子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

1月27日(日)悲しい便り

1月27日(日)悲しい便り

驚きの手紙

 1週間ほど前に、手紙と本が届いた。本の題名は「あさきゆめみし」(椿謹二)手紙を読むと、私が担任した椿佳代子さんからであった。手紙を読んでいくと、父の謹二が昨年の6月15日になくなりましたと書かれていた。続けて読んでいくと、お父さんが最後にまとめられた歌集のことに触れて書かれていた。現在は、アーサー・ビナードさんが「白蓮の最後の弟子であった謹二」のことを本の編集をされており、やがて角川書店より出版予定と書かれていた。

椿佳代子さんの担任

 思えば佳代子さんの担任になったのは、1971年4月その年3年間担任できた最初の子どもたちを卒業させ、いきなりの低学年の担任になった。その年に、私は豊島区の教職員組合の執行委員になった。まだ日教組が強い時代の組合だったので、勤務時間中の組合活動が認められていた。つまり、金曜日の午後2時からは、職場を離れて、組合の会議である執行委員会に参加出来た。そのために金曜日の午後は、音楽か図工などの自分が担当しない他の教科を時間割に入れ、安心して職場を離れることが出来た。
 当時豊島区池袋第三小学校は、組合の強いところで、組織率も9割を超えていた。だから、私が金曜日出かけるときは、管理職も含めて「ご苦労さん。」と挨拶してくれた。その当時「父母と教師の語る会」というものも組織していて、池袋第三小学校の教育をよくする会が学期に1回ほど持たれていた。その時に椿さんのお母さんにも保護者の代表で、何人かの人と一緒に世話人になっていただいた。それだけ、椿さんのお母さんとは色々話し合う機会も持つことが出来た。したがって、金曜日の執行委員会のないときは、我がクラスだけ特別に「懇談会」の時間を持つことが出来た。学校の中ではさすがに目立つので、椿さんの家をその場所に提供していただき、年に何回か持つことが出来た。その時にお父様である謹二さんとは、何度かお話をする機会に恵まれた。

ビックリする話

 あるときに、お父様が高等学校の社会科の先生をしていたと言うことを伺った。そのお父様が、教師を辞めるときのお話をしていただき、感動して聞いていた。それは授業中に話した内容を、偏向教育が行われているという話を、教えている生徒の中の誰かが、親に話しその保護者が校長につげに行ったと言うことがわかった。おそらく謹二さんは、校長に呼ばれて「偏向教育の話」を言われたのであろう。謹二さんが、その時どんな対応したのかというと、授業が始まり、謹二さんは、生徒に向かって次のように発言した。「この中に、私の授業を偏向教育が行われていると、親に告げ口し校長に話しに行った保護者がいる。私は、今日限り教師を辞めます。」と言って教壇を去ったという話をされたのである。何という勇気のある行動であろうと、ビックリしながらその話を伺っていたのである。

どもり赤面恐怖症の治療

 私が担任したときには、どもりや赤面恐怖症の子どもたちを矯正するお仕事をされていた。私が時々おじゃますると、何人かの生徒さんを声を出しながら、一緒に声をだして指導している声が聞こえたりしていた。そのお仕事にたどり着くまでに、教師を辞職し勇気ある行動であったが、その後どのようにして、現在の仕事にたどり着いたのかの話は伺わないままになっている。安定した教師の仕事を辞め、大変なことだったに違いないと、勝手に想像してしまう。
 いずれにしても、椿さんご夫婦からは、たくさんの応援をいただき、1年間を過ごすことが出来た。担任したのは、たった1年間だけだったが、印象に残るご夫婦であった。やがて、私は、1年生の担任になり、2年間担任し、その後再び1,2年を担任し7年間の池袋第三小学校を去り、最後まで勤めることになる墨田区に転勤した。

墨田区へ転勤 

 墨田区は、東京の中でも組合の活動家がたくさんおり、元気な人たちがたくさんいた。ただ教育実践がやや弱いというので、私は「作文教育」を墨田区中に広める役割をにない、以後定年退職するまで、その役割を担うことになった。

アーサー・ビナードさんとの出会い

 その後は、何年か椿さんとは交流があったが、職場も離れたこともあり、いつの間にか途絶えてしまった。それから月日が経ち、川口市の公共施設の大ホールで、アーサー・ビナードさんという方と谷川俊太郎との対談があるということを、妻から紹介された。「母親の会」の主催であった。その頃、私は、ビナードさんのことは、名前も知らず、2人で出かけることにした。1200人以上の会場は、満員であった。私は、話を聞きながら、ビナードさんの話に次第に魅了されていった。最後の方に「私の歌の師匠は、椿謹二さんという先生です。」という話をされた。会が終わり、ビナードさんの本のサイン会が行われた。私は、さっそくその列に並び、自分の番が回ってきたときに「私は、椿謹二さんのお子さんの佳代子さんを、小学校で担任したものです。椿謹二さんはお元気なんでしょうか。」と尋ねた。すると、ビナードさんはにっこりしながら私の話を聞いてくださり、「謹二先生はお元気です。」とその時、久しぶりに椿謹二さんのことをうかがうことが出来た。

ビナードさんとの交流

 その後、ビナードさんとは縁が深まり、墨田区教職員組合の教研集会の記念講演をお願いしたり、私の組織している国分一太郎「教育」と「文学」研究会の方でも、2度ほどお呼びし、講演をしていただいた。1度目は、池袋の会であり、もう1つは山形の国分さんの故郷でもお願いした。両方ともビナードファンが何人かかけつけて、盛況であった。もう1つは、やはり私の所属している東京作文教育協議会でやはり講演をお願いしたのであった。その都度、私は、司会を任され、ビナードさんとの出会いの話をするときに、謹二先生のお子さんの担任をした話をしたのであった。
 ビナードさんとの出会いは、20年近くになるが、良い出会いがあり、その色々な場所でビナードさんとお会いすることが出来た。
 ビナードさんとの出会いを繋げてくれた椿謹二先生のご冥福を心よりお祈り致します。本のあとがきの所に佳代子さんの父についての紹介が書かれている。それを読むと、佳代子さんを担任したのが1972年であるので、お父様は43才で、私は26才であった。最初にお目にかかった時に、「先生、今、樋口一葉のことをずっと研究しています。」と言って、一葉の暮らしぶりについても少し伺ったことを思い出している。大変な読書家で、その頃、話の内容に驚きながら、伺った。今考えてみると、すごい先生のお子さんの担任をしていたんだなあと、改めて思い出している。
 私は、人工透析を受ける身になってしまったが、今のところ時間的拘束はあるが、その他は問題なく元気に暮らしている。今は、豊島作文の会を1970年から潰さずに、月に1回開いている。最近は、10人くらいの仲間が、必ず集まって来る。昔は、小学校を借りてやっているが、豊島区の教師が1人もいないので、場所を探すのに大変苦労している。国分先生が種を蒔いてくれた会なので、潰さず今までやってこられた。
 あと、現在は「作文名人への道1・2年生」を出版するために、原稿を書いている。
 謹二先生、安らかにお眠りください。亡くなっておられたことをまったく存じ上げずに失礼を致しました。今は、柳原白蓮さんの最後の弟子であった謹二先生の執筆された本が出来上がるのを楽しみに待ちます。

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