子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

私を支えた平和教育

私を支えた平和教育

私を支えた平和教育

 教師になって7年間勤めた豊島区から、墨田区へ転勤した。隅田川の言問橋を渡るのは、生まれて初めてであった。橋の上の所々に、くろいシミがあった。それが東京大空襲の時に、橋の上で亡くなった人々の死体の油であると教えられたのは、それからかなり経ってからであった。やがて墨田区と江東区の2つの区が、東京大空襲の一番被害のあった地域と言うことを初めて知らされた。現在の言問橋は、建て替えて、新しい橋に変わった。その黒いシミのついたかけらを残そうと、今でも区内のいくつかの小学校に保存されているはずである。言問橋のたもとにあった小梅小学校の隅田川側は、奇跡的に火災を免れて、古い木造の建物が残っていた。戦前の建物が残っているということで、写真を取りに来るような人がいた。今は、改築などして、その頃のものは、ほとんどなくなってしまった。
 転勤して最初に担任したのは、五年生であった。まだ父母の中には、戦争体験者が何人かいた。文章表現力を高める指導を継続して進めた。6年の最後に、「年配の人から戦争体験を聞き書きする」ことに初めて挑戦した。

墨田区立小梅小 六年 男 子

 母から、東京大空襲の話を聞きました。一九四五年三月十日は、亡くなった祖父の四十二回目の誕生日でした。そのため、いも、米、豆などを集めて、赤飯をたきました。その夜赤飯を食べて祝っていると、母のいやな空しゅう警報が鳴りました。しかたなく母達は、今の吾妻橋三丁目から業平の東武ガーデンに逃げました。祖父は、赤飯を持ち、母は、幼い妹をおぶって逃げました。途中の橋の所で背中の妹が、
「お家に帰りたいよ。早くお家に帰ろう。」
と泣きながら母に言ったそうです。今でもその言葉が、母の耳に焼き付いて離れないそうです。やっと東武ガード下にたどりつくと、今度は祖父とはぐれてしまいました。そうすると、また妹が、
「お父さんは、お父さんは。」
と言ったそうです。その先は、どうなったか、母の記憶にはありません。昔住んでいた四つ木に行くと、祖父と会えたそうです。母の戦時中の記憶は、これぐらいです。(大切なところ抜粋。)
 一九七七年一月作
 東京大空襲の体験者が保護者の中に、何人かいると言うことも初めて知ることになる。

墨田区立小梅小 六年 男 子

 ばあちゃん(母の母)は、朝鮮へキリスト教の教えを広めるために行っていた。母は、昭和20年には、六才でした。(略)昭和二十年八月十五日終戦。朝鮮の釜山から船で下関へ、それから九州の博多に帰ってきた。(略)母は、四人兄弟のうち、ただひとりの女の子であった。母は、男のかっこうをして歩いていた。それは日本はアメリカに負けた。それで日本にいるアメリカ兵が、ツッパラかって、日本の女をいじめるので、女は頭の髪の毛をかって、クリクリにして男のかっこうをしてごまかしていた。母も、例にもれず、そうしていたのだ。だから母は、どうにか助かった。
 一九七七年一月作
 アメリカ軍の上陸に備えて、母親が小学校低学年の時に、頭を丸坊主にして男のかっこうをしていた事実は、衝撃的であった。。

