。(中略)/ セイロ作りは他の仕事とちがって、細かい根気仕事でありますから目が悪くなったり肩がすぐこったりする。こうしてコツコツと刻むようなセイロの生産をつづけてゆきます。一日に父と母とで五十ケくらい、職人さんは一人で約三十八ケくらい作る。セイロの注文でも千ケすぐ送れなどという電報は少なくはないのだから、とうてい三人の力を一つにして働いてもなかなかはやくもうかるようなわけにはいかない。今年中でもカンバだけでも一万円以上は買っています。またガワでも、家だけで作るだけではとうていおっつきませんから、よそから十二、三本買って来ます。それに、セイロにつけてやるスノコが、今年だけで五万円も買入れています。僕がいろいろ仕事のことを聞くと、「あんまり本当のこと書くな、税金問題になるでなあ。」と言って、ちょっとも教えてくれなんだ。僕はざんねんでなりません。これだけでは作り方がわかるだけで、社会科でしらべようとしている材料から販路までの経済的なことがわからないからです。/父はよく、「今夜、柳屋へ行って三十五度を二合買ってきとけ」といいます。これは疲れなおしに砂糖でうめてのむのです。(中略)/ 「もうちいと資本をのこしておかんとな。どんなことになるかわからんで・・・。」「そういう時はいつでも切りかえが出来るようにしとかんと。わからんじゃ、世の中のことってむな・・・」と、父は毎ばんのようにおじいさんと話し合っている。〉(全文 約4千字)(指導 口田 彰)

