子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

11月21日(水)小梅小学校の同窓会その2

11月21日(水)小梅小学校の同窓会その2

小林秀徳君のこと

 4クラス合同の同窓会があったことは、前に書いた。私は、そこで何人くらい集まるのかもまったくわからず、出かけることにした。特に、1,2年の時に担任した子どもたちとは、卒業して以来一度も会っていない。この学年の子どもたちの中には、卒業して10年以上経った頃、結婚式の招待状をいただいた子どもが2人いる。一人は、5,6年の時に担任した小林秀徳君だ。素敵な奥さんと結ばれ、子どもも2人出来、幸せに暮らしている年賀葉書が毎年届いていた。また、1組だけクラス会を2年に一度していた。その中心になって、お世話をしてくれたのも小林君が必ずその中にいた。だから、箱崎恵理さんが病で倒れたとき、クラスの人に呼びかけて、恵理さんが眠るお墓に墓参りなどにも出かけた。2度ほど、お彼岸の時には、手を合わせに行き、帰りはみんなで本人を供養しながら、近くの料理屋に行き、恵里ちゃんのことを偲んだ。そんな時、小林君は、参加者から金を取らず、「必要経費で出せるから。」といって、自分のポケットマネーを出す気前のいい男なのである。その彼の奥さんが、今年くも膜下出血で倒れ、還らぬ人になってしまった。連絡を受けたので、お通夜に行き、お線香を上げさせていただいた。まだ、半年も経っていないので、彼が同窓会に顔を出すか心配していた。会場で彼に会ったときに、「大丈夫か。」と最初に声をかけた。「今、お袋達の住んでいるマンションのとなりに引っ越しました。」と笑顔で、返事をしてくれた。お母さんが、孫のめんどうを見てくれているとのことである。建築関係の仕事をされているから、さぞや不規則な時間になるので、「それは、良かった。」と彼を勇気づけた。

池田純子さんのこと

 もう一人、私に結婚式の招待状を下さったのは、1,2年の時に担任した池田純子さんだ。10年間に小梅小で教えたこの何人かから、結婚式に招かれた。そのすべての子どもたちは、5,6年の時に担任した子どもたちであった。池田さんのように、1,2年の時に教えた子から招待状が届くのは、彼女が初めてであった。
 純子さんは、1年生の時から背が高く、たしか一番うしろの方に並んでいた。お勉強も良く出来たが、私にとっての一番の思い出は、2年生の最後の方に書いてくれた「お父さんから聞いた戦争の話」という文章が、大変印象に残っている。それは、お父さんが小学校1年生の時に体験した出来事を、丁寧に語って下さった文章である。アメリカの飛行機が爆撃する前に、子どもたちはみんな防空壕に逃げ込みました。担任の大徳先生が、職員室の方にかけだして行きました。自分の赤ちゃんを職員室においてきてしまったので、その子を連れに行ったのです。すぐに、抱っこをしながら、防空壕に向かってきた大徳先生が、手前で倒れてしまったのです。アメリカの飛行機が爆撃していったあと、子どもたちが外に出て倒れた大徳先生の背中は大きく開いてなくなっていたという出来事です。お父さんは、この話を、純子さんに辛抱強く語って下さった。大変印象的な文章だったので、日本作文の会にその作品を送った。すると、すぐれた作品であると、「年刊児童生徒文集」に載せてくれた。そのお父さんは、今は脳梗塞で倒れて、病院に入院中である。今から、10年近く前に、その話を純子さんに直接伺った。

この作品のコメント

 一九八二年 三月作 82年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収
 今から30年近く前の作品である。今回もう一度ていねいに読んでみた。お父さんが語ってくれたねもと小学校が茨城県の何市にあるのか、はたして今でもあるのかとインターネットで調べてみた。すると稲敷市立根本小学校が出てきた。ホームページもあったので、学校の沿革と言うところを検索してみた。すると明治10年9月開校となっているので、かなり古い学校である。学制発布が明治5年に発令されているので、その5年後には開校されている。さらに沿革史を読んでいくと、次のような項目が出ていて驚いた。
 昭和20年 7月 本校訓導,大徳しん氏,機関銃射により死去。19日校葬執行。
 お父さんが語られていた話は、かなり正確に語られていたことがわかる。そのときの大徳先生がだいて助かった赤ちゃんが、この作文が書かれていたときは、いなかの高等学校の教師をされていると書かれている。1945年に赤ちゃんであるから、今お元気ならば、65才以上になられているはずである。もう退職されている年齢だ。作者のお父さんは、交流があったのであろうか。話は、次々に広がってしまう。今、この作者は、群馬県の方に住んでおられる。お父さんは、具合が悪くて、東京から引き取って一緒に住まわれていると、3年ほど前に手紙が来た。この作文が根本小学校に届けられているのだろうか。高校の教師をされていた先生の元に届いているのだろうか。そんなことまで、話は広がってしまう。この作品が書かれた30年近く前に、お父さんと相談して進めておけばよかったと後悔している。今回、自分の整理のためにまとめているのだが、この作者に手紙を差し上げる予定だ。
ホームページ「私の平和教育」その8より 2012年頃

結婚式の挨拶

 結婚式のときに挨拶をしてほしいと頼まれた。私は、その時の作文を持って、この話を中心に語った。あと、当時お誕生日特集というのをやっていた。誕生日の日に、家の人にメッセージを子ども向けに書いてもらう。その時のエピソードも語った記憶がある。
 もっとも卒業してから、腰が痛かったり、首が痛かったりすると、池田さんのお父さんが病院の医院長をされていた、整骨院にお世話になった。一度、背中の筋肉がものすごく痛くて、困ったことがあった。色々思い出したら、スキーに家族で出かけたときに、娘の千香を教えていたときに、同じ姿勢でやっていたので、そこが痛くて困ったのである。さっそく出かけて、事情を話すと、私の体を抱きかかえるようにして持ち上げて、背骨をギクとさせたら、すぐに直ってしまったことがあった。やがて、純子さんもそこの病院に勤めていたことを知り、時々お世話になった。純子さんは、針治療も出来るというので、一度背中に何本かの針を刺してもらったことも懐かしく覚えている。
 その頃は、小梅小を離れて、他の墨田区内の学校に勤めていた。時々、「業平橋駅」(今は、スカイツリー駅)前の飲み屋に友だちと出かけると、そこでお父さんの職場の人7,8人で飲み会をしているところで、お会いしたこともあった。
 今回、久しぶりに純子さんとお目にかかることが出来た。「お母さん元気。」と尋ねると、今年亡くなったと言うことで、言葉が出なかった。
「作文名人への道3・4年生」は、純子さんに会えたら、プレゼントをしようと考えていたので、会場の入り口で目が合い、すぐ気がついてくれたので、手渡しすることが出来た。
 一昨日そのお礼の手紙が届いた。心にジーンとするお手紙だった。純子さん、また会いましょう。

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