母から聞いたおじいちゃんの話

墨田区立小梅小六年 女 子
 私のおじいちゃん。おじいちゃんは、やさしかった。怒った顔など見たことがない。毎月に仕事で東京に来る。おじいちゃんは、手を大きく広げて、
「敬子ちゃーん。」
と言って、私をだいてくれた。そしておこづかいをくれた。おこづかいをあげるのが楽しみみたいに、会えば千円、二千円とくれた。おじいちゃんに会うと、笑いがこみ上げてくる。何よりも大好きだったおじいちゃんが、二年前の十一月十八日に死んだ。おじいちゃんの笑顔だけしか見たことのない私。最近、母に昔のおじいちゃんのことを話してもらった。母の思い出の中には、おじいちゃんが戦争に行ったときの苦しみが、つめこまれていた。
 昭和十八年、太平洋戦争が始まってすぐに、おじいちゃんは出征した。母が小学校二年生。おじいちゃんは、三十三才。母七才の時だった。さぞ母たちは、さびしかっただろう。出征したおじいちゃんたちは、満州へ行った。
「満州ってどこ。」
「現在の中国よ。社会科でやっているでしょ。明治政府が朝鮮や中国を日本のものにして、中国の一部を満州と呼んだのよ。おじいちゃんは、そこで軍隊生活をしたわけよ。」
 母が四年生になった頃までは、時々は葉書も来たり、写真を送ってあげたりした。その後、戦争は、だんだんはげしくなり、手紙のやりとりも出来なくなってしまった。
 昭和二十年。日本は、戦争に負けた。おじいちゃんの部隊は、戦争が終わったのを知らなかった。その後、ソビエト軍が満州の国境を越えて、総攻撃してきた。そこで、いくさが始まった。その戦いの様子は、おじいちゃんの口からは一度も聞いたことがない。おじいちゃんが死んで、一ヶ月後、戦友がとつぜん訪ねてきた。その人は、長い間おじいちゃんのことをさがしていて、ようやく市役所でわかったときは、一ヶ月前に死んだとわかり、すごく悲しんでいたそうだ。その人が話してくれた戦いの様子。私にとっては、考えられぬことだった。おじいちゃんは、一人の人の命を助けた。
「頭を下げろ。」
おじいちゃんは、大きな声でさけんだ。いくら言ってもわからない人が頭を出していた。
「頭を下げろ、うたれるぞ。」
 何べん言ってもわからないので、その人の頭を鉄砲のえでぶって下げさせた。下げたと同時に、鉄砲のたまが、頭の上を通り過ぎた。その人は、若くて、戦争の経験も、訓練もなく、戦争の恐ろしさを知らない。訪ねてきてくれた人は、そのことを詳しく話してくれた。おじいちゃんは、機関銃で、ダダダダと、何連発も打ち続けたそうだ。やがて、敗戦を知り満州にいた日本隊は、ほりょになり、一人残らずソビエト軍に連れさられていった。おじいちゃんの部隊が、ソビエトに捕りょにされて行ったことは、母たちは知らなかった。
 ソビエトの生活は、苦しかった。その時のことを、おじいちゃんは、よく(母達に)話してくれた。寒さと、食べ物のうえとの戦いであった。一日、黒パンひとかけらが、ソビエトから支給された食糧だ。戦友は、栄養失調でバタバタと死んでいった。仕事は、二百年も三百年もたったような大木を、切っていく作業で、切っても切っても終わることがないほど、木がいっぱい続いていた。一日に仕事の量は、ソビエトから決められて、その決められた仕事が全部終わらないと、黒パンがもらえなかった。おじいちゃん達は考えて、仕事をする人と、食糧を集める人とに分かれた。おじいちゃんはつりの経験があり、つり係となって、一日中近くの川でつりをした。大きなますを何びきもつり、夜それをにて食べた。その中には、ぬすんできたじゃがいもをほうり込み、塩味をつけて食べた。その他、山にある、キノコ、ネズミ、ヘビ、かえるなど、食べられるものは、何でも食べた。それを食べなければ、死が待っている。いつ日本へ帰れるかわからない毎日を送りながら、生き残った人は、はじめの三分の一くらいしか残らなかった。おじいちゃんは、運良く生き残った。
