子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

3月2日(月)朝鮮民主主義共和国の旅・その2

3月2日(月)朝鮮民主主義共和国の旅・その2

平壌到着

 高麗航空で、北京から平壌国際空港(順安空港)に向かった。空港に着くと、大変大きな空港であったが、まだ未開発な部分が多く、建設中の起重機などがいくつか見られた。パスポートを提出する場所に入ると、通訳の人が見えていた。今回の旅で、本当にお世話になった人たちである。平壌の外国語大学で、日本語を学んだ方々である。桂(ケイ)さん、呉(オウ)さんの男性と金(キム)さんの女性の3人が、わざわざ出迎えてくれた。薄暗い場所であった。後から聞くと、国全体で、節電をしていることがわかった。それは、火力発電の石油の輸入がそんなに多く入ってこないらしい。空港からホテルまで、1時間30分かけて宿舎に入る。窓から見えるものすべてに関心が広がって見ていた。高層の建物がたくさん並び、首都平壌は、共和国の中心にふさわしく発展していた。車が右側通行であることも、初めて、知る所になった。

万寿台に表敬訪問

 各部屋に別れて、少し休んでから、正装して万寿台に表敬訪問に出かけた。建物の中に入ると、金日成(キミルソン)主席と金成日(キンジョンビル)の肖像が並んで掲げられていた。並んでいたテーブルに着くと、歓迎のあいさつが行われた。最初のあいさつは、パンフォナム副委員長が朝鮮語ではじめた。通訳の桂(ケイ)さんが、そのつど日本語であいさつを訳してくれた。後から聞くと、パンフォナムさんは、小泉総理大臣が訪朝したときの共和国側の通訳をされた方で、金成日(キンジョンビル)主席の隣りにいた方だと知って驚いた。日本に戻ってから、その時のビデオが流されるので、見ていたら、確かに、10年前の若々しいパンフォナムさんが映っていた。
 日本側の代表あいさつは、日森文尋さんが行った。日朝県民会議副議長をされており、何度か訪朝もしておられるので、含蓄のあるあいさつであった。その後、別の場所に移り、食事をともにして過ごした。乾杯は、ビールであった。日本のビールよりおいしく感じた。中国の瀋陽がドイツの植民地だった頃、ビールの製造方法を学び、その方法を取り入れているとのことであった。コクとキレがあり、どこでもそのビールを味わった。日本側から一人ひとり自己紹介をした。私は、豊島区時代に、豊島の総連の委員長にチュチェ思想を、毎月講義していただいたことを中心に話した。1972年金日成(キミルソン)主席の60才の誕生日のときに、その時に学習に参加していたメンバーで、主席のお祝いのメッセージを書いて送った記憶があることも話した。出された食事が大変おいしく、日本にはない料理ばかりであった。

平壌市内観光巡り(第3日目)

 市内観光巡りにマイクロバスで出発した。通訳の桂(ケイ)さん、呉(オウ)さんの男性と金(キム)さんの女性の3人が一緒に同乗してくれた。最初に金日成(キミルソン)主席の生まれた家がある万景台生家を訪れた。平壌の中心部から12㎞のところに位置している。故・金日成主席が誕生し14才までを過ごしたところで、生家が保存されている。当時の一般的な農家の家である。敷地内は公園となっていて、春には草花が咲き乱れる自然豊かな場所だ。故・金日成氏は14歳の時に(1925年)、朝鮮の解放を志しこの家を出た。1945年8月15日革命に勝利し、故郷に戻ると、父も母も革命で倒れていた。父は、当時の日本帝国主義者に2度捕まり、厳しい拷問で、31才で命を落としている。母も、反日抵抗運動を中国東北部で行い、32才の若さでなくなっている。おじさんも、31才で、弟も19才で亡くなっている。この解説を、そこの解説員のチマチョゴリを来た女性に解説していただいた。もちろん通訳は、女性の金さんがしてくれた。案内をして下さる方は、どこに行っても美しい人が多かった。

チュチュエ思想で学ぶ公共図書館

 公共の図書館を見学した。それほど明るくない大きなホールで、たくさんの学生が、ノートに書物の内容を書き込んでいたりしていた。中には、パソコンで調べたい種類の書物を検索したものを、係りの所に持っていきその本を借りたりしている人もいた。また、何人かの大学の専門の人が常駐していて、そこに自分でさらに追求したいものを講義もしてくれていた。このような場所を案内してくれる、若い女性の方は、ていねいに説明してくれた。その内容を、通訳の人が、説明を日本語に訳してくれる。我々に説明してくれたその方は、外国大学でロシア語を専攻して卒業したと話していた。