 この作文を読んだ中野重治は、「書き手の少年は、年十三くらいだからそこに幼さはある。しかしただ大人から見ての幼さであるだろう。・・・大人どもの大人っぽさからくる、要らぬものに要らぬ目配りをしたようなところが微塵もない。」と評している。そして最後に、この中学生の「言葉の感覚」、言葉づかいに関して、対象(たとえばロクロ)に対して、力の限り能動的に働きかけていく「実行の立場」からそれらが生動している点に目を向け、つぎのように評価している。〈焼酎の話も、「木ばさみでゆずらんようにして」という言い方も、「ねばりのある音」といったとらえ方も、「根気仕事」という言葉の感覚も、すべて、一家の仕事に或る気組みをもって参加して行く一人の少年の若木のような肉体を思わせる。「ねばりのある音」――こういう一言は、ただ当事者であって初めてとらえることのできる芸術的な言葉なのにちがいない。〉
のみならず、文学者・中野重治は、この綴り方作品のなかの「言葉づかいとしての誤り、舌足らず」――たとえば、「ロクロを押してゆく力というものは、すばらしく力のいるものです。」――について、それを〈混戦の能動性〉としてとらえ、つぎのように述べている。
〈「ロクロを押してゆく力というものは、すばらしく大きいのです・・・」とか何とかいってこそ力の大きさの測定ということになるにちがいないが、ここでの少年は、その力を物差しではかろうとはしていなかった。力を測定する立場でなくて、彼は、その力を自分の肉体からしぼり出して「押してゆく」当の人間の立場に立っていた。「すばらしく力のいるものです。」というのは、自分が力を出した、そのときえらく力が要った、これからも、彼が自分の力を出して押して行かねばならぬのだということから来た説明の混線であっただろう。「ロクロ押しというものは、すばらしく力の要るものだ。」あるいは、「ロクロ押しの力というものは、すばらしく大きいものだ。」というどちらでもなかったところにこそ、かえってこの少年の実行の立場が生きてとらえられている。むろんこの混線を、混線そのものとしていいというのではない。大人ならば、また子供にしても、いっそうの洗練が望まれていい。望まれていいが、ここの混線の能動的性格ということは、それはそれとしてはっきり評価、鑑賞されるべきだということを私は言いたかったのだ。〉
 中学生の書いた、「名文に近い」と評される文章に表わされた「舌足らず」の表現――書き手の身体から内発する言葉・言葉づかいに対する、中野のこのような繊細な受け止め(読み取り)というものは、かの〈綴方教師〉・国分一太郎はじめ、すぐれた指導者たちに共通する特質であった。いわば綴方教師の、指導作風の特徴ともいえるものだった。それは、子どもを見る目、子ども観の特徴といってもよかろう。
 その教師たちは、表現主体たる子どもの内にうごめく、あるいはわだかまる、そして時には言い表わしえなかった心意――つぶやき・葛藤――をも汲み取ろうとし、そこにも細やかな表現指導の目を注いだのだった。それは、書き手の「声ならぬ」声を聴き取り、それをいかに表現させるかという、書き手と教師との間で営まれる〈格闘〉ともいえるものであった。書く前の題材・主題指導において、書く過程での〈思いだし直し〉の助言や励ましにおいて、書いた後の推敲段階において、そうした格闘ないし対話のやりとりが重ねられたのである。とりわけ、表現への抑止/抑圧(「書きたくない」)が陰に陽に、内からも外からも働く(作用しがちな)、「重い」題材については、そうした抑止作用を踏みしめ、踏み越えて行く格闘と励ましが不可欠であった。書き手の〈ものの見方・感じ方・考え方〉を引きだしつつ、吟味していく、いわゆる「概念くだき」の指導も必要だった。 
国分一太郎はじめ日本作文の会(日作)に結集してきた実践者たちが、それこそ長い年月をかけて、いわば書き手・子どもと共に、開拓・創造してきた〈文章表現指導〉の原則および指導系統は、上記のような「手間ひま」かけた実践史のなかで明らかにされてきたものである。いいかえれば、それは、「書かない」・「書けない」子どもたちとの格闘の中から、日本の教師たちが発見・開拓・創造してきた指導方法でもあった。
作品「曲輪」に戻ろう。
「曲輪」に対する批評、高い評価に示されているように、生活綴り方の優れた作品、その文章表現の中に中野重治が読み取ったものは、何であったか。
 この作品は、家業である曲輪づくりという、長い時間帯における・今に続く・日々繰り返されている、自分の家の〈仕事〉について、主として〈総合的説明形〉の表現形体で綴ったものである。むろん、そこには「展開的過去形表現」(による描写・叙述)が、説明を補強するために部分的に使われてはいる。(「ソーと仕事場をのぞいて見ると、父も母も目を赤くして、疲れはてた体をだるそうに動かして仕事をやっていた。」)
 書き手であるこの中学生は、家業の曲輪づくりの過程、その「根気仕事」の流れと内容を、主要な分節を押さえながら、順序よく、丁寧に追いかけて行く。その追及によって、書き手の五感をとおして、作業の状況や人・ものの動きの描写をまじえて、仕事の進行の様子が力づよく、また生き生きと写し取られている。仕事の全体、ないし筋道が見通され、つかまれていることによって、大事なこと(本質的なこと)と付随的なこととが見分けられ、〈表現〉において、整理されている。中野重治の用語を使っていえば、書き手は、家の生活・仕事をつらぬいている〈理法〉に、「ねばり強くかじりついている」。「根気仕事」と呼ぶ、「一家の仕事に或る気組みをもって参加して行く一人の少年」がいて、彼は、「現実をつらぬく理法」(中野)をつかみとり、「表現するにふさわしい生きた言葉」を見つけている。
 ここにいう〈理法〉とは、一般化していえば、実生活/仕事の現実を貫いている、因果関係、目的―手段の合理性、慣習法、人びと(生活者)の思考法、さらには言葉づかい、等々を指している。それは、生活の統制力であり、また「厳しい現実」というものの制約でもある。むろん、その現実を生きる〈知恵〉や〈抵抗力〉を含んでいる。
 こうした、生活の理法への気づき、さらには〈道理〉の追究の背後ないし根底には、汗を流しながら重いロクロを押していく、つまり対象(ものごと)に働きかける能動性が物語っているように、書き手自身が仕事の一端を担うという現実・事実があるということ、いわば作者自身が「責任ある位置」(中野)に立っていることを見のがしてはならないだろう。
〈すぐれた作品には、いつも言葉と構成とを貫く強い論理的統一があった。このことは、たとえば非常にひろく読まれた豊田正子の「綴方」のようなものについても明瞭に言いきれるのでないかと思う。/あれらの「綴方」を文学としたものの一つは、作者がその対象から全く論理的に本質的なものを抽きだし、反対に付随的なものを捨てて行った手続きであった。そしてそれを可能にしたものは、作者がその対象である現実のなかで、家族の働く一員として責任ある位置にいたということであった。・・・生活と生活にたいして責任ある位置にいることが、現実をつらぬく理法を彼らに見つけさせ、これを表現するにふさわしい生きた言葉を見つけさせたのである。〉(「日本語の問題」)(第二十二巻)
付言しておけば、中野はここでは、「生活にたいして責任ある位置」の端的な事例として、「家族の働く一員」であることに力点をおき、強く言っているが、こんにちの子ども(小・中学生)の生活実感ないし環境に即していえば、〈生活の理法〉に対する子どもの気づき・接近は、もっと広く(脹らみをもつものとして)解される必要があろう。あるいは、それは、もっと「微小(微細)」なものごとのなかに探られる必要がある。(註4)
 さらにいえば、生活の理法の追及、気づきは、それをいかに〈表現〉するか、言葉にさせるかという、「ふさわしい生きた言葉」の指導の媒介なしには、達成しえないだろう。あえて強くいえば、「仕事のこと」を書かせれば、自然成長的に、理法に接近する(できる)というものではない。〈書くこと〉をとおして、という視点が不可欠となる。たとえば、「あそび」・「手伝い」・「父の仕事」・「焼肉屋さん」・「震災」・・・を〈どう書くか〉〈何を詳しく書くか〉、その表現指導によって理法への気づき、捕捉が成立してくる。言葉(づかい)と構成との統一が生れてくる。
中野重治自身が、このことをくりかえし主張してきたのである。
 〈「言葉の具体的な肉感性」は、現実(対象)にたいする能動的なはたらきかけから出てくる。概念的な言葉は、ともすれば傍観者的であることに起因している。・・・(それゆえ)言葉の選び方の研究がもっともっと重要に見られねばならぬ。〉(「歌集『生活の歌』・1937年、全集二十五巻」
〈じっさい、人はまず何よりも事と物とに即して、実感に即して語りだすよりほかはない。ことに日本では、抽象的なものの上からの押しつけ、これが非常に長く続いてきたのであってみれば、これを押しかえすには何よりも具体的なものにかじりつかねばならなかった。これは今後も変らない。人はいつにしろ、たえず具体的なものにかじりつき、そこから出発し、またそこへ帰ってこなければならない。しかしそれだけでは十分でない。具体的なものに即して、またそこから出発して、多くの具体的なものからいろいろの側面を抽き出してくる力を自分に養わなければならない。〉(「日本語を大切にするということ」)(註5)
〈…科学的な行き方、正しい概括ということが尊重されている。それはそうあるべきことであって、論理的な行き方、科学的な行き方というものなしには人間はそもそも生活することができない。しかし私は、それと全く同じほど、具体的、感覚的、経験的な行き方が尊重されねばならぬと思っている。特に今の日本でその必要が大きい。〉(『講座・生活綴方 5』、百合出版、1963年)