「とにかくソビエトという国は、大きい国だ。」
とくちぐせのように言っていた。
 ある日、全員汽車に乗るように言われ、汽車に乗った。まどは、全部閉じられた。どこを走るのをわからないようにされ、何も教えてくれず、三日三晩乗り続けた。
「あれが有名なシベリア鉄道だったんだよ。」
と話してくれた。ようやく港に着き、初めて日本へ帰れるとわかった。ナホトカの港から、引き揚げ船に乗り、舞鶴に入った。日本の陸地が船のうえから見えたとき、全員涙をながした。私には、想像もつかないうれしさだろう。
 母が、中学二年の時、おじいちゃんが家に帰ってきた。六年間と半年も会わなかったので、母は、その時ははずかしくて、
「大きくなったなあ。こっちへ来てみな。」
と言われても、人のかげにかくれて出ていかなかったそうだ。おじいちゃんは、ボロボロの服に、ボロボロの毛布を一枚しょってきたが、しらみがいっぱいついていたので、裏庭の椿の木の所で全部焼いてしまった。おじいちゃんが帰ってきて安心したのか、母のお母さんは、だんだん体の具合が悪くなり、病気になってしまった。
「その時が、おじいちゃんの一番大変だった時だったのよ。」
と母。
「どうして。」
「おじちゃんのいない六年間で、日本は変わってしまい、お金の価値も、ものの考え方も、おじいちゃんにはついて行けなかったわけなのよ。」
と、私の質問に答えてくれた母。
 何年かたち、市役所の方から、
「年金が出るから手続きをするように。」
と何度も言われたが、おじいちゃんは、
「軍人年金なんかいらない。死んでしまった人が大勢いるのに、生きて帰れたんだから。自分で商売しているし、こづかいに不自由しないから。」
と言って、とうとう死ぬまでもらわなかったおじいちゃん。私の知っているおじちゃんに、そんな色々な人生の経験があるとは、思いもしなかった。
 ソビエトから帰って三年目。私のおばあちゃんにあたる母のお母さんは、四十三才で死んだ。母が、高校二年で、母のお姉さんが、二十一才の時だった。おじいちゃんは、それから六十七才で死ぬまで、再婚しなかった。母のお母さんが死んだ後、おじいちゃんは、いつも筆と墨を持ち、ソビエトのことや死んだお母さんのことなどを、短歌にして書いた。時々、母は、それを読んだりしたが、子どもだったので、深い意味を理解できなかったそうだ。
 「ノート二冊もあったのに、いつの間にかなくなってしまったみたい。今、あれを読めば、あのときのおじいちゃんの気持ちなど、わかったんだけど。今度、田舎へ行ったら、聞いてみるね。」
と母は、思い出したように話した。
 考えてみると、幸せの時より、不幸の方が多かったおじいちゃん。そんなことが一つもなかったように、おだやかな顔をしていた。
 戦争さえなかったら、おじいちゃんの人生も、もっと苦労のない幸せな生活が送ることが出来ただろうと、私は思った。戦争さえなかったら・・・・。 一九七七年一月作
 母親からの伝聞の聞き書きだが、祖父のシベリア抑留体験を、ていねいにまとめている。まだこのような実践が、子どもたちにできた時代である。体験者である祖父が生きていれば、103才になっている。兵隊生活で生死の中を彷徨った、体験の聞き書きは不可能に近い。昨年話題になったガダルカナル体験者の漫画家水木しげるさんも、今年89才になっている。 この子どもたちを卒業させたあと、何年かは低学年の担任になった。