冷麺がおいしかった

 昼食をとりに、近くの王流宮の食堂に向かった。そこで冷麺を食べることになった。前から、雁部さんに共和国の冷麺は、本当においしいと聞いていたので、どんな味なのか楽しみであった。具のたくさんあるのを注文した。食べ方を通訳の方が教えてくれた。よくかき混ぜて、その後に酢を少し垂らし、辛子を入れることも教わった。その冷麺の面は、ジャガイモを原料にして作られたものらしい。食してみて、本当においしかった。

金剛山登山までの道のり

 平壌の宿舎から、金剛山まで東京から名古屋に行く距離と聞いていた。日本の高速道路で考えれば、3時間ちょっとあれば着くが、道路状況が大変悪いので、その倍はかかるだろうとのことであった。石油エネルギーが不足していて、様々なところで、厳しい状況になっている。道路そのものも、アスファルト舗装ができないので、いわゆるコンクリート舗装である。そのため、でこぼこ道が多く、マイクロバスの中は、大変であった。平壌国際空港が薄暗いのは、節電のせいであると書いたが、途中で休憩するトイレなどは、粗末なものが多かった。時々窓から見える農村風景は、日本と変わらない。日本の水田と違って、籾を直接直播きするらしく、びっしり密集している感じである。たくさんの収量を目指すので、そうするらしい。水田以外では、トウモロコシが結構至るところに植えられていた。我々が行く前は、日照りで収穫も厳しかったようだが、まあまあ雨も降り、何とか今年は豊作のように見えた。時々車窓から見える農村の人々の姿を見ることができた。平壌で暮らす人々の服装は、結構色鮮やかな服装が見られたが、農村部は、地味な服装であった。すれ違う子どもの姿も、時々見えたが、日本で報道しているような光景はどこにも見られなかった。まあ、よく歩く国民という印象である。牛に荷物を運ばせる荷車に、時々出会った。日本の1950年代の景色である。すれ違うトラックに、たくさんの人々が、乗っているのも見られた。何をしに行くのか分からなかったが、とにかくはみ出るくらいにぎっしりと乗っていて、見ているこちらが冷や冷やする。時々、子どもも、同じように、ぎっしり乗っていた。日本では、考えられない、乗せ方である。ホテルに着いたのが、夕方であった。宿舎近くに、温泉があるというので、そこに行き、一日の疲れをとった。日本の温泉と変わりはなく、湯加減も、まあまあだった。宿舎に戻り、夕飯をとることにした。いつも食事前は、ビールで乾杯だった。ウエイトレスの人が必ず何人かいて、食事のサービスをしてくれた。どこでも、美人の人が多かった。食欲も自然に増した。

金剛山登山

 金剛山(こんごうさん、クムガンさん)は、太白山脈に属する朝鮮民主主義人民共和国( 北朝鮮)江原道にある山。最高峰は毘盧峰で、標高1,638mである。古来朝鮮半島では 、白頭山と並ぶ名山とされてきた。このように説明がネットで調べると書いてあった。頂上に行くには、いろいろなコースがあるが、途中の一番簡単な登山コースに登ることにした。山登りは久しぶりであったので、最初の30分がきつかった。80才の元社民党の山本さんに「無理しないで。」などと励ましの言葉をかけられた。よっぽど厳しく見えたのだろう。しかし、だんだん慣れてくると、リズムがとれて、何とか頂上まで登ることができた。全員が登ることができた。集合写真を撮り、少し休んでから、すぐに下山することになった。帰りは、意外と軽やかに下山できた。最初にゴールした。最後の人が来るまでに、30分近く待っていた。何とか無事に全員到着で、昼食になった。ビールで乾杯して、おいしくキムチ料理をつまんだ。1時間くらい時間をとり、再び平壌へのホテルに向かってマイクロバスに乗り込んだ。