Ⅲ 展開的過去形表現とその重要性

 すでに述べたように、中野重治が「名文に近い」と評して取りあげた「曲輪」は、生活綴り方の「表現形体」の系統において、〈総合的説明形〉表現とよばれる表現法によって書かれたものである。「曲輪」のような作文が書ける(ようになる)背景ないし前提条件として、それ以前に、〈展開的過去形〉表現がきちんと指導されていなければならない。おそらくこの中学生が、(いつの時期か特定できぬにしても)展開的過去形表現の指導をうけて、そうした文を幾度か書いてきたであろうことは想像に難くない。
 ここで、〈展開的過去形〉表現の要件と指導に関して、概略的な説明をしておこう。
 誰しもが学校を含む日常生活のなかで様々な経験をする。出来ごとに出合う。忘れ難いこともあれば、記憶から消え去るものもある。そうした過去の、いわば一回限りの、「ある日・ある時・ある所」での、大小さまざまな体験をふり返り、よく思い出して、主題となることがらを選び、それについて順序よく、展開的に記述する。それを過去形で書く。
 要点を箇条書きすれば、以下のことが重要になる。

(1)過去の(ある日、ある時、ある所の)経験/出来ごとを書く 〔主題、時・所、状況、等の限定〕

(2)時系列に即して、順序よく、書き手自身の体験・できごとを展開的に叙述する

(3)「ありのまま」を、五感を働かせて、自分のものとなった言葉で、

(4)よく思い出して(思い出しなおして) 〔再生的想像〕

(5)ひとまとまりの文章に構成する (はじめ―なか―おわりの構成)