先生から東京大くうしゅうの話を聞いたこと

 墨田区立小梅小学校 一年 女 子
 三月十日のことでした。三時間目の社会の時、えの本先生が、
「きょうは、何の日かしってる人。」
と、みんなに聞こえるような大きな声で言いました。わたしは、
(何の日かなあ。)
とおもったけど、お母さんにも聞いてなかったのでわかりませんでした。あらいさんと大つかさんが、手をあげました。えの本先生が、
「あらいさん。」
といって、あらいさんのところを、ひとさしゆびでさしました。あらいさんは、立ちあがって、
「はい、東京大くうしゅうの日です。」
と言いました。わたしは、
(きょうが東京大くうしゅうの日か。)
とおもいました。わたしは、東京大くうしゅうの本をよんだことをおもい出しました。えの本先生が、
「これから、東京大空しゅうのしゃしんを見せます。」
と言って、げんこうようしぐらいの大きさの白黒しゃしんを見せてくれました。
 上の方から見たすみ田くは、田んぼみたいで、草がチョコチョコとはえているみたいでした。コンクリートのほかの木のいえは、やけてぜんめつしていました。マツヤデパートのほうは、まるでむしやきみたいでした。どうろは、人げんのしたいでゴロゴロでした。えの本先生が、
「人げんのしたいが、いっぱいでも、この人たちは、へいきだったんですねえ。」
と、しゃしんにうつっているあるいていた人を見ながら言いました。
 土手のほうのすみ田川には、くうしゅうの時にとびこんだ人たちが、したいになってながれていました。赤ちゃんをおんぶしたおかあさんがにげていると中、ばくだんにあたって、赤ちゃんをおぶっていたところだけ白くなっていて、ほかはぜんぶ、まっくろになっていました。赤ちゃんもまっくろでした。きゅうにしたいのしゃしんが、アップになりました。そのとき、わたしは、むねがドキッとして、きもちわるくなって、すぐ下を向いてしまいました。みんなは、
「やだあ、きもちわるうい。」
と、ワイワイガヤガヤがうるさくなりました。えの本先生のかおは、とてもかなしそうなかおをしていました。わたしは、
(もう、せんそうなんておこるな。)
と心の中で言いました。そして、
(せんそうは、こわくておそろしいなあ。)
とおもいました。わたしが大きくなっても、せんそうは、ぜったいにおこってほしくないとおもいます。
 三じかんめがおわった十分休みに、一年一組の男の子たち十人ぐらいが、
「せんそうはんたい。ぼうりょくはんたい。せんそうはんたい。ぼうりょくはんたい。」
と大きなこえで、かた手をあげながら、一年一組のきょうしつをぐるぐるあるきまわっていました。 一九八三年 三月作
 83年版日本児童生徒文詩集(百合出版)より
 戦争体験者がほとんどいなくなってきたら、このように紙芝居・写真・ビデオなどの映像から考えさせるのも、有効な方法である。同時に文学作品からの接近もある。各学年2~3作品は、図書館などにそろえて紹介することも大切である。