平壌ホテルまでの道のり

 3時近くの出発であった。来るときと同じ道を通って帰路に向かった。さすがに山登りもしたので、みんな疲れていたのか、眠っている人が多かった。わたしもその中の一人であった。途中で目が覚めたときには、少し薄暗くなりかけていた。車窓から見える景色を、しばし楽しんだ。時々道路を歩いている人の姿が見えた。子どもだけで歩いている子も何人かいた。周りの景色は、田んぼ・畑などがほとんどであった。やがて薄暗くなり、外の景色はほとんど見られなくなった。街灯がほとんどついていないので、真っ暗な夜道を走っている。そんな真っ暗な夜道を、歩いている人の姿に時々出会った。それも、真っ暗な道を黙々と歩く姿だった。「こんな暗闇を、一人で歩いていても危険ではないのですか。」と思わず通訳の人に聞いてしまった。「大丈夫です。安全だから、このようにして夜道でも歩いているんですよ。」という説明であった。本当によく歩く国民である。歩くことを、国が勧めていると言うことも説明してくれた。宿舎に着いたときには、夜の8時過ぎであった。宿舎に戻ると、すぐに近くの食堂に夕飯を食べに行った。そこは、一緒に随行してくれた総連の金さんのお姉さんが経営している朝鮮料理屋であった。日本語の達者な金さんのお姉さんが歓迎してくれた。聞くところによると、浦和に本店があり、そこで朝鮮料理を経営しているとのことであった。その日は、金さんの誕生日であったので、大きな誕生ケーキが並んでいた。みんなで、金さんの誕生を祝いながら、乾杯して、豪華な朝鮮料理を楽しんだ。

朝鮮でのカラオケ体験

 旅の最後の日の夜、総連の金さんのお姉さんのお店を出るときに、カラオケに行きたい者と宿舎に戻る者とに別れた。山登りから帰った日でもあったので、疲れてはいたが、せっかくのお誘いだったので、行くことにした。通訳の3人の方は、みんな参加するとのことだった。一緒に行く人は、金さん、日森さん、80才の山本さん、写真班の高校教師根岸さん、事務局の高校教師嶋田さんと私の6人で、合計9人だった。日本のカラオケとどう違うのかということも興味があった。中に入ると、朝鮮のすてきな女性5人くらいが、歓迎の歌を歌って我々を迎えてくれた。3曲くらい歌ったあとに、今度は一緒に踊りましょうと、何人かが楽しそうに手をつなぎながら踊り始めた。そのうちに日本の歌を誰かが歌い出した。私も興に乗ってきて、森進一の襟裳岬を選んで歌った。すてきな女性たちが、その歌を盛り上げるようにして、増加の花束をプレゼントしてくれた。歌いながら、気持ち良いものだと感じて最後まで歌った。やがて、他の人も、気持ちよさそうにそれぞれの好きな歌を歌い出した。すると、一緒に踊りましょうと、何人かが踊り出した。私もその中で、一番すてきな人をご指名して踊ることにした。踊りも結構なれていて、気落ちよく踊れた。みんなも酔いが回ってきて、みんな立ち上がって踊りながら盛り上がっていった。私もその中の一人である。その中で、通訳の人も日本の歌を選んで歌ってくれた。その中で、さだまさしの関白宣言を歌った桂さんの歌い方には、みんなほれぼれして聞いていた。本当にうまかった。この桂さんは、今、拉致問題を中心に日本と交渉している朝鮮の宋日昊(ソンイルホ)主席代表の隣りにいて、通訳をされている。日本に帰ってきてテレビを見ていたら、たしかに桂さんが隣りにいることが分かった。通訳の方は、みんな歌がうまかった。私は、最後に松山千春の長い夜を選んで歌い出した。歌っている途中に、桂さんがマイクを持って一緒に楽しそうに歌ってくれた。最後の「長い夜を飛び越えてみたい。おまえだけにこの愛を誓う。星降る夜に誘われて とまどう二人」のところで、互いに手を取り合って感動的に歌った。よっぽど楽しかったのだろう。私も、思う存分楽しめた。

百聞は一見にしかず

 昔から、自分の目で確かめることの大切さが言われているが、たった1週間の旅であったが、たくさんの事実を自分の目で確かめることが出来た。写真も自由にとって構わないと言われたので、たくさんとることが出来た。ただし、軍事施設と空港の中は、やめてほしいと事前に言われていた。人々の暮らしぶりを直接見てみたいので、農村部も自由にこちらの要望を受け入れまわることが出来た。もちろん共和国の側がどうしても観てもらいたい施設も何カ所かあった。しかし、こちら側の要求をかなり受け入れて、見学することが出来た。羽田空港の税関にきたときに、かなり厳しく鞄の中をチェックされて、共和国で手に入れた化粧品を没収されそうになった。向こうの知り合いの人から頂いた者だと説明し、30分以上の押し問答を終えて、通過した。最後のところで、不愉快な気分になってしまった。

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