(6)書き手の「思い」・「考え」・「情感」等も、それらが出てきた(外界の)事実・状況の描写とともに、書きこむ

〈コノヨウナ文章ヲカカセルスベテノ過程デ、マタ、ソノ作品ヲ集団ノナカデ研究シ吟味シ、ソレニツイテ話シアイヲサセル過程で、子ドモタチニ、(1)事物ノ姿ヤウゴキヤソノ相互ノ関係カラ意味・ネウチヲ見イダシ、事実ニモトヅイタ思想・感情ヲ形ヅクル態度ヲシダイニツクリアゲ、(2)自然ヤ社会ノ事物ニツイテノ正シクユタカナ見方、考エ方、感ジ方ヲシダイニ養イ、(3)書キ手自身ノ観察力・想像力・思考力ヲノバシ、頭脳ノ能動性・創造性ヲシダイニ発達サセ、(4)コノコトニヨッテ、子ドモタチニ、自由ナ個性的ナ自我ヲ確立サセルトトモニ、(5)人間的ナ社会的ナ連帯感ヲ、シダイニ育テテイクコトヲ目ザスノデアル。(6)日本語ヤ日本ノ文字ニツイテノ意識的ナ自覚ヲウナガシテイク。〉(国分一太郎『生活綴方読本』・1957)
展開的過去形表現(その指導上)の要件――特に(3)(4)に関していえば、「わかりやすい言葉を」と題して、中野重治はつぎのように述べている。
「わかりやすい言葉をつかうにはものを確かに見る必要がある。『わしは田舎ものだ。桶を桶という』という意味の諺があるが、桶を桶という行き方、これが言葉づかいの土台にならねばならぬと思う。水は水、茶は茶、一キロは一キロ、天皇は天皇。そういうふうに見、感じ、書くことが一番の大事になると思う。率直な、質朴な言い方、書き方がいい。/ しかし、わかりやすい言葉を使うということは、何か別のものに、言いかえることではない。元の何かを、正確にそのままに、言いあらわすことだと思う。よけいなごまかしを取り除けて、風袋を引いて正味何キロと出すのが、たしかに見るということ、わかりやすく表現することの本当の中身になる。/そのためには、借り言葉をつかわぬようにすることが必要になる。言葉の上で借りものをしない、自分の言葉をつかう、自分の目をつかうということが大事になる。社会、政治、そういう方面のことでも、つとめて借り言葉ではなしに考え、話し、書く癖をめいめいつける必要がある。」(全集二十二巻)
 この提言(1946年)は、中野が文学者全体にむかって「要求」したものであるが、むろん教師への呼びかけとしても受け止められるべきものである。「綴方教師」たちは、中野のこうした「要求」に応えるかのように、「質朴な言葉で書く」ことを子どもたちに求めたのだと言ってもよい。
文学者・中野は、1954年秋田市での「作文教育全国協議会」に出席し、綴方を文学一般の「大きな基礎」ととらえて、「子どもの書く綴方作品」を「りっぱな文学」だと説き、綴方教師を励ました。(註6)
 生活それ自体の見方もさることながら、それをどのような言葉で表現するかの指導に関心が向けられ、そこから、先述の〈展開的過去形表現〉の指導法が考えられ、その実践が意識的に積み重ねられていったのである。
 綴方教師は、こうした表現形体の文章を、子ども自身にその固有の実生活の経験・出来ごと・事象をふり返らせることにより、いわば基礎過程として書かせた。書き手たちは、その基礎過程において、ものごとをよく見、聴き、感じ取る必要を覚っていく。言葉(づかい)が生活に引き寄せられて、吟味されていく。根拠の薄弱な、心情的な「思い」や「夢」を頭の先でなぞることや、ものごとやその状況の「あるがまま」の観察を欠いた、さらには描写の欠如した「概念文」から抜け出していく。そうすることで、大小さまざまな〈生活の理法〉にも気づき、それを引き寄せ、ものの見方、考え方を確かなものにしていく。
 しかも、強調しておく必要があるが、〈展開的過去形表現〉は、どの子どもにとっても書きやすく、生きた(自分の)言葉を使うことができ、「どの子も書ける」のである。たとえば、「はじめ―なか―終わり」の文章構成法について、国分一太郎は、大人の書き手を対象にした「講座」において、小学生が書いた作文を参照しながら、つぎのように指摘している。〈「はじめ」「なか」「おわり」という部分をこしらえるのに一番簡単な書き方は、あるとき、ある所で経験したことで、はじめはこうであって、それからこういうふうに変っていって、おしまいはここで終わったのだというところまで組み立てるもので、これがまだごく自然なかたちでしか組み立てのことを考えない場合の表現としては大事になるんです。〉(註7)
 私がここで強調してきた〈展開的過去形〉表現の必要と可能性を証しだてる『作品集』
が私の目の前にある。
 高知県で発刊された『生活綴り方作品集 Ⅴ』(編集 つづり方フォーラム・21、20
15年)が、それである。以下に紹介・引用する作品「牛の直腸検査」は、当『作品集』に収載されているものである。(註8)

