子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月12日(金)人生の贈りもの その4

12月12日(金)人生の贈りもの その4

(人生の贈りもの)経済学者・政府税制調査会長代理、神野直彦:4 闘争続く大学離れ、工場の現場学ぶ (68歳)
――東大闘争のあおりで大学を1969年6月に卒業し、日産自動車に入社しました
 学生時代、五味川純平の小説「人間の條件(じょうけん)」を読み、モデルとされた隅谷三喜男先生の生き方に憧れていました。先生は旧満州の製鉄所に勤務し、後に東大の研究者になりました。敬虔(けいけん)なクリスチャンで平和主義者。マルクス経済学を学んだもののしっくりこず、炭鉱の労務管理を研究しました。僕の時代、労務管理の現場といえば自動車工場だった。大学は闘争で騒々しいし、この先、社会科学を志すにしても、現場を知っておくのはいいと思ったのです。
――入社してすぐに工場に配属されました
 2カ月間、神奈川の工場で組立工として働きました。ダッシュボードを取り付ける作業でした。工場の仕事はきつく、夏は腕が汗だく。寮に帰ると、フランスの哲学教師のシモーヌ・ヴェイユが、工場で働いた日々をつづった「工場日記」を読んでいました。
 ――本社で1年間労務管理を担い、販売会社に出向します
 セールスマンとして名古屋の販売店に1年半いました。車を売った客の面倒見が良すぎると新規客の開拓に支障が出てしまうから、「適当に」と言われていました。でも、僕は逆に「面倒見が良い」とうわさが流れるように仕向けました。おかげで、名古屋で一番売り上げて給料は2倍に増えました。会社のトップから賞をもらったこともあります。
――26歳で結婚しました
 妻の和子は日産の重役秘書でした。初めて僕のことを「好き」と言ってくれた人で、僕も大好きでした。自分を犠牲にして家族に尽くすタイプです。いまも家で僕の脱いだ服を片付け、雨の日には最寄り駅まで僕の重いかばんを持って見送ってくれます。「いいよ」と遠慮して言うのだけど、けんかになるのも馬鹿馬鹿しいし。
――75年4月、入社6年足らずで日産を退社します
 希望通りに労務管理の仕事に就かせてもらいましたが、これ以上いたら、自分が持っている思想などのコアな部分を失うと思いました。会社ではホワイトカラーのふりをして妥協しているけど、コアな部分を失うのなら意味がないと。
――周りの反応は
 会社に信じてもらえず、「本気で辞めたい」と言い張ってやっと退社できました。東大時代の恩師、加藤三郎先生には「大学は落ち着いた。学問をするなら遅いということはない、戻れ」と助言をもらいました。後日、加藤先生が妻に「日産を辞めるとき、心配じゃなかったの」と尋ねると、妻は「会社からどんなに遅く帰っても、古典を読み、学問を続けていたのを知っていましたから」。
 私の母は学者になるのを喜びました。大学卒業時、学者の道も選択肢としてあったのですが、大学闘争が続くのを心配した母は「大学の外に出て」と言いました。それを後悔していたようでした。(聞き手・西前輝夫)

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