お父さんから聞いたせんそうの話

 墨田区立小梅小学校 二年 女 子
 この間、おばあちゃんが来たときに、
「せんそうってとてもこわい、いやなことなんだよ。」
と言うことを聞き、わたしはお父さんに、
「せんそうのことについてお話しして。」
と言って、一週間ぐらい聞いていました。すると、お父さんは、
「せんそう、それはとてもたいへんなことだったんだよ。純子にはまだ少しむずかしいことだから、そのころ子どもだったお父さんが、今でも心にのこっていることを話してあげるよ。」
と言って、色々話してくれました。
 今から三十七年前、だいとうわせんそうというせんそうのおわりごろ、お父さんはみなとく赤さかにすんでいて、近くののぎ小学校に入学しました。そしてまもなくくうしゅうというとてもこわいことが、はげしくなってきました。くうしゅうとは、てきのひこうきが近くにやってきて、ばくだんとかしょういだんという花火のように明るい火の玉が、空からふってくることだそうです。だから、わたしにとっておじいちゃんのいなかに、お父さんは一人ぼっちで、そかいしたそうです。そかいとは、にぎやかな町だと、てきのひこうきにこうげきされやすいので、いなかのように山や川や田んぼが多く、あまり人のいないところにひっこすことです。お父さんは、いなかのおじさんやおばさんにとてもよくめんどうを見てもらったのですが、夜になるといなかになれていないお父さんは、自分のお父さんやお母さん、それにお父さんは四人兄弟のすっこなので、兄弟に会いたくて、一人でになみだが出てきてなきながらねたそうです。
 お父さんの小学校には、はねだせいきというせんそうのどうぐをつくる会社がひっこしてきていたので、高学年の人はあまりべんきょうしないで、その会社のお手つだいをさせられました。それにいえにあるてつや、くぎなどみんなひろってあつめてその学校にあるその会社にもちよったそうです。それは、ひこうきのげんりょうになるからです。
 またおべんとうばこも同じように、げんりょうになると言われて、ぜんぶのせいとが学校にもってきて、その会社にあげました。だからお父さんたちのおべんとうは、いつもおにぎりで、竹のかわにつつんでもっていきました。お父さんたちも、ときどき名前はわすれたけれども、じょうぶな長い草をつみに学校近くの土手へいかされました。それはへいたいさんのようふくや、さかなをとるあみなどになったそうです。いなかにもだんだんくうしゅうがはげしくなり、じゅぎょうちゅうにサイレンがなり、こうていのはんたいがわに作ってあるほらあなみたいなぼうくうごうという名前のところに、かくれることが多くなってきました。
 ある日のこと「ウー。」と言うサイレンがなって、お父さんのクラスは、だいとく先生という女の先生につれられて、ぼうくうごうにかくれたときのことです。その先生は、
「しずかにしてください。」
と言ってしょくいんしつのほうにかけていきました。いつもいっしょにいてくれるのに、お父さんたちは、
(へんだな。)
と思っていたら、まもなく赤ちゃんをだいてぼうくうごうの方にかけてくるだいとく先生が見えたとたん、
「ゴーッ。」
と言う音がしたと思ったら、
「ダッダッダダダダダダ。」
とこうていの土がはねるのが見えて、だいとく先生はたおれてしまいました。お父さんたちはとてもこわくて、クラスの人たちとだきあって、しばらくじっとしていました。少しすると、こうていの方がガヤガヤして、べつの先生が、
「もう出てきていいぞ。」
と、いったので出ていってみると、だいとく先生は、せなかに大きなあながあき、まわりはちだらけでしんでいました。赤ちゃんはそばで、
「ギャーギャー。」
とないていたそうです。赤ちゃんが学校にきていたのは、だいとく先生の家は神社で、その日おまつりで先生のおばあちゃんもおじいちゃんもいそがしかったので、学校につれてこなければならないのです。お父さんたちはこうていのすみで、長いことないていたそうです。今でも学校のうらにだいとく先生のおはかがあると言っていました。それはいばらぎけんのねもと小学校のできごとです。たすかった赤ちゃんは、その先生の男の子で、今はいなかで高校の先生をやっていると、お父さんは教えてくれました。それからたべものなんかも少なくおいしいものなどたべられない、とてもいやなときだったそうです。
「代用食といってお米のかわりに、おいもやうどんこで、いろいろなものを作ったんだよ。」
 それでおいもも、今みたいにおいしいのではなく、ガソリンいもという大きいばかりであまくないビチャビチャしたのもだったと教えてくれました。
 そのせんそうが終わったときは、一年生の夏休みで、お父さんのお父さんやお母さんが、東京の家をやかれ、いなかにきてすぐのことだったそうです。
 まだたくさんのお話をしてやりたいけど、純子がもう少し大きくなったら、もっとくわしく話してあげると、お父さんは言っていました。わたしはお父さんの話をきいて、おや兄弟とはなれなくちゃならなくなったり、びょうきでもないのに死ななければならなくなったり、食べものがなかったり、いつもこわい思いをしなくてはならないせんそうなんていやです。みんななかよくくらせるように、わたしたちががんばらなくてはいけないと思いました。
    一九八二年 三月作
82年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収
 今から30年近く前の作品である。今回もう一度ていねいに読んでみた。お父さんが語ってくれたねもと小学校が茨城県の何市にあるのか、はたして今でもあるのかとインターネットで調べてみた。すると稲敷市立根本小学校が出てきた。ホームページもあったので、学校の沿革と言うところを検索してみた。すると明治10年9月開校となっているので、かなり古い学校である。学制発布が明治5年に発令されているので、その5年後には開校されている。さらに沿革史を読んでいくと、次のような項目が出ていて驚いた。
 昭和20年 7月 本校訓導,大徳しん氏,機関銃射により死去。19日校葬執行。
 お父さんが語られていた話は、かなり正確に語られていたことがわかる。そのときの大徳先生がだいて助かった赤ちゃんが、この作文が書かれていたときは、いなかの高等学校の教師をされていると書かれている。1945年に赤ちゃんであるから、今お元気ならば、65才以上になられているはずである。もう退職されている年齢だ。作者のお父さんは、交流があったのであろうか。話は、次々に広がってしまう。今、この作者は、群馬県の方に住んでおられる。お父さんは、具合が悪くて、東京から引き取って一緒に住まわれていると、3年ほど前に手紙が来た。この作文が根本小学校に届けられているのだろうか。高校の教師をされていた先生の元に届いているのだろうか。そんなことまで、話は広がってしまう。この作品が書かれた30年近く前に、お父さんと相談して進めておけばよかったと後悔している。今回、自分の整理のためにまとめているのだが、この作者に手紙を差し上げる予定だ。

