2006年度の作品
2006年度の作品
低学年(1・2年)
ぼくのおばあちゃん 一年 男子
ぼくが、、あかちゃんのとき、ミルクをのんでいたら、ミルクがのどにつまって、しにそうになったことがありました。そのとき、おばあちゃんが、ぼくをさかさまにしてたすけてくれました。おかあさんは、
「だいじょうぶ、しなないで。」
といいながら、めになみだをうかばせていたそうです。ぼくは。おばあちゃんがいなかったら、しんでいたかもしれません。おばあちゃんありがとう。これからも、ぼくのおうちにきてください。ぼくは、たのしみにまっています。
私は、バングラディッシュ人です 二年 女子
わたしのかぞくは、五人かぞくです。おとうさんとおかあさんとおねえちゃん二人です。とてもやさしいです。みんバングラディッシュ人です。おとうさんとおかあさんとわたしは、日本の人とくらべると、色が黒いです。それで、たくさんのおともだちから、いじわるをいわれました。
「くろこげ。」
「きもい。」
「いっしょにあそびたくない。」
わたしはくろいけど、そういわれたら、とってもいやなきもちになりました。わたしは、おこって、
「なんでそういうの。」
といいました。すると、おともだちは、
「くろこげだから。」
といいました。わたしは、
「くろこげでわるかったね。」
といいかえしました。そしたら、また、
「うん、わるかったよ。」
といってきました。わたしは、ないてしまいました。とてもいやなきもちになりました。 そのことを、おとうさんに話したら、やさしく、
「きにしないで。」
といって、わらってました。
だからきにしませんでした。そういわれるのは、やっぱりいやです。いわないでほしいです。わたしは、おとなになっても、かぞくみんなで、日本でくらしていきたいです。みんながすきだからです。これからも、なかよくしてください。
中学年(3.4年)
〇六年度 人権集会クラス代表作品 中学年(三.四年生) 名前は、すべて仮名
たかしくんにてつぼうを習った三年 男子
十月の中ごろ、学校の二十分休みにたかしくんが、
「てつぼうやろう。」
とさそってくれました。ぼくは、
「いいけど、てつぼうが、うまくまわれないの。」
といいました。そしたら、たかしくんが、
「おしえてあげるよ。」
といいながら、てつぼうのある所へつれていってくれました。一番ひくいてつぼうにつれていってくれました。ぼくが、
「このてつぼうひくいよ。」
と言いました。そしたら、となりの一だん高いてつぼうにつれていってくれました。そして、ぼくが、
「このてつぼう高いよ。」
と言ったら、たかしくんが、
「たいやをもってきて。」
と言いました。そしたら、ぼくが、
「たいやがあったたら、回るときにじゃまだよ。」
するとたかしくんが、
「じゃあ、高くてもだいじょうぶなの。」
とききました。ぼくが、
「うん。」
とこたえました。さいしょにたくやくんが、見本を見せてくれました。ぼくは、
(すごいなあ。)
と思いました。
「やってみな。」
と言いました。たかしくんは、しょくいん室の後ろのドアにむかって、走っていきました。どうぐばこから、青いてつぼうにまくのをもってきてくれました。そして、
「回ってみな。」
と言いました。ぼくは、
(こわいな。)
と思いました。だけどやってみると、あまりこわくありませんでした。その日は、はれていたから、回ってみると、水色の空の色が、シャット見えました。ちょうど三回まわり終わったときに、ピンポンパンポンと二十分休みのおわりのチャイムがなりました。昼休みにまたてつぼうをやりました。こんどは、人が見ていなくても、できるようになりました。たかしくんがきて、
「まだできないの。」
とききました。そしたら、
「もうできるよ。」
とぼくがこたえました。
「できればやってみなよ。」
と言いました。ぼくは、回ってみました。うまく回れました。ぼくは、たかしくんに、
「うしろ回り教えてよ。」
と言いました。そしたらたかしくんが、
「ぼくも、うしろ回りができないの。」
とたくやくんが言いました。昼休みがもうすぐでおわるから、てつぼうをやめました。
三年 男子
友だちにらんぼうしたこと 四年 男子
ぼくは、二年生頃から、四人の友だちをいじめている。げんいんは、中学二年の兄ちゃんだ。兄は、いつもいつも、わけもなくたたくし、けるし、だいきらいだ。たとえば、この前、いきなり後ろからのっかられたことがある。でも、やっぱり、ぼくの兄ちゃんだ。それでも、いじめられたあと、
