子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月2日(月)朝鮮民主主義共和国の旅

3月2日(月)朝鮮民主主義共和国の旅

 昨年の夏に、久しぶりに外国旅行を楽しんだ。その国は、戦後70年たった今でも、国交が回復せず、自由に行き来できない国である。日本では、拉致のことばかり、時々放送している。確かに拉致はいけないことだし、許せる行為ではない。人々のくらしは、栄養失調の映像が時々流されている。そんな国なのだろうか。自分の目で確かめたくなり、今回の旅行に参加することになった。

朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)への初めての旅

 1年前から、お誘いを受けていた、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮・以後共和国とする)への訪問をすることになった。10日前に、説明会を、浦和駅の近くのコミュニティセンターまで出かけた。そこに出かけて、この組織が「日朝友好連帯埼玉県民会議」ということは知っていたが、どんな人たちが参加するのかと興味津々であった。今回で、会としては、6回目であるということも、あらかじめ送られてきたメールで知っていた。その日は、いろいろの都合で、全員は、、そろわなかった。自己紹介をしていくうちに、現職の高校の教師がいることもわかった。日教組系の埼玉高教組の人たちである。1時間近くの説明の後、交流会を近くの酒場で開き、打ち解けた雰囲気でその日は帰ってきた。

優しい眼差しの事務局長

 8月20(水)から27日(火)までの6泊7日の旅だった。朝鮮総連の埼玉県本部の副委員長金一宇(キムイル)さんを含めて、10人のメンバーだった。団長は、日森文尋さんで、元社民党衆議院議員をされた方。事務局長は、島田和彦さんという方。私立の大学を卒業された後、埼玉大学の鎌倉孝夫さんのゼミに惚れて、2年間みっちり勉強されたという方だった。埼玉県の高校の社会科教師をされている。金計算の大変速い方で、何でも相談してくれる頼れる人で、事務局長にふさわしい方であった。あごの周りに立派なひげを蓄えておられ、ギリシャの哲学者の誰かに似ている。大学では、哲学を専攻されたとのことだ。

いよいよ出発(第1日目)

 当日の朝は、9時10分発の北京行きの日本航空に間に合わせるために、2時間前の集合だった。10人全員そろい、いよいよ出発だ。共和国とは、日本を含めて、大韓民国、日本、アメリカ合衆国、イスラエル、フランスなどが、国家承認していない。そのため、直接平壌(ピョンヤン)には、直行便がないために、一度中国の北京空港まで行き、ホテルで1泊し、次の日に中国の朝鮮大使館に出向き、そこでビザを発注してもらい、再び飛行機に乗り継いで、平壌まで行くのだ。東京から、直接平壌まで行くなら、沖縄よりはるかに近く、2時間はかからないだろう。近くて遠い国を最初に感じたときだった。ちなみに国交のある国は162か国である。世界のほとんどの国が、国交回復し、自由に行き来している。事実、今回の旅の途中で、ヨーロッパからも、多くの人が旅を楽しんでいた。

北京空港に降り立ち

 北京について、宿舎に入った後に、時間があったので、近くを散歩することになった。飛行場に降り立ったときに感じたのが、空気が淀んでいることだった。北京や上海が大気汚染で、大変だというニュースは、事前に知っていたが、のどが気のせいかおかしく感じてもいた。他の方も、同じことを言っていた。高い近代的な建物が郡立する中に、昔の古い建物も一部同居していた。ここは、人が住んでいないだろうという古ぼけた廃屋に近い所にも、人が住んでいた。路地裏まで何人かで入っていくと、甲高い女の人の声だった。その狭い路地で、粗末な机を台にして、小学生らしい子どもに勉強を教えていた。子どもの顔を見ると、今にも泣きそうな悲しい顔をしながら、母親らしき人の怒鳴り声に耐えていた。暑い日だったので、上半身裸で、暇そうにしている老人の姿も結構見られた。空き缶を潰して、大きな袋に詰め込んでいる人もいた。日本でも、こういう人は、その缶をある所にもっていき金に換えているという話を聞いたことがある。どんなシステムかはわからないが、必死に生きている人に見受けられた。

果物は、安くおいしかった

 果物がたくさん並んでいる八百屋があった。路上にもはみ出るくらい様々な果物が並んでいた。スイカや桃が最盛期らしく、色とりどりに並んであった。墨田教組で世話になった雁部女史が、我々の分も入れて、結構おいしそうな桃を4つほど買い込んでくれた。値段を聞いて驚いた。1箇70円位なので。日本で買ったら、間違いなく250から300円はするであろう。1箇頂いて、宿舎で冷やして食べた、甘くて本当においしかった。北京には、1ヶ月近く雨が降っていなかったので、道は道路工事の関係もあり、ほこりっぽかった。

平壌へ向かう前に(第2日目)

 ビザをもらために、ホテルを朝の8時に出発した。マイクロバスで、朝鮮大使館に向かった。ふだんは、50分程度で着くところ、実際1時間半以上かかってしまった。行くところすべてが交通渋滞だった。道路が交差して、2重になっている下の道路が見えた。ものすごい数の車が、ぎっしり並んでいた。1970年代に日本も、高度経済成長の頃で、四日市ぜんそくや光科学スモッグで、日本中の空が汚れていた。歩道を歩いている人の中に、マスクをつけている人が何人かいた。ビザをもらい、再びマイクロバスで、北京空港に向かった。北京と日本は、1時間の時差がある。つまり、日本の方が、東側にあるので、1時間早い。共和国に入ると、日本の時刻と同じで、時差はないので、時計はそのままにして置いた。

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