子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2008年度の作品

2008年度の作品

低学年

ぼくのおばあちゃん   一年 男子

 十一月二日に、にゅういんしていたおばあちゃんが、天ごくへいきました。おばあちゃんは、五十四さいでした。一ヶ月ぐらいまえから、にゅういんしていました。ママは、そのあいだ、おしごとをやすんで、びょういんにいったりしていました。ぼくは、なんかいもおみまいにいきました。そのとき、おばあちゃんといろいろなことをはなしました。
「またね、ばいばい。」
といって、わかれました。
 おそうしきのとき、おかんの中にお花をいれました。おばあちゃんは、ほねになって、天ごくへいきました。ぼくは、くやしくてなきました。いなくなって、さびしくなりました。おばあちゃんは、ゲームであそんでくれたり、いっしょにテレビを見たりしてくれて、やさしかったです。もっとあそんでほしかったです。おとうとが、大きくなるのを見てもらいたかったです。
 おばあちゃん、ありがとう。

楽しくてやさしいおかちゃん 二年 女子

 七月二十四日土曜日、おかちゃんと、うら公園でまちあわせでした。おかちゃんがスキップしながら、はな歌を歌いながらきました。お昼すぎでしたが、おかちゃんは、
「るったんおはよう。」
と言いました。はな歌は、「ビリーブ」みたいな、ちがうような歌でした。わたしは、
(このはな歌はいつまでつづくんだろう。)
と思いました。おかちゃんははな歌にむちゅうでした。やっとおわって、話せるようになりました。おかちゃんと、すきな人の話をしました。学校の中ですきな男の子はだれか、聞きあいました。わたしは、
「すきな男の子はいないよ、かぞくが一ばんすき。」
と言いました。
「おかちゃんは。」
と、聞きました。
「おかちゃんは、おねえちゃんがいちばんすきだよ。おねえちゃんは男みたいだもの。」
と言いました。
 そのあと、おかちゃんがもってきた「オズのにじの国」という本を読みました。わたしが声を出して読んでいると、おかちゃんは、聞いていたんだけれど、つまんなくなって、またはな歌を歌いはじめました。つぎに、おかちゃんは、はな歌でなく「ビリーブ」を歌いました。ちょっとまちがえたところは、わらってごまかしていました。またそのあと、うら公園のブランコであそびました。ブランコでワニゲームをしました。ブランコをひとつずつわたっているとき、「クリアー」とさけびながら行くのです。おちちゃったらワニにもっていた、お金をくいとられちゃうのです。
 ブランコをしている間にくらくなりました。おかちゃんと、いっしょに帰りました。