(兄ちゃんなんて、いなきゃいいのに。)
と思いっきり泣きながら思う。それで、やりかえすにもかなわないから、自分よりもよわい弟をいじめる。すると、弟が泣きながら、すごいスピードでリビングに走っていって、母に、
「ゆうちゃんがいじめたあ。」
と大声でわめいて、母が弟にまけないような声で、
「ゆう、いじわるしない。」
と言ってきた。
その時、ぼくと兄ちゃんのへやでテレビを見ていた父も、ぼくに向かって、少しむっとした顔をした。本当はぼくが悪いのに、兄ちゃんにいじめられて、そのはらいせで、弟をいじめてしまう。
(もうやだ。)
自分がいやになった。そのまま学校について、まだイライラがのこったままなのだ。そんなときに友だち四人と校門であう。安達くんと柴山くんが、
「今日、あそぶの。」
と二人とも同じようなしつもんをしてくる。すると、ぼくは、
「おれ、あそべないから。」
なんてウソをついてしまう。そのあと、ウソだと言って、二人の頭をこづいてしまった。 二十分休みの時、四人いっしょにかいだんを下りて、なかにわにあそびに行く。
毎回やっているとは言わないが、だれかにあだ名をつけて、その場をにげまわっている。よく考えてみれば、これも一種のいじめだと気づいた。
「やっぱり、これやめよう。」
とみんなに言った。このようなことを、一日一日くり返している。
じっくり考えてみると、ぼくのストレスは、兄ちゃんから来ている。だけど、兄ちゃんも、もしかしたら、中学校で、クラスの人にいじめられたり、からかわれたり、しているのかも知れない。そう考えると、それがげんいんでぼくがからかわれてるのかも知れない。兄ちゃんにもやめてほしいけど、だからぼくが、友だちをからかうのをやめれば、友だちも安心するだろうし、兄ちゃんのことは、そのうちかいけつして、まず自分をあらためていくことだと気づいた。
だから、ぼくをきらいにならないでくれる友だちを大切にしたいと思う。
転校生が堤小に 五年 女 子
三週間ほど前、朝の児童朝会のために、体育館へ向かいました。
「あー寒い。なんでこんなときに朝会なの。」
と、友だちにあたりながら、私は言いました。いやいやながらも、立って聞いていました。すると、小山校長先生が、
「今日は、中国の方から、転校生が来ています。では、こちらへ。」
と、先生の合図で男の子が歩いてきました。私の通っている堤小は、日本語教室という教室があり、多くの外国〈から来た〉の人が通っています。去年の六年生には、渋谷など遠いところから来ている人もいました。だから、中国からの転校生は、普通だと思っていました。その男の子は、マイクの後ろに立ち、自己紹介をしました。
「ぼくの名前は、ジョートンです。よろしくお願いします。」
と言うと、みんなが拍手をしました。
(背が大きいなあ。きっと六年生だろうな。)
と、私は拍手をしながら思いました。
「では、ジョートンさん。五年生の列に並んでください。」
と校長先生が言ったので、五年生は、
「えっ五年生?六年じゃないのかよ。」
と、大声でさけんだような声で言いました。
(みんなも、私と同じ事を思ってたんだな。)
と思いました。
朝会が終わると、全児童がそれぞれ自分たちの教室へもどって行きました。朝の会をしてから、教室でもジョートンくんの紹介がありました。朝と同じように、
「ぼくの名前は、ジョートンです。よろしくお願いします。」
と言うと、やはり朝と同じように、拍手で答えました。すると、担任の宮崎先生が、
「では、みなさんもジョートンくんに自己紹介をしましょう。」
とやさしい声で言いました。八木ちゃんから、
「私の名前は、八木ミチコです。よろしくお願いします。」
と、どんどん自分の紹介が近づいてきました。
(ああ。近づかないでぇ。)
と思いながらも、結局自分の番が回ってきてしまいました。
「私の名前は、山口美紀です。よろしくお願いします。」
と、だんだん声が小さくなっていきました。
みんな紹介が終わり、後ろにいる同じ中国の子に、私は、
「ジョートンくん・・・だよね。」
と、聞いてみると、
「ちがう!発音がちがうよ。ジオートンだよ。ジオートン。」
と、怒ったように言いました。
(さすが、同じ国の子だ・・・。)
と、しみじみ思いました。でも、私はよくわからないので、ジョートン君とよぶことにしました。
授業が始まって、ちらりとジョートン君を見てみると、日本に来て三年くらいの中国の子に教わりながら、自分の勉強を進めています。
