子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月10日(月)69年目の東京大空襲

3月10日(月)69年目の東京大空襲

10年間通った思い出の学校

 毎年、3月10日になると、必ず朝日新聞の「声」の欄に投稿する人がいる。早乙女勝元さんである。この方は、やがて大人になってから、墨田区の事務職員で一時仕事をされていたようだ。この方の「東京大空襲」という絵本を何度子どもたちに読んで聞かせたか。やがて、日本作文の会の全国大会(京都)で、記念講演を聴き、静かな語りの中にも「戦争憎し」という気持ちが伝わってきた。あの大空襲が起きて、今年で69年目の年を迎える。自分が勤めていた小学校42年間のうち、35年間が墨田区であった。その関係で、東京大空襲に関する情報が様々なところから吸収することができた。一日の空襲で、10万人の人々が命を落とした。最初に勤めた小梅小学校の近くに言問橋がある。私は、その橋を通って、10年間浅草駅からおりて通った。言問橋のはしが、いつも油まみれになっていたことをよく覚えている。後で聞くと、その大空襲の時の人間の死体が焼け焦げた時の跡だとしばらく経ってから聞いた。今は、その橋も新しくかわり、当時の生々しさは何も残っていない。その言問橋の上で、台東区側からと墨田区側から逃げてきた人が、ぶつかり合い身動きできずに、大勢の人々が焼け死んだ。その橋の上から、隅田川に飛び込んで助かった人もいた。しかし、その大半は、水の冷たさなどで、生き残った人は、少なかったに違いない。そんな痛ましいところが、転勤した最初の学校であった。

48才になった子どもたち

 今から39年前のことであった。その時に最初に教えた子どもたちが、ついこの間、クラス会を開いてくれた。ちょうど二十才違いであったので、今年49才になる子どもたちであった。みんないいおじさんおばさんになっていた。この子どもたちの両親は、戦争体験者が結構おられた。そこで、戦争の聞き書きを始めた。これが、「平和教育」の出発であった。クラス会では、そのことが話題になり、飯村晃一さんは、あのときに父親から聞いた戦争体験の話が、妹さんの子供さんに読まれて、引き継がれているといううれしい話を伺った。飯村さんのお父様は、志願兵で東南アジアで厳しい戦いの様子を、6年生であった息子に語って聞かせている。飯村君は、それを克明にメモをとり、「ひとまとまりの聞きがき文」としてまとめてくれた。今でも、私の分厚い文集の中に残っている。このときは、全員の子どもたちが、聞き書きをし、貴重な作品集として、載っている。
 3月9日の朝日の「声」の欄に投稿された早乙女さんの文を載せておく。

戦災跡にそびえるスカイツリー 作家 早乙女勝元(東京都81)

 また、あの日がやってくる。1945年3月10日未明、300機もの米国の爆撃機B29による無差別爆撃で東京は「炎の夜」となった。下町地区は全滅に近く、100万人が家を焼け出され、10万人もの生命が絶たれた。
 犠牲者は、男たちを戦場に送った留守家族が主だった。その数時間前まで、灯火管制による薄暗い照明の下、乏しい食糧を分かちあったり語り合ったりしていた一人ひとりに、生活と人格があったことを忘れてはならない。
 今、その被災地に屹立(きつりつ)するのが観光客が集中する東京スカイツリーであり、そこから少し南には民立民営の「東京大空襲・戦災資料センター」(東京都江東区北砂)がある。空襲の惨劇を語り継ぐ学びの場だ。
 戦争・空襲の歴史は二度と繰り返してはならない。それには戦争で民間人がどうなったかを知ること、学ぶことが不可欠だ。次世代への確かな平和継承のため、スカイツリー見学を兼ねてでも、センターを大いに活用して欲しい。

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