「牛の直腸検査」 (五年生) 

〈牛舎で、手伝いのちちしぼりの仕事が終わりかけたころ、お父さんが、「直検やる?」と、ぼ
くに言った。/ぼくの家は、ちち牛をかっている。ぼくは小さいときから、牛のくそのかたず
けや、えさをやる仕事をしている。ちちしぼりは四年生になってからやりはじめた。だから、牛
の仕事のことだったらだいたいわかるけど、直検というのはなんのことかわからなかった。/ぼ
くは、/「直検ってなに?」/と聞いた。お父さんは、「牛のけつに手を入れるが。」/と、牛のくそをほうきでのけながら言った。/そういえば、ぼくはお父さんが、かたまである長いビニール手ぶくろをつけて、牛のけつにうでをつっこんでくそをとっているのを見たことがある。直検というのはそのことか思った。お父さんがやっているのを見たとき、ぼくもやってみたいなあと思っていたけど、なかなかやらしてくれなかった。でも、それをやらしてくれると言うので、ぼくは、/(やったー。)/と思った。/ぼくは、さっそくビニールの手ぶくろをうでにはめて、
準備をした。お父さんもビニールの手ぶくろをつけて、台を持ってきた。牛のけつに手がとどく
ようにするためだ。お父さんは、/「智貴、そこの青い台を持ってきいや。」/と言った。ぼく
は台を持って、お父さんといっしょに直検をするめす牛の所に行った。
 牛は、鼻かんにひもをくくって、動かないように柱にそのひもをくくりつけていた。しっぽはじゃまにならないように上に上げて、カウコントロールの線にひもでくくりつけていた。ぼくとお父さんは、牛の後ろに回った。牛のこう門は、何かがすいこまれるみたいにしわが集まっていた。/お父さんが、/「せっけんをつけた方が入る」/と言ったので、ぼくは、手ぶくろをした手にせっけんをつけて、準備満タンにした。/お父さんが台に上がった。「見よれよ。」/お父さんは、片手を牛の腰の骨あたりにおいて、ビニール手ぶくろをした手をこう門に入れ始めた。指先から、ズーッとかたの付け根までうでを入れていった。牛はぜんぜん動かなかった。お父さんは少しうでを動かして、ゆっくり引きぬいた。手にくそをつかんでいた。お父さんは、そのくそを、はい水こうに捨てた。お父さんは、/「次やりや。」/と台を下りた。ぼくは、/「ほーい。」/と言って、青い台を牛のけつのちかくに寄せて上がった。こう門は、またしまっていた。ぼくは、手をこう門にさした。けど、お父さんのようにうまく入らなかった。ちょっと力を入れたら、こう門が開いた。そしたら、スーツとうでが中に入った。かたまで入った。牛はやっぱり動かなかった。中はぬくかった。ぼくはくそをさがそうとして、うでを中で大きく動かした。大きく円をかいてさがした。ぼくは、/(すごい広いなあ。)/と思った。五年生で一番小さい柚乃ちゃんがまるまったら入るぐらい広かった。ぼくは、くそをさがした。そしたら、こう門がしまってきて、かたの付け根をギューッとしめられた。/「うでがしめつけられた。」/と言ったら、お父さんは、/「お父さんは、牛がうんちを出すときの筋肉にうでがつつまれて、力がなくなったで。」/と言った。/ぼくは、続けてくそをさがした。おくのななめ下に、グチョグチョしたものがあった。ぼくは、それをつかんでうでを引きぬいた。つかんだくそはこげ茶色で血がまざっていた。ぼくは、お父さんと同じように、はい水こうにべチャッと捨てた。/ぼくは、もう一度手をつっこんだ。すると、お父さんが、/「智貴。おくのななめ下に二つのあながあるろう。そのあなに精子を入れるが。」/と言った。ぼくは、指先であなをさがした。あなはすぐにあった。鼻のあなみたいだった。/ぼくは、あなをさわりながら、/(人間の女にもこんなところがあるのかな。)/と思った。ぼくは、手をぬきながら、/「たしかに、二つあながあった。」/と言った。ぼくは、手をぬいて台からおりた。/またお父さんが、台に上がって手をつっこんだ。ぼくは、/「なんでうんちとるが?」/と聞いた。お父さんは、手を入れたまま、/「精子を入れるときにじゃまなが。だからのけるが。」/と言った。ぼくは、/(精子を入れるときにも、てまがかかるがやなあ。)/と思った。〉 (指導 坂田次男) 〔傍線は引用者〕