中学年

山本君と仲良くしたい 三年一組 女子

 夏休み少し前のころでした。私は、土曜日に、山本君とつかさ君とあそぶよていでした。 自転車で、とうぶはくぶつかんにつきました。三人で、中に入って、自転車を自転車おきばにおきました。百円をいれて、、電車を見たりしました。見たら、とてもかっこよかったです。電車にのってあそびました。とてもひろかったです。電話のおもちゃで、あそんだりしました。二かいに行って、私と山本君とかずさ君で、のみものをのみました。おひるになって、マクドナルドに行って、おひるごはんを買いました。私は、おひるごはんが終わって、いすにすわってたら、山本君が、私のことをおしました。私が、
「いったあ。」
と言いました。山本君は、
「かずさがおしたんじゃん。」
と言いました。私のとなりの席は、山本君でした。だから、山本君じゃないかとかんがえたのです。私は、むかついて、泣きながら、マクドナルドを出て、自転車でライフの公園に一人で行きました。そしたら、今の四年生のあきなちゃんと、よねちゃんがいました。二人が、
「ちか、どうしたの。」
と私が泣いていたのでいいました。私は、
「山本君とかずさ君とけんかした。」
となきながらいいました。二人は、
「だいじょうぶ。」
と言いました。
「うん。」
と言いました。私は、あきなちゃんとよねちゃんとあそぶことにしました。おにごっこをしたりしました。とちゅうで。山本君とかずさ君が来ました。でも、山本君とかずさ君が、だまって行ってしまいました。
 次の日に学校に行ったとき、山本君とかずさ君が、
「ぜっこうしよう。」
と私に向かっていいました。私から、かずさ君と山本君がはなれていきました。
 二,三日たった夏休みに、私は、げたばこにくつを入れました。プールのカードをおすとこで、ならんでいました。そしたら山本君とかずさ君は、
「来たあ。」
と、私のすがたを見ていいました。私は、いやな気持ちでした。私は、何も言わなかったです。何か言うと、けんかになるので、がまんしました。プールが終わって、学童に行きました。学童が終わり、帰るときに、いつも三人でかえっていました。かずさ君と山本君で、かえっていきました。私は、一人になってしまったので、一年生の人たちとかえりました。
 次の日も、プールのならぶとこでまっていたら、
「きたあ。」
と二人が言って、また私は、いやなきもちになりました。いつも言われたので、もう行きたくなくなってきました。
 土曜日林君兄弟とあそびました。そこへかずさ君がはいってきました。かずさくんが、
「いつのまにか、なかよくしてるね。」
と、私に向かって言いました。私は、
「うん。」
と言いました。
 二日たった月曜日の日、学校へ行きました。かずさ君となかよくしたつもりなのに、学校ではいつものように、
「きたあ。」
と、また言いました。私は、
(かずさ君は、山本君が私とかずさ君がなかよくしたと思わせないようにしてるのかな  あ。)
と思いました。私は、プールに入って、いつものようにがくどうに行ってかえるとき、一年生とかえりました。長い夏休みが終わりました。学校に行って、私は、
(山本君やだなあ。)
と思いました。
 九月になりました。私は、少しなかよくなったような気がします。前の山本君は、こわかったけど、今は、やさしくなりました。でも、私のなまえは、ゆってくれません。まだ、山本君とけんかしてます。いつになったら、なかよくなるのだろう。

目の上のケガ         四年一組   男子 

 九月二十五日の放課後、ぼくが帰ろうとしてげんかんを出たとき、公平さんと明さんと宗平さんがフリスビーをして遊んでいました。
 ぼくが校門の方へ歩いていったら、フリスビーを投げようとした公平さんの手が、ぼくの目にあたってしまいました。
 ぼくはそのとき
(いたいっ)
と思いました。あわてて目をおさえて、すわりこんでしまいました。
 すると、公平さんが心配そうに、
「だいじょうぶかぁ。」
と言って、ぼくを保健室につれていってくれました。明さんや宗平さんも心配そうな顔でついてきてくれました。
 保健室についても、ぼくはなみだがいっぱいで、岩田先生にわけを言えませんでした。 すると、公平さんがぼくのかわりに岩田先生にわけを言ってくれました。
 そのあいだ、明さんや宗平さんもぼくの顔を見て
「だいじょうぶ。」
と言ってくれました。
 ぼくは泣きながら、
「うん」
と言いました。公平さんが心配そうな顔をして
「ごめんな。」
と言ってくれました。ぼくはその言葉を聞いて、
(わざとやったんじゃないのに、ちゃんとあやまってくれるなんて、公平さんはいい人だ なあ)
と思いました。
 その後、岩田先生は、
「これで冷やしなさい。」
と言って、保冷ざいを持ってきてくれました。
 ぼくは、痛みがおさまるまで保健室に残りました。
 公平さんたちは、心配そうな顔をしながら帰っていきました。
 そのあと、岩田先生が、ぼくのお母さんのところに電話をしてくれました。お母さんがむかえに来て、そのまま目医者に行きました。
 目医者さんは
「たいしたケガじゃないよ。」
と言ってくれました。
 ぼくは、
(たいしたケガじゃなくてよかったぁ)
と思いました。
 その日は遊びに行かないで、家でのんびりしていました。
 すると、電話がありました。電話を切った後、お母さんが
「公平さんのお母さんからだったよ。公平さんがごめんねだって。」
と言いました。
(わざとじゃなかったのに、電話でもあやまってくれるなんて、公平さんて本当にいい人 だな)
と思いました。
 その言葉を聞いて、ぼくは目の上がいたくなくなりました。

