子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月21日(金)文章を書く意味

12月21日(金)文章を書く意味

生活綴方教育の大切さ

 田中さんの努力で、国分さんが亡くなる1年前に学芸大学で集中講義をしたテープを
 何度も聞き、それを文字にしてテープ起こしの作業が終わろうとしている。すでに我々の「研究紀要」にいくつかに分けて載せてある。今回、「へき地出身、あるいはズーズー弁で有名な東北出身の教師達がなぜ全国的な国語教育の指導者になりえたか」という話から始めている。

固着性とは

 その中で、「文字に書かれているもの、書いていく文字の「固着性」に着目する」ことが大事であると述べている。「読み書き中心の国語教育」の大切さを強調する国分一太郎の「国語教育本質論」と言ってもよいとしている。この考えは、戦後に渡ってずっと持ち続けてきた考えである。生前我々に対しても、この「固着性」ということは、話し言葉と決定的な違いであると強調されて話された。 例えばその違いは、新聞とテレビの違いでよくわかるように話された。つまり、新聞の記事は、大事な記事は、新聞の紙に印刷されて我々は、それを読む。よくわからなければ、もう一度読み直しも出来る。ところがテレビの出来事を伝えるニュースはどうであろうか。一度伝えたことばは、次々と話され消えていく。あとで、もう一度聞くことは出来ない。「固着性」との大きな違いである。
 教科書などでも、「スピーチ原稿を書こう」という単元がある。そこでも、人にインパクトを与える話をする前に、事前に「何を」「どのように伝えていくか」をメモして整理してから話をする。つまり、話し言葉の前に「書き言葉」で、話す内容をはっきりさせてから話すことの大事さを伝えている。
 それは、今の子どもたちが、何となくたわいもない話をするのは得意だが、きちんと大事なことばをおさえて話すことになると、苦手な子どもたちがたくさんいる。また、「昨日心に強く残った出来事を、ていねいに思い出して順に書いてみよう。」ということが苦手である。だからありもしない出来事を想像しながら、デタラメでもよいから文章を書いてみようなどと言うのも一時はやった。

教科書から「作文」という言葉が消えた 

 しかし、今や「教科書」から「作文」という文字が消え、子どもたちからもっとも基本になる「日本語」の文字を覚えて、1文を作る楽しさがないまま進級している。最初は「絵日記」から始まり、やがて、その日の出来事を文字で表す日記ということを一度もしないで、進級してしまう子どもたちが多い。

日本語の特徴

 日本語ということばは、ひらがな、カタカナ、漢字という文字を使いながら、自分の心に強く残ったことを表現するのが当たり前であった。文字を覚えたての子どもは、漢字はまったく知らなくても、ひらがなを並べていけば、正しい日本語の文章になると言うことを覚える。つまり、表音文字は、そこがすぐれているのである。漢字だけで文章を書く中国の子どもたちは、漢字の書き方をある程度覚えておかないと、「ひとまとまりの文章」はなかなか書けない。漢字をある程度覚えたにしても、画数が多いので、日本語のひらがな・カタカナにはかなわない。あるいは、英語圏の子どもたちは、「夏休み」ということばは、「サマーバケーション」という英語のスペルがきちんと書けないうちは、それを使った英語の文章は書けないのである。

一番大事なときに、それが出来ない

 そんな日本語のすぐれた特徴を、小学校1年生からやることが出来、昔「作文」という言葉があり、単元もあった20年以上前の子どもたちは、どんな子どもたちも「作文」と向き合ってきたのである。1年生の終わり頃になれば、原稿用紙の使い方にも慣れて、4~5枚はほとんどの子どもたちが、書くことができた。高学年になれば、「年配者の人に昔の貴重な体験話を聞き書き」し原稿用紙10枚くらいは、抵抗なく書いたものだった。 6年生の最後の方になれば、自分の生い立ちを振り返り、12年間の思い出を20枚から30枚くらい書いて卒業していった。

日記指導が出来ない

 私の現職の頃は、日記は必ず子どもたちに持たせて、その日の出来事をふり返って、一番心に残ったことを切り取って書いてもらった。1週間に一度、作文の授業を持った。それは、「ひとまとまりの文章を書き上げるまでの、指導過程を大切にした。例えば、「書き出しの授業を、一斉に考えあった。どんな書き出しがあるかを、様々な文章の書き出しを読みあって、考える。あるいは、会話を入れて書いた作品は、生き生きとしてくるのは、なぜか。どこの文章が、五官(感)をよく働かせて書いているか。などと、目標を立てて授業を作ってきた。
 日記は、子どもたちが、自分でその日をふり返って、心に強く残ったことを取り上げて書いてくる。ここに値打ちがある。自分で「選んで」取り上げてきたのである。日記指導をしない限り、このような自主的な題材さがしは、なかなかできない。教科書は、あらかじめ題材が決まっている。「招待状の書き方」「マンガは良いか悪いか」このように決まった題材を受けて、それについて書かせる。これでは、子供自身が値打ちのある題材を見つけて書くような文章は、出来ない。
 ところが今の教科書は、6年生で、随筆という単元がある。そこでは、大人の文章を載せていたりする。これでは、文学の鑑賞としてはなり立つが、子どもたちがそれを読んで、自分でも書いてみようと言う表現意欲はなかなか生まれない。
 子どもたちが一番簡単に表現することが出来るのは、その日にあった心に強く残ったことをじっくり思い出して、出来事の順に書いていくことが、今の教科書にはない。子どもたちは、ていねいに思い出すことは、大変な作業である。しかし、書き終わってみると、心の中のもやもやがすっきりしてくるのである。書くことによって、認識が深まるのである。その出来上がった作品を、ときにはクラスのみんなで読みあうことによって、書くことの喜びはさらに深まるのである。
 私は、1年に1回は、年配者から値打ちのあることを聞き書きして、それを文章にしてきた。あるときは、戦争体験の聞き書きであったりした。低学年ならば、東京大空襲の紙芝居を見せて、それについて考えあったりした。その後に、心に強く残ったことをまとめたりした。

私自身が今していること

 私は、毎日寝る前にその日の出来事をふり返り、その中で一番心に残ったことを書いて寝るようにしている。今年の1月から始めている。そのノートは、5年日記という分厚いノートである。書き終わると、頭の中がすっきりするから、うれしい。

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