子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月1日(木)村田榮一さんの訃報

3月1日(木)村田榮一さんの訃報

「教育評論家の村田栄一(むらた・えいいち)氏が1月21日、急性心不全のため死去した。76歳。」次の日の朝刊で顔写真入りで、各紙が報道していた。その日は、理論研究会があり、そこで知らされて新聞の記事を読んだ。年を見て改めて驚いた。何しろ、村田さんのことを知るようになったのは、教師になった頃だったから、40年以上前になる。神奈川の小学校の教師で、学級通信を個性豊かに出している教師がいると言うことを知った。やがて、その学級通信が1冊の本になり、本屋に並んでいた。「飛び出せちびっ子」という題名である。その本を最初に紹介してくれたのが、今はなき同僚の鈴木宏達さんだった。やがてその本が、装丁を変え内容も充実させて、他の出版社から出された。通信の題名が「ガリバー」と言った。その本を手に入れ、一気に読んだ。なんというユニークな通信だろうと、感動したものだった。通信の初めには、村田さん自身が感動した詩や格言のようなものが載せてある。
 その本の中に、国分一太郎さんが、村田榮一さんにエールを送っている文章がある。
「昨年4月から今年の3月まで受け持った小学1年生の家庭当てに、「ガリバー」と題して発行したガリ版刷りの学級通信、第1号から50号までの全部を、その順序通りにまとめて1本にしたのである。(途中略)たとえば第1号の『子どもは1冊の本である/その本から/われわれはなにかを読み取り/その本に/われわれは/何かを書きこんで/いかねばならぬ。(ペーター・ローゼッカー・周郷博訳)』を引用して、“子どもという読み応えのある本”から“読みとる”ことを忘れてはならぬと自壊したのち、『1年生の心に“書きこむ”仕事ほど恐ろしい、そしてやりがいのある厳粛なことはないと思います。しかも、その仕事は、親と教師の共同作業です。』(以下省略)」
 やがて、このことがきっかけとなり、村田さんは、国分さんに、新たに本を出版するときに、推薦の文章を頼んでいる。やがて月日が流れ、国分さんが晩年『国分一太郎文集』という本を10巻発行した。その中だと思うが、村田さんが国分さんの人柄に触れて書いている。「ボクラ少国民」シリーズの山中恒さんと村田さんが2人で酒を飲んだ折に、国分さんの家に急に行きたくなり、夜も遅く突然訪れた。すると、国分さんは、2人をにこやかに迎えて、おいしく酒を飲んだという話である。
 村田さんが活躍したのは、1960年代から始まっている。名前を知るようになるのは、1970年代である。教科書の杉本判決が出て、検定の違憲性があきらかにされた。九州福岡の伝習館闘争や千葉県の三里塚少年行動隊、群馬県の君が代斉唱の時に回れ右をさせた小作貞孝さんが、懲戒免職になった。いわば、日教組が権力と最も激しく戦っていた時代である。
 やがて村田さんのまねをして、最初に心に残る詩を掲げ、その後子供らとの教室風景を学級通信で発行したことがあった。村田さんほど立派なものではなかったけど、いつも通信を作るときには、『ガリバー』を時々めくっていたことが懐かしい。
 村田さんには、豊島区教職員組合執行委員をしていたときに、教育研究集会記念講演を依頼しに行った。快く引き受けてくださった。当日は、会が終わったあとも、懇親会に顔を出してくださり、おいしいお酒を飲んだ。村田さん安らかにお眠りください。合掌。

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