高学年

養護施設に、行くことになったこと 六年 男子

 僕の母は、体が丈夫ではありません。僕が二年生の時、母は腰を悪くしました。病院に行ってレントゲンをとりました。医者からは、一ヶ月の入院だと言われてしまいました。僕の家は三人家族でした。姉も五年生だったので、一緒に養護施設に行くことになりました。母は、とても悲しみました。
 養護施設に入った日
 十月二十一日に、養護施設に行くことになりました。僕は、二年生だったから、預かってもらう事の意味が分かりませんでした。預かってもらうところの建物の前に行ったとき、僕は、
(泊まるんだなあ。)
と思い、思わず泣いてしまいました。母も目に涙を浮かべていました。でも、預かってくれる人が、
「お母さんが困っているよ。中に入ったら、いっぱい泣いていいんだからね。」と言いました。僕は心の中で、
(そうだなあ。)
と思っていました。だから、僕と姉は笑って、
「バイバイ。」
と言うと、母も、
「バイバイ。」
と、別れました。
 養護施設の部屋
 部屋は、男女別々でした。だから、初めは僕一人で遊んでいました。姉は、女子の部屋に行きました。僕は、一人ぼっちだったけれど、みんなが遊びに誘ってくれました。みんなと言っても十人だけでした。トランプゲームをして遊びました。僕は、トランプが苦手だったので負けてしまいました。最後は、みんなが僕を勝たせてくれました。夜は五人で寝ました。一週間経つと、運動会がありました。障害物レースがありました。僕は一位になって、みんなに、
「一位なんて、すごいね。」
と言われました。その日をさかいに、僕はトランプなどのゲームによく誘われるようになりました。でも、僕の心は悲しくもなっていきました。施設を離れる日が近づいたからでした。最後の日の朝、僕は友達から、
「トランプしない?」
と、誘われました。
「するよ。」
と言って、僕はみんなと遊んでいました。窓の外を見ると、僕の母が来ていました。母の顔を見たとき、僕はうれしくなりました。養護施設の人に、
「もう来たから、帰る用意してね。」
と言われました。一階に下りて、母に会いました。養護施設の人に、
「ありがとうございました。」
と、お礼を言いました。それから、自分の家に帰りました。
初めてお世話になった家
 四年生になり、母の腰がまた悪くなりました。今度は、施設ではなく普通の家に預かってもらうことになりました。その家の人は、社長さんでした。家族は、社長さんとその奥さんの二人だけでした。やはり僕と姉の二人で、そこの家に預かってもらうことになりました。土曜日や日曜日になると、社長さんが運転をして、ドライブを楽しみました。アスレチックや遊園地などに連れていってもらいました。行けば必ず、食事をしておみやげなどを買ってくれました。
 僕は、社長さんの工場に行きました。そこで、車に積んである荷物を下ろしたり、運んだりしました。一回に二時間くらい働きました。終わると、近くのデパートに連れて行ってくれました。そこで、ジュースやアイスを買ってくれました。また、誕生日には、ケーキと飲み物を用意してくれました。誕生日プレゼントも買ってくれました。プレゼントは、熊の人形でした。その熊は、洋服を着ていて、サラリーマンみたいなかっこうをしていました。今でも、大事に机の上に飾ってあります。その人形を見ると、その人たちと過ごした一ヶ月のことを思い出します。
 この一ヶ月間は、社長さんの家から堤小学校まで、バスで通っていました。二回バスに乗り換えて登校しました。一時間くらいかかりました。とても親切にされたので、別れるときは悲しかったです。
 母が、その家に迎えに来てくれました。社長さんの奥さんが、僕たち三人を、
「車で家まで送ってあげたら。」
と言ってくれました。奥さんも一緒に、車に乗って送ってくれました。家に着いた時、僕は、泣きながらその人たちに、
「一ヶ月、預かってくれて、ありがとうございました。」
と、お礼の言葉を姉と二人で言いました。奥さんは姉を抱きしめ、社長さんは僕を抱きしめてくれました。社長さんたちも泣きながらお別れしました。
 僕は、この六年間に多くの人に親切にしてもらい、お世話になりました。大人になったら、その人たちに、お礼のあいさつをしに行きたいです。そして、母親にも親孝行をしたいと思います。
 もうじき卒業していきます。感謝の心を忘れないようにして暮らしていきます。

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional