子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月4日(金)サクラ満開の今

4月4日(金)サクラ満開の今

 新卒のときに、1年先輩の尊敬する女性活動家の方から、時々貴重なメールが届く。今回は、下記のようなメールが届いた。
「よかった、ではすまない。袴田判決のまさに前日には、仙台北陵クリニック筋弛緩剤注射事件の守大介さんの再審開始が棄却され、その前には名張ぶどう酒事件の奥西さんは再審開始がでたのに特別抗告され、棄却され、石川一雄さんをはじめ冤罪のままのかたはいっぱいいるのですから。そして立派な手紙を書かれていた袴田さんの解放後の痛々しい姿、、、。
それにしてもボクシング業界はすごい!です。組織を挙げて支援活動していた。私が行っている市民講座には「冤罪」とか「裁判」とかいうテーマの時に、ずば抜けて体が大きく、だけど頭が変形(デコボコ)している若者たちが「袴田さんのことをわかるために冤罪はどうして起きるか、勉強してこい、と協会から言われてこういうのがあると勉強サセラレています」と、参加している。「頭よくないから分かったどうかもわからないけど」といいながら質問していました。
今回も静岡地裁前には輪島の顔があったけど、死刑関係の集会では原田・八重樫さんたちの顔を見かけることができました。ボクシングの世界タイトル戦のときは「君が代」が相手国国歌とともに必ずあるけれど、偉いことはえらいといいたい。どの組織でも出来ることではないから。

1967(昭和42)年2月 母への手紙から 

お母さん、僕の憎い奴は、僕を正常でない状態にして犯人に作り上げようとした奴です。神さま―。僕は犯人ではありません。僕は毎日叫んでいます。ここ静岡の風に乗って世間の人々の耳に届くことをただひたすらに祈って僕は叫ぶ。お母さん。人生とは七転八起とか申します。最後に笑う人が勝つとか申します。又、皆さんと笑って話すときが絶対きます。

1973(昭和48)年1月26日 兄への手紙から

私も冤罪ながら死刑囚。全身にしみわたって来る悲しみにたえつつ、生きなければならない。そして死刑執行という未知のものに対するはてしない恐怖が、私の心をたとえようもなく冷たくする時がある。そして全身が冬の木枯におそわれたように、身をふるわせるのである。自分の五感さえ信じられないほどの恐ろしい瞬間があるのだ。しかし、私は勝つのだ。私は、今日、自分の生活に対する決意と行為が、一つなりとも卵を持って石に投げつけるに等しい無謀なものだとは思わない。

1980(昭和55)年1月 ボクシング評論家郡司信夫氏への手紙から

今、私は、先生に真実を訴えたくてこの手紙を認めております。小生は現在、濡れ衣を着せられて東京拘置所に捕らえられております。一、二審において、満腔の怒りをこめて権力犯罪を糾弾すると共に、一応の真実――正真正銘「小生は無実である」ことを訴えてきました。それは、文字通り小生の血叫びでありました。しかしこの真実である血叫びが過去十三年余にわたり未だに容れられません。この司法の無責任さに、小生怒りで肌があわだつ思いです。

1980(昭和55)年2月 息子さんへの手紙から

「殺しても病気で死んだと報告すればそれまでだ」
といっておどし罵声をあびせ棍棒で殴った。そして、連日二人一組になり三人一組のときもあった。午前、午後、晩から一一時、引続いて午前二時まで交替で蹴ったり殴った。それが取調べであった。
息子よ、……必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし 、 一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。チャンはこの鉄鎖を断ち切ってお前のいる所に帰っていくよ。
★袴田事件で再審開始が認められたのを受け、元プロボクサー袴田巌死刑囚(78)を支援していたボクシング関係者は「KO勝ちの気分だ」と喜びを爆発させた。
1979年 - ルポライターの高杉晋吾が事件の冤罪性を指摘した記事を『現代の眼』に掲載し、死刑確定後に支援組織「無実のプロボクサー袴田巌を救う会」(後に「無実の死刑囚・元プロボクサー袴田巖さんを救う会」)を設立する。
1991年3月11日 - 日本プロボクシング協会(JPBA)の原田政彦会長(=ファイティング原田)が、後楽園ホールのリング上から再審開始を訴え、正式に袴田の支援を表明する。
2006年5月 - 東日本ボクシング協会が会長輪島功一を委員長、理事新田渉世を実行委員長とする「袴田巌再審支援委員会」を設立する。同委員会はボクシングの試合会場(後楽園ホールなど)で袴田の親族、弁護団所属の弁護士や救援会関係者らとともにリング上から早期再審開始を訴えたほか、東京拘置所への面会やボクシング雑誌の差入れなどを行った。
2006年11月20日 - 輪島を始め5名の元ボクシング世界チャンピオンらが、早期再審開始を訴える約500筆の要請書を最高裁に提出する。」こんなメールが届いた。読んでいて、検察官や裁判官の無責任に腹が立つ。

釈放された次の日の天声人語の記事を載せておく。

 よく知られる冤罪(えんざい)事件に「徳島ラジオ商殺し」がある。事件を丹念に調べた作家、故・開高健さんの言葉を、かつての小欄が引用している。「事件を調べていると、この国では一度トゲにひっかかったらもう最後だと思わせられた」と▼いったん「犯人」と見られたら最後、もがけど叫べど晴らすことは至難になる。「夫殺し」で懲役刑に服した富士茂子さんの再審が決まったのは、69歳で他界した後だった。人生の時間を容赦なく吸い取り、極刑なら人生に終止符さえ打ちかねない。無実の罪の罪は深い▼1966年6月30日の未明、静岡県で一家4人が殺された。その夜、東京ではビートルズの日本公演があった。袴田巌(いわお)さん(78)が獄中で送った歳月は、48年におよぶ▼無実を叫びつつ、死刑の執行は今日か、明日かとおびえる中で精神を病んでいったとも聞く。矛盾の多い証拠は捏造(ねつぞう)の疑いが持たれていた。再審開始を認める静岡地裁の決定は、むしろ遅すぎた▼ラジオ商事件の富士さんは、獄中でこう書いている。「検事が人間であった事に一番驚いた。逮捕前まで神様のように思っていたからだ」。人間であるからには、誤りも過ちも、あるいは故意もあるかもしれない。検察は面子(メンツ)で再審の扉を閉めに走ってはいけない▼袴田さんは元プロボクサーだった。支援してきた元世界王者の輪島功一さん(70)は「やったという感じ。15ラウンド最後のゴングだ」と喜んだ。ボクシングなら戦いすんで、確かな判定を待つのみである。 3/28(金) 天声人語

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