 これを書いた智貴君は、土佐の酪農農家の二男である。「ぼくは小さいときから、牛のくそのかたづけや、えさをやる仕事をしている。ちちしぼりは四年生になってからやり始めた。だから、牛の仕事のことだったらだいたいわかる」と書く。私などには、一丁前の(その手前にいる)牛飼いのようにさえ思われる少年が、ある時父から「直検」とよぶ、牛の「直腸検査」の手ほどきを受けた。その時の体験を〈展開的過去形〉表現で綴ったのが、この作文である。牛の「けつ」の穴に指先を差し込み、肛門の中に「かたの付け根まで腕を入れ」て、「くそ」をつかみ出す所作とその様子が、順序よく、展開的に、誰の目にもわかりやすく書かれている。しかも、この親子の使う、〈けつを「けつ」といい、くそを「くそ」という〉質朴な言葉・言葉づかいが、牛飼いという生業にともなう(不可避の)営みや作業と実質的につりあい、呼応している。(実際に、「直検」をするこの親子の手・指は「くそまみれ」になる。)
 ちち牛の習性を一語で写し取った、「牛は動かなかった。」という簡潔な描写。父が牛の肛門に手を差し込もうとしたときに(書き手が)見た尻の穴の様子(「何かがすいこまれるみたいにしわが集まっていた」)。肛門のなかに手を入れ、指先で探りをいれた時に感じた「広いなあ」という感触とその驚き。「グチョグチョ」「ベチャッ」という言葉で表される「くそ」の状態。等々。
これらすべてが、書き手の敏感な五感によって捕らえられ、生き生きと描写されている。しかも、そこで使われている言葉は質朴であり、けっしてだらだらと書かれてはいない。初めての、実地の「検査」の過程で、書き手の五感は牛の肛門(その内と外)に集中されていき、新鮮といえる気づき、驚き、発見を生み出していく。
〈お父さんは、片手を牛の腰の骨あたりにおいて、ビニール手ぶくろをした手をこう門に入れ始めた。指先から、ズーッとかたの付け根までうでを入れていった。牛はぜんぜん動かなかった。お父さんは少しうでを動かして、ゆっくり引きぬいた。手にくそをつかんでいた。お父さんは、そのくそを、はい水こうに捨てた。お父さんは、/「次やりや。」/と台を下りた。〉
 全文中、とりわけこの箇所の描写・表現はすばらしい。「名文」といっていい。私は小学生の書く作文に「名文」という語を当てることに躊躇するものであるが、しかしこの文はまぎれもなく名文である。それゆえ、無駄な、余計な言葉は一つだにない。展開的過去形表現がうみだした、佳品中の傑作であると、私はいいたい。
この〈好奇心〉旺盛な、牛の世話をとおしてその習性になじんでもいる五年生は、少なくともこと牛に関しては、外向けの、余計な気がね、「要らぬ目配り」(中野)をしていない。「けつ」から手を突っこむ所作――ひとつの理法/技法といえる――について、「気持ち悪い」だの、「きたない」だの、「恥ずかしい」だのといった、要らぬ気兼ねは微塵もない。〈ぼくは「田舎者だ。桶を桶という。」くそをくそという。〉このことが、この少年の言葉づかい/表現から、湿った、あるいは観念的な、余計な説明の類を排除し、質朴な言葉を選ばしめたのだといってよかろう。
付け加えていえば、この少年は最後に、つぎのような問いを父親に向けている。〈ぼくは、/「なんでうんちとるが?」/と聞いた。お父さんは、(牛の肛門に)手を入れたまま、/「精子を入れるときにじゃまなが。だからのけるが。」/と言った。ぼくは、/(精子を入れるときにも、てまがかかるがやなあ。)/と思った。〉ここには、牛飼いの生活・生業を貫いている理法が捕らえられ、少なくともそれへの気づきがあり、書き手は「手間がかかる」という言い方で、その理法・ことわりを受け止めている。
ここに私が述べた、すべてのことは、(書き手が)「ある日・ある時」の、印象深い体験をふりかえり、よく思い出して、展開的に綴るという表現法によって引きだされたものである。こうしたすぐれた作品が出来上がるまでには、指導者・坂田氏の、要を得た、懇切な表現指導(むろん推敲指導を含む)が介在していることは、言うまでもなかろう。
 私は、この作品を読みながら、「牛の直腸検査」というものの所作、そのリアルな様子を教えられ、それの必要なわけを知ることができた。同時に、子どもの五体から内発してくる、〈かしこさ〉の根を感じ取り、実に愉快な気分になった。子どもは、やはり、偉大である。この小さな、しかし逞しい牛飼いに幸いあれ!

