子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2月13日(水)映像を見て

2月13日(水)映像を見て

2月9日(土)にテレビ朝日(5チャンネル)で「想画と綴り方」(山形放送制作)が、午前10時半から11時25分までの時間帯に放送された。
 この放送のことは、半年以上前に、山形で研究会があった折りに、地元の村田民雄さんから紹介されていた。放送10日前にお手紙とチラシをいただいた。
 その間に、朝日新聞や東京新聞にこのことに触れて記事になっていた。私は、このことが記事になる前に、知り合いの人や多くの人にメールをしたりして、少しでも多くの人たちに見てもらいたい一心で、広めていた。すると、元日本作文の会の太田昭臣さんから、赤旗に載った記事をコピーして送ってくれた。その記事の扱い方にも驚いた。かなりの大きさで扱っていたのである。その記事を読んで、さすが赤旗だと感心した。しかし、この記事を読みながら、かって国分さんに対する赤旗の扱いが酷かったことを思い出した。 このことに関連して、以前「えのさん日記」次のように書いた。

 1983年の正月、国分一太郎さんの自宅で新年のご挨拶をかねて、研究会を開いていた。月に2回ほど、国分さんの自宅で、勉強会を開いていた。席上、国分さんから、「来月は神戸で記念講演をすることになった。何か共産党の諸君が、私の記念講演に反対していると聞いている。」どこで手に入れたのか、各県の共産党系の組合宛に出された「指示文書」を、国分さんが手にしていた。その内容は、日教組教育研究集会の記念講演をするが、その時には退場をするというような指示文書であった。その文書を手にしながら、我々に語ってくれたのである。その話を聞きながら、私もその教研集会に参加しようと決めた。
 国分さんが、除名されたのは、ソ連や中国の核実験の成功をめぐって、評価が割れた。日本国内では、当時中国寄りだった日本共産党が「部分的核実験禁止条約」の批准に反対、賛成した志賀 義雄、鈴木市蔵らを親ソ連派として除名。志賀らに同調したとして中野重治も除名 。野間宏、佐多稲子、国分一太郎、丸木位里・俊夫妻、佐藤忠良、出井隆らは除名に反対するが、党は彼らも除名した。1964年の年である。このことについては、「いつまでも青い渋柿ぞ」国分一太郎著(新評論)の19「ツツジの土地」(新日本文学界で味わった悲しい政治の話)に詳しく出ている。
 除名される前は、国分さんは共産党の文化部副部長もされていた。私が、墨田区の小梅小に勤務することになったとき、「あそこには、共産党員の教師が5人くらいいて、その頃オルグにいったことがある。」と、国分さんから直に聞いた。また、長野県に講演に行ったときに、大型バス50台くらいで私の演説を聴きにくる党員新派がいたこともあったと、話してくれた。それにしても、いかなる核実験にも反対した人々を除名したことを、共産党は、どう評価しているのだろうか。ソ連中国を中心とした共産主義陣営対アメリカ中心の資本主義陣営の対立の中でも、世界で唯一の被爆国日本は、「いかなる国の核実験も反対」という考えは、いつの時代でも正しい考えではないだろうか。
 2月5日、兵庫県神戸市で開かれた日教組第33次・日高教第30次教育研究集会全国大会全体会で記念講演「『昔とこれから』と、そのあとの『昔とこれから』と」 と言う演題であった。 国分さんが司会者から紹介されると、全体会の出席者が、何十人も、立ち上がって会場を出て行った。私の席の斜め前に、共産党系の埼玉県高教組の委員長のYさんが座っていた。国分さんが、壇上に現れると、すくっと立ち上がって、退場しようとした。「おかしいじゃないか。」と、私も大声を出していた。そのまま、外へ出て行った。「何で無礼なことをするんだ。」と、色々なところで小競り合いがあった。国分さんは、静かに舞台中央に歩いて、話をたんたんと始められた。同じような光景が見られたが、私の想像以上には、退場する人は少なかった。

 そんなことがあったからだろう。それにしても、50年以上前に、そんなことがあったことを知っている人も少なくなった。
 1時間近くの映像を見ながら、上手くまとめるもんだなあと感心して最後まで見ていた。教え子の人たちが、まだ健在で、想画を見ながら、80年近く前の出来事を鮮明に覚えていて、皆、国分先生を慕っていた。画面の途中で、2回ほど私の姿が映っていて、「あっ、お父さん写っているよ。」「私の姿も少し出ていたよ。」と娘の千香が教えてくれた。一緒に見ていた妻も「あら、お父さんよかったね。」とその時に声を出して喜んでくれた。最後の方に、国分恵太さんが出てきて、国分さんのかけじゅくにかかっている色紙を紹介していた。
「北に向かいし枝なりき 花咲くことはおそかりき その咲く花は強かりき」
その文章の下に、国分さんが描いた子どもの姿が描かれていた。
 恵太さんの父君正三郎さんは、国分さんの一番下の弟さんである。国分さんよりずっと長生きされて、90才を過ぎるまで、兄国分一太郎のためになくなるまで、様々なことに尽力された。国分さんがなくなってから10年目の「こぶし忌」に、フランスに住んでいた日高六郎さんが記念講演をされた。私は、母を連れて、その会に参加した。正三郎さんは、我々親子のために、2人部屋を提供して下さった。交流会が始まる前に、わざわざ部屋まで見えて、我々にあいさつに来てくれた。そのように、気を遣われる方だった。
 正三郎さんにも、この映像は見せたかったなあと思いながら、じっくり味わった。

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