原博おじさんの戦争体験

 墨田区立小梅小学校 五年 男 子
 僕の家の知り合いに、江東区に住む原さんという八十六才のおばあちゃんがいます。博おじさんは、そのおばあちゃんの長男で六十三才、ぼくの大好きなおじさんです。(途中略)

最初の訓練(全面略)

フィリピンでの出来事

 軍隊は、いつも司令の命令で、異動します。おじさんは、まもなく南の方に転ぞくするために、船に乗せられ、着いてみると、フィリピンのマニラでした。そこでも憲兵隊司令部に所ぞくしました。戦いは、だんだんはげしくなり、アメリカ軍の攻げきも強く、日本軍は、だんだん山の中に追われて行くようになりました。
 山の中では、つらいことばかりでした。アメーバ赤りにかかり、マラリアで死にそうになったりしました。アメーバー赤痢りは、川の水を飲むことによってかかる病気です。水がないので、川の水を使い、川上から川下へと次々に病気が広がって、食べ物も、薬もなくみんな「戦病死」していくのでした。
 おじさんも、この病気にかかって動けず、山の中の一けんの小屋でじっとしていました。おじさんは、持っていた「クレオソート」を飲み、あとは飲まず食わずでじっとねていました。
 マラリアとは、蚊にさされて高い熱が出て息苦しくなり、食べ物がのどを通らなくなって、うわごとを言いながら死んでしまう病気です。おじさんは、それほどひどくなく、熱で苦しみながら、
(ぜったいこんな所では死ねない、母さんの所へ帰るんだ。)
と自分に言い聞かせて、
「母さあん。」
とさけんだ時、元気をとりもどしました。マラリアにもアメーバ赤りにも負けず、よごれたままの軍服とズボン、ただ必死で山の中を歩き通しました。草の根を食べたり、トカゲを食べたりしました。
 山の中で、フィリピンにある日本の会社につとめていた人たちと会いました。この人たちも病気や飢えで次々と死んでいきました。
 ある女の人は、夫と子どもをなくし、一人になって生きていてもしかたないから、そのピストルでうって殺してほしいと言いました。この女の人は、けっきょくなくなってしまったのがわかりました。おじさんは、部下に手伝わせて、ていねいにほうむってあげました。
 死んでいった兵隊に出っくわすと、浅く土をほって、その場にねたまま土をかけてほうむりました。家族に知らせるためには、その人の小指だけ焼いて、その骨を小箱に入れ名前といっしょに保かんしました。
 おじさんは、心の底から戦争のこわさ、おろかさを感じて悲しく思いました。

捕りょ(全面略)