〈註1〉国分一太郎は、「事実に即した文章」・「辛抱づよい文章」の書き方を「きびしく指導したい」と論じ、「苦心して」書いたという性質の文章にさせなければならない、と力説したあと、「特設道徳」に論及して、つぎのように述べている。〈特設道徳ができ、道徳教育論がやかましくなりだしてきたら、あらわれてきたような作品――文章の末尾のところが、かならず「覚悟」のひれきになっているような文章。文章の末尾の、感心めいたことを書くために、書きはじめかきすすめたような文章。それらをわたくしたちは、もう一度ぶちこわしてかからねばならない。〉(『生活綴方の今日と未来』、138頁、1965年)
 さらにいえば、六〇年代後半より、国分一太郎は、「いまの日本の子どもたちは、なんと『もの』をつかまえるちからを衰弱させられていることか、書き綴るちからを失ってしまっていることか、それをしきりに悲しんだ」(『文集 3』・1969)と、苦渋のにじむ診断・警告を記している。そこから、あらためて、くりかえし〈事実に即した文章を〉と説き、「物や事とぶつかった自分との関係を、こまかく、しつこく表現させたい」と訴え、「この『苦役的労作』(辛抱強い文章)を課することが大切だ」とも提唱している。
 こうした強い、しぶとい課題意識の根底には、「しなやかさというたからもの」の衰弱・喪失という現実認識、痛恨の思いとともに、〈共生というたからもの〉を生活の理法として、子ども自身が経験として、学び取っていくことへの呼びかけが、彼を突き動かしていた。「人間(性)回復の綴方」運動の提唱である。
(註2)中野重治とのあいだ柄についていえば、国分一太郎は、「中野さんとの旅」と題する短文の中で、「普通には気むずかしいと思われている中野さんを、私はひっぱりまわした。/・・・一九五三年一月、私は、中野さんにけしかけて、高知市で開かれた日教組の第二回教育研究集会に、中野さんをつれていった。」と記し、あるいは日本作文の会の、秋田での大会(一九五四年)に「ひっぱっていった」ことなどを紹介しつつ、それぞれ興味深いエピソードを披歴している。そして、その文章の最後を、「私は、たえず中野さんといっしょの『旅』をしつづけてきたように思う」と、結んでいる。(『中野重治全集』第二十二巻・「月報」21)
(註3)中野重治の一種の「名文案内」である、「日本語を大切にするということ」という文章は、新日本文学会の財政難に対する対策として、中野の「書きおろし本」を作ることを国分一太郎が考え、提案したが、「書きおろし本をつくる余裕は私にないところから、『作文と教育』に紙面を借りて月々に書いて行」くことにしたと、中野は記している。結局、この連載は五九年十二月号で中断されたまま、完結に至らなかった。「未完ではあるが、・・・日本語、日本文についての私の意見に変わりはない。」(中野)
(註4)ここで指摘している、「生活の理法を微小(微細)なもののなかに探る」とは、たとえば貧困問題や大災害のような「大きな」問題を直接題材とするのではなく、(またする場合でも)ごく日常的に目にする、「平凡」ともいえる営み・事象のなかに、子どもの眼が捕らえた(感じ取った)発見や驚き・感動のことを指している。ほんの一例を挙げておけば・・・。
「うすぐらいものおきに/久しぶりで いってみた/かびくさい においがしている/板の間にころがしてある/じゃがいもから/ひょろひょろの芽が/いっぱいでていた/どれも東の方に/すこし、まがっている。/やっぱり、/生きているんだなあ。」(国分一太郎『新しい綴方教室』より引用)
(註5)この引用文に触れられている、「多くの具体的なものからいろいろの側面を抽き出してくる力を自分に養わなければならない。」(中野)については、国分一太郎もまた、「論理的」・「概括的・抽象的なコトバ」による表現、「自分の考えをつくりあげようとする」表現を、「しりぞけるようなこと」をしてはならないと(早くから)指摘していた。(たとえば、『生活綴方ノート』、1957年)
(註6)1954年夏、秋田市で開かれた〈作文教育全国協議会〉の第二日に、中野重治は出席し、「綴方と文学との関係について」およそ次のように発言している。
「ひとくちにいえば、文学とは、物や事にコトバで名前をつけること、物と物との関係、物と人との関係、人と人との関係を、人間生活とともにあるコトバで、正確にうつしだしたものである。正確にというのは、物や事、それらの関係がそのあるとおりにということである。たとえば、イワシは水中にいる生きたイワシのように、牛は牛小屋やたんぼにいる生きた牛のようにということである。牛罐の罐の中にある牛肉を牛だといったり、イワシの罐詰の罐の中のイワシを生きたイワシだといったりしないように、ということである。・・・綴方作品は、りっぱな文学である。なぜなら、みなさんは、子どもたちにやはり物事の姿や関係をしっかりと観察させて、これをコトバで正確に生き生きとかきあらわさせることを、教育上ことのほか大事にしているからである。・・・したがって、綴方は文学であり、べつの意味にいう文学(小説はじめ、「複雑な」、虚構をまじえた文芸文学)の大きな基礎である。文学というものを、別の意味に解すれば、綴方は文学ではない。…」(国分一太郎による「聴き取り」。なお、この発言は、中野重治本人の「校閲を受けている」。)国分一太郎『生活綴方ノート』(1957年、新評論版)。ここに言われる「大きな基礎」とは、綴方(作品)は文学にも、科学にも、実用(文)にも開かれた(それらに向かい得る)、未分化の「基礎」・「根」・「下ごしらえ」となる、という意味である。(国分一太郎「『文学の独習』へのはるかな夢」、『新日本文学』1977年10月号、を参照されたい。)。
(註7)佐多稲子・国分一太郎『文章創作教室』(創林社)
(註8)本文中で例示し強調している〈展開的過去形〉表現の重要性、その指導法については、数多くの論文、解説書が出されているが、そのうち実践者が著した文献から、「面白くて、為になる」本を、(ここでは)二つだけ紹介しておきたい。
・坂田次男『どうすれば子どもは書くか』(解放出版社、2005年)
・田中定幸『作文指導のコツ①②③』(三冊・子どもの未来社、2010年)
 なお、作文指導系統案については、日本作文の会編『作文指導系統案集成』(百合出版・1964)があり、国分一太郎の指導系統案も戦前作成のものを含めて収められている。
 Ⅲで紹介した『生活綴り方作品集 Ⅴ』(つづり方フォーラム・21)に収載された作品は、「すべての子に確かな現実認識と生をきりひらく表現を」という視点から編集されたものである。ぜひとも読んでほしいので、同フォーラムの連絡先を記しておく。 782―0042高知県香美市土佐山田町2449―251 seikatu@tudurikata‐forum21.jp

