子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月2日(火)また一人去って行った

12月2日(火)また一人去って行った

 ついに師走をむかえる月に突入した。昨日は、高倉健に続いて、菅原文太の死去の報が伝えられた。晩年の菅原さんは、戦争反対や脱原発を訴える活動に精力的に活動されていた。とにかく、貴重な人が、また一人この世を去って行った。新聞では、次のように報じていた。

菅原さんの動、高倉さんの静<評伝>

 先日亡くなった高倉健さんが体現していた、様式美あふれるヤクザ像に終止符を打ったのが、濃厚な広島弁を駆使した菅原文太さんの実録ヤクザだった。
 1960年代後半、「昭和残侠伝」シリーズで、極めて高い義侠(ぎきょう)心と自制心を持った高倉さんのヤクザが一世を風靡(ふうび)していた。その人気が下降し始めた73年、入れ替わるように菅原さん主演の「仁義なき戦い」シリーズが登場した。原作の飯干晃一さんや脚本の笠原和夫さんが広島に実在したヤクザに徹底取材し、生き残りのためには平気で仲間を裏切るヤクザの群像抗争劇を作り上げた。
 菅原さんは、仁義を重んじようとしながらもヤクザ同士の合従連衡に巻き込まれていく広能昌三という中堅幹部を、ギラギラした男の殺気をみなぎらせて演じた。高倉さんの「静」とは対照的な「動」の魅力がそこには全開していた。深作欣二監督のスピード感あふれる演出とあいまって、全く新しいタイプのヤクザ像を生み、東映の実録ヤクザ路線をブームに乗せた。
 70年代後半には、その男臭さにコミカルな味を加えた「トラック野郎」シリーズに主演。彼が演じた「一番星」こと星桃次郎は、当時、「男はつらいよ」の車寅次郎と人気を二分するキャラクターとなった。
 高倉さんの死去から1カ月も経たないうちの菅原さんの訃報(ふほう)。東映ヤクザ映画の立役者2人はその後の進路も対照的だった。高倉さんが内に秘めた情熱で映画にこだわり続けたのに対し、菅原さんはむきだしの闘志で社会活動という映画の外へ飛び出して行った。 (編集委員・石飛徳樹)

晩年、都会を離れ農業

 菅原文太さんとゆかりのある人たちからは、死を悼む声が上がった。
 葬儀は11月30日、家族葬として太宰府天満宮(福岡県太宰府市)で営まれた。2001年に東京都内で事故で亡くなった長男の遺骨も納められており、菅原さんは年に数回お参りしていたという。
「仁義なき戦い」など数多くの作品で共演した俳優の松方弘樹さんは「プライベートでも仲良くさせてもらいました。息子さんを亡くされてからは、一層絆が深くなったおしどり夫婦。奥様の気持ちを思うと心が張り裂けそうです」と遺族を気遣った。
「トラック野郎」シリーズで共演した愛川欽也さんは、菅原さんに「年をとってもいいから『トラック野郎』の最終回をやろうよ」と言ったことがあるという。「でも文ちゃんは『キンキン、もうええんじゃないか』。だからその話はやめちゃったんですよ。俺がもし酒を飲めたら、もっといろいろ話せたのかな」と残念がる。
 卒業した仙台一高の新聞部の1年後輩に故・井上ひさしさんがいる。中高と一緒だった宮城県栗原市の旧栗駒町長、三浦弘彰さん(81)は「当時から豪放磊落(ごうほうらいらく)な男だった。大学時代、新宿の屋台で酒を飲んで三鷹の文太の家まで歩いて帰ったこともある」と振り返る。
 ルポライターの鎌田慧さん(76)は3年ほど前、ラジオ番組で菅原さんと対談して驚いた。手元のノートには鎌田さんに関する情報がびっしりと書いてあった。「相手のことを調べて対談に臨む人。映画の役と違い、きちょうめんで勉強家なんだと思った」
 晩年の職業は「農業」になった。都会を離れ、山梨県北杜(ほくと)市で農薬や化学肥料を使わずにトウガラシやサツマイモを栽培。岐阜県高山市の別荘を紹介し、自然保護活動を通じて20年以上のつきあいのある稲本正さん(69)は「日本の森が荒れ始めたらだめだ」と繰り返す姿を覚えている。平和への関心は高く、東日本大震災を機に反原発の思いも強めた。
 「九条の会」事務局長を務める小森陽一・東大教授(61)は憲法をめぐる活動で何度か会う機会があった。「人間は植物や昆虫と一緒なんだ。人間だけがおごるのは違う」という言葉が印象に残る。
 11月の沖縄県知事選でも、翁長雄志氏(64)の応援に駆けつけていた。「政治の役割は二つ。国民を飢えさせないことと、絶対に戦争をしないこと」。那覇市の野球場であった集会で、米軍普天間飛行場の辺野古移設強行に異を唱えた。集会から1カ月になる1日に、悲報が届いた。
朝日新聞2014.12.2(火)朝刊

東京新聞の社会面に、菅原さんの奥様のコメントが載っていた。

 7年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々過ごしてきたと察しております。
 「落下は枝に帰らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。1つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬農業を広めること。もう1粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないように、ともに声を上げることでした。すでに祖霊の1人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。恩義ある方々に、なんの別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。
東京新聞 2014.12.2(火)朝刊
 なんとすてきなコメントだろう。私が去ったあとに、妻は、どんなコメントを残してくれるだろうか。

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