子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

10月11日(金)突然の電話

10月11日(金)突然の電話

 それは突然やってきた電話だった。「もしもし、榎本先生のお宅ですか?」というかぼそい声で、最初の声がかすかに聞こえた。「はい、そうですが。」と言う返事に、「本当にそうですか?」と2,3度念押しがあり、「そうですが。」と言うと、あとは、しゃくり上げるように泣いていた。「失礼ですが、どなたでしょうか?」 と言う問いに「滑川(仮名)です。」と言う返事が返ってきた。その名前を聞いたとたん、最初に勤めた豊島区池袋第3小学校時代に担任した子の母親であった。その子どもたちを1,2年と担任し、墨田区に異動した。「お母さんいくつになった?」と言う問いに「77才。」という返事が返ってきた。「じゃあ、かずやくん(仮名)は、いくつになったの?」と言う問いに、「45才になりました。」ということで、「あれから38年たつんですね。」 と、月日のたつ早さを感じながら、懐かしく話をした。聞くところによると、電話番号が書いてある住所録など、全て紛失してしまい、ずっと気になっていたが、電話できなかったということである。
 その子のことは、時々気になっていた子のひとりであった。と言うのも、母親が12年ぶりに産んだ子で、両親そろってかわいくてしょうがないという子であった。今で言う、学力的にもやや劣るところがあった。しかし、クラスの中で、のびのび活動していた。2年間楽しく暮らしてきた。私が担任中に、両親で、活気よく商売をしていたが、途中からうまくいかず、父親は、行方をくらまして、遠くに行き、母親ひとりで、その子を育てていくような身になってしまった。
 そのときのことをたずねると、10年間別々に暮らしていたようだ。その当時で、大変な借金を、父親は、懸命に働きゼロにしてから、再び親子3人の暮らしが始まったようである。親子で、浦和のあるところで暮らしていたと言うことがわかってきた。その父親も、一昨年86才で亡くなったということであった。
 そんな話を、30分くらい話して、電話を切った。それから1週間くらいたち、再びその母親から電話がかかってきた。「今、息子がいるので、先生話をしてください。」 と言うので、実に38年ぶりの声の対面だった。あの頃のあどけない声は、完全に、おとなの声であった。夕方4時過ぎだったので、「これから車で家まで行くから。」と言って電話を切り、あらかじめ聞いていた住所を、パソコンで調べて印刷していたので、行くまでに1時間はかからなかった。
 アパートの2階であった。実に38年ぶりのご対面である。家の中にはいると、部屋は雑然としていた。ぼくは、家にあったいくつかの果物を持参していき、父親のお線香を上げることにした。暗い部屋で、電気は、大きな方はつかず、補助灯だけがつけられた。父親のお骨は、白い箱に入れられたままであった。まだ、公立のお墓は、安いけど、順番待ちなので、このままということであった。電話で、生活保護を受けていると聞いていたので、生活はおそらく困っているだろうと思い、大枚1枚を香典袋に入れて手を合わせた。1時間近く、話し込んで帰ってきた。
 何日か経ち、母親からお礼の電話があった。聞くところによると、次の日に、大変なことが起きたということであった。それは、母親の年金から家賃を息子に渡しておいたのだが、その金を払い込まずにいたので、アパートの家主との間にトラブルが起きてしまったということである。役所まで行き、1日がかりで、問題が解決したとのことである。電話口で、黙って聞くより仕方がなかった。
 格差社会が広がってきている中で、こんな親子が結構いるのではないかと心配している。母親の話だと、息子は定職に就いていないようだし、日雇いのような仕事をしているらしい。母親も年である。もしものことが起きたら、この子どもは、最悪その小さなアパートにも住めなくなるだろう。高校には、定時制校に進んだが、成績不振で、途中でやめてしまったということである。今は、その母親が少しでも、長生きすることを願うばかりである。

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