〔附記=本稿の骨子部分は、最初、「生活綴方の教育思想」(「中野重治と教育」第三回、2011年)の後半部として書かれたものである。児童生徒の「作品」を紹介・引用したかったので、加筆の上、第十一回にまわした。第三回と併せてお読みいただければ有難い。〕
*関西大学生協・『書評』より加筆の上転載

今年の2月13日から、2日間高知県で、「綴り方研究会」が開かれて、それに参加した。そのときの感想を、「えのさん日記」の2月17日に記録した。そのときの印象の一部に、こう書いた。

「もう一人、玉田勝郎さんが見えていたので、すぐにご挨拶をした。国分一太郎「教育」と「文学」研究会の事務局の名刺を見て、いつも資料を送っていただき、なんのお礼もせず失礼しましたと丁寧にあいさつしていただいた。律儀な人で、我々が持参した何冊かの本を購入して下さった。「山形か、池袋の会には必ず行きます。」という約束までしていただいた。」我々事務局は、そのことを覚えていたので、今回の記念講演にお願いしたのだった。

今回、送られてきた資料を、断りもなしに、事前に載せたら、黙って、このホームページをみて下さり、出来たら、こちらの文章に可能ならば、載せて下さいと、丁寧なことばでメールを下さった。したがって、以前に載せた文章は、すべて消去し、この文章になったのである。玉田先生、ますます、ぼくは、先生が好きになりました。

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