(すごいなぁ。来たばっかなのに。)
と、そんけいするように思いました。
二時間目の算数では、いっしょに少人数教室にうつりました。榎本先生は、転校生に、
「お名前は、なんて言うの?」
と聞いて、通訳の金本君が中国語で、教えてあげて、
「 ジオートン。」
と答えると、榎本先生が、
「えっジョー?ジォトン?」
と聞いてきたので、他の子たちが、
「ジオートンだよ。ジオートン。」
と教えてあげると、やっと覚えてくれました。ジョートン君は中国では、六年生なので、五年生の勉強はすらすらできます。だから、榎本先生は、うんとほめていました。
わたしはまだ、ジョートン君とは、あまり話していません。いつも、中国の子が来ると、すぐに仲良くできません。せっかく、日本語教室などあって、外国の子が多い学校なので、仲良くしたいです。ちょっとずつでも話したいです。こんな学校なかなかないので、日本語教室があるのは、墨田区で堤小だけです。中国だけでなく、フィリピンやタイやバングラディシュやかんこくなど、たくさんの国から来ています。
私は負けない 六年 女子
今から6年前、私が堤小学校に入学した頃の春、保育園では言われたことのないような言葉を言われた。入学したばっかりの時、何人かの子に、
「亜紀ちゃんは,どうして左手がないの。」
といわれました。わたしはいつも、
「お母さんのおなかの中に、忘れてきちゃったの。」
と言って答えました。私はこの時は、あまり左手のことで言われてなかったのに、二年生になったときに、いろいろと悪口を言われるようになりました。何人かの子に,
「身体障害者。」
と言われました。私は,初めてこの言葉を聞いた時は、
(何を言っているのかな。身体って何、障害者って何だろう。)
ずっと思いながら、学童クラブから、家に帰ってきました。私はこの時は,身体障害者という言葉を気にしていませんでした。けれど,さすがに何回も言われると、気になってしまって,お母さんに聞いてみました。
「ママ、身体障害者って、どういう意味なのかわかる。」
と聞きました。そうすると。お母さんは、私のところまで来て、やさしく言ってくれました。「亜紀みたいに、手がない人や体が自由に動かない人のことだよ。でも、亜紀は、そういうことを言われても、気にしないで、前向きでいなさい。」
私は、この言葉を聞いて、とても安心しました。
それから四年後、私は小学校六年生になりました。これまでの四年間は、あまりいやな言葉は言われませんでした。だけど、六年になってから、いきなりいやなことを言われるようになりました。
十二月四日、月曜日の図工の時間が終わって、教室にもどっていたとき、後ろから山田君たちが、
「こいつにさわられたら、ゲームオーバーだ。」
と大きな声で言い出しました。
(何を言ってんだろうたち。うち何か行ったけ。)
私はそう思いながら歩いていたら、山田君といっしょにいた大木君や水本君がいきなり走ってにげてしまいました。私は意味がわかんなかったので、山田君たちを走って追いかけました。けれど私は、足がおそいので、にげられてしまいました。
次の日学校に行ったら、山田君の行ってたことが、クラスの男子に広がっていました。
(うわ。ヤバイなって言うより、何でこんなに広がってんの。)
私は、そう思いました。さらに田中君には、
「うわ。バイキンマン来るな。」
と言われました。私は、何で言われたのかが、全くわからなかったので、気にしていませんでした。だけどその日の五・六時間目の家庭科の時間に、作業しているところに、田中君がきて、わたしの座っていたいすをひいて、わたしをイスから落としました。私は、涙目になりながら、
「おい田中。何でこんなことをするんだよ。」
とおこって言いました。すると、田中君は、
「おれ、やってねえよ。」
と言い返してきました。私はその後、
(またなんかやられないかな。やられたらどうしよう。)
と思って、とても不安で集中して作業ができませんでした。
次の日のそうじが終わった後、やはり同じ事を言われました。
(まったく。こりないやつだな。)
と思いながら、言葉の意味が知りたくて、男子をおいかけまわしました。後ろのほうから、「亜紀、相手にしないほうが良いよ。」
と言う声が聞こえたので、ふり返ったら、姉の真紀がいました。私は、真紀に服を引っ張られながら、教室にもどりました。
(男子の言っている言葉も気になるけど、彩香の言うとおり、相手にしなければいいのか な。)
と思いながら、五時間目の授業を受けました。