帰国

 やがて、日本からむかえの船が来て、日本に帰されることになりました。二十一年ごろ「リンゴの歌」という歌を名古屋港の復員泉の上できいて、
(日本に帰れたんだなあ。)
と思って心で泣きました。復員局で、
「東京は全めつだから、行ってもだめだ。」
と言われて、
(ああ、もう家族は死んでしまったのか、東京へ帰ってもだめだろうから。)
と、かくごして、群馬県のお父さんの実家へ行ってみました。なんとかお母さんだけは生きていてくれと、神様に祈りながら、大勢そかいの人がいるというお寺に行ってみました。着いてみると、懐かしいお母さんの声がしました。
 目の前に、三だんのお寺の階だんがありました。おじさんは感動で足が動きませんでした。それで後ろ向きになっていると、涙がとめどなく落ちました。言葉は出ませんでした。
「だれなの。」
と近づくお母さんにやっと前を向くと、お母さんは、はだしでとびついてきて、
「五年待ったんだよ。毎日毎日まっていたんだよう。」
とおじさんにしがみつきました。お母さんは、ワアワアと泣きました。
 家族は、無事だと言うことを知りました。それを聞くと、おじさんは、何も言えず、ただ泣くだけでした。

焼けあとの東京(全面略)

おじさんのうけた教育

 おじさんの小さいころは、
「男の子は、かならず戦争へ行って兵隊になるのだから。」
と、強く正しくと教えられました。また、体をきたえる運動や剣道、柔道などもきびしくしごかれました。
「戦争になったら、喜びいさんで行ける人になれ。」
と、そればかり心がまえを教えられたのです。
 科目は、「算術」「読み方」「修身」「図画」「唱歌」「操行」とかです。男子と女子はいっしょに並びません。男子はいつも女子より上と教えられ、学校でも家でも、男子はとくべつに大事なあつかいを受けました。
 兵隊に行くことになった時、おじさんは、人がいる前ではうれしそうにして、一歩外へ出ると、とたんにがっくりしました。お母さんが、心から喜ぶはずがないと思ったからです。
 今は、あんなところ(軍隊)へ行くのはいやです。これから若い人にはぜったいに戦争には参加してほしくありません。このことを忘れずに、とおじさんは強く言っておりました。   ぼくの思うこと
「赤紙」を見せてもらいました。おじさんは、赤紙が来て戦争に行ったのではありません。手元に持っていたものです。ぼくには、むずかしくて全部は読めませんが、「臨じ召集令状」と書いてありました。次の所には、名前を書く所、とう着地、召集部隊。うらには、びっしりと注意や心得、しょち、刑罰などが書いてあります。これをもらうと、どんな人も軍隊に入らなければなりません。乙種合格の人にも、年の多い人にも、戦争がひどくなると、ほとんどの家々に赤紙が来ました。「学徒出陣」と言って学生さんも、みんな戦争に行きました。
「兵隊に行くと言うことは、死ぬことだ。」
とみんなかくごしていたそうです。そうすると、死ぬことをしょう知して、みんな、りっぱに出かけたと言うことですから、ここのところは、こわいと思います。
 また、そのように小さいときから訓練されたと言うのも、ひどいことだと思います。
 おじさんのように戦地に行って、生きて帰ってきた人は、本当に少ないのです。フィリピンから帰った人は、特に少ないそうです。
 ある人は、ジャングルの中で戦病死、またばくげきでひとかたまりに吹き飛んで、また船が沈んで海の底で、そして、飛行機といっしょにつっこんだりして、みんななくなりました。
「お国のため」とか「天皇へい下バンザイ」と言って死ぬ人もいましたが、ほとんどの人は「お母さん。」と言って死んでいったのです。ぼくはやっぱりもうだめかなと思っても、最後まで生命をそまつにしないで、れいせいに行動する人になりたいです。
 実際に戦地に行ってきたおじさんから聞いたこの戦争の話は、とつげきとか、鉄砲や飛行機で戦うような場面ではありませんでした。でも、じゅう分、戦争のこわさ、むなしさ、悲しさを伝えてくれました。ぼくは、戦争はひどいな、やってはいけないな、悲しいことだなあと、心の底から思います。
 なぜ戦争が起こるのか。どうして国と国が戦う所まで行ってしまうのか、今のぼくにはわかりません。
 ぼくは、これからいろいろ勉強して、何が正しいかを知ったり、日本の国の憲法なども、しっかり学んでいきたいと思います。平和の大事さ、ありがたさをわすれないようにしたいと思います。
 おじさんは、戦争体験を今までは、他の人に話したがらなかったそうです。でも、ぼくに、よくわかるように、正直に話してくださいました。生きるために、フィリピンの人の水牛をつかまえて、殺して食べたり、そのことでフィリピンの人々に、おじさんが捕虜になって、車で収容される時、
「カラパオ、パタイ(水牛を殺した)」
と言って、石を雨のように投げられたりしました。
 また、捕りょで作業の時、アメリカ軍のいもん袋から、お菓子をぬいて食べました。
「こんなことは、しちゃ行けないんだよ。本当はね。」
と言いながら話してくださいました。
(ずいぶん、苦労したんだなあ。)
とぼくは、つくづく思いました。
(でも、生きて帰ってきて、よかったね。おじさん。)
と何度も心の中で言いました。  一九八五年 三月作
85年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収
 この作品は、四百字原稿用紙24枚の圧巻だった。当時の年刊文集は、こんな長い文章も、ノーカットで載せてくれた。最初のきっかけは、「ぼくの知り合いのおじさんは、戦争体験者です。」という一言が、別の題材で日記帳の最後に書かれていた。それがきっかけで、そのおじさんとのやりとりが、手紙やテープ起こしを入れながら始まった。「小見出し」を入れると読みやすいことも教えた。帰国して母と対面するときは、何度読んでも胸に迫ってくるものがある。
 国分さんは、亡くなる一年前、神戸で開かれた日教組第33次日高教第30次教育研究全国集会全体集会で、演題は「『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と」記念講演された。その中でも、昔の貴重な事実を掘り起こし、それを後世に伝えていくことの意義を強調された。その話に勇気をもらい、この聞き書きを始めたのだった。
この作品が完成する前後の二月に、国分さんは、息を引き取った。

 二十八年前の第三十二回石川大会(一九八三年)の時に「生活綴り方と平和教育」分科会に参加し、平和教育の大切さをたくさん学んだ。その時の世話人が国分一太郎さんと谷山清さんであった。大会資料として、「平和・われらと世界のねがい」が二ページにわたり、世界史的な観点から、一九四五年の国連憲章前文から始まり、日本国憲法前文・教育基本法前文・世界教育憲章・児童権利宣言・ユネスコ軍縮世界大会会議の報告などが載せられていた。国分さんが、そのあらましを簡単に整理して説明してくれたことを覚えている。そこの考えを受けて、この分科会ができた経過が語られた。谷山さんは、平和学習の取り組みとして、「広島修学旅行の実践」が語られた。私は、この時初めて、平和教育の大切さを、歴史的に学ぶことができた。自分の勤めている墨田区で何ができるかを自分に問い返した。それは、墨田区が東京大空襲の被害の中心地区だったので、それの掘り起こしが私の仕事の中心になるという結論にいたった。以後、この三月退職するまで、子どもたちに「年配の人から昔の出来事の中で、心の中に強く残った事をていねいに聞き書きしてそれを綴ってみよう。」という指導題目は、何年生を担任しても子どもに向き合わせてきた。
 その後、退職5年前に「母の姉は中国に」という作品ができあがった。日教組の50次教育研究集会にその作品ができあがるまでの指導過程を発表した。「日本語分科会」の優れたレポートとして推薦され、「日本の教育」第50集の中に収められている。
 この作品が一つのきっかけになり、本間繁輝さん(元『作文と教育』編集長)を団長にして、田中定幸さん(作文の会元副委員長・国分一太郎『教育』と『文学』研究会会長)と私が副団長で中国に出かけた。日中文化交流協会の援助もいただきながら、中国人民と有意義な交流が出来た。
 この作品は、紙数の関係でカットせざろうえない。カットの多かった「原博おじさんの戦争体験」とこれらの作品は、私のホームページ「えのさんの綴方日記」の「私の平和教育」を参照していただきたい。

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