子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

9月15日(月)東京の子を読む。その1

9月15日(月)東京の子を読む。その1

 わたしの手元に「東京の子」40集がある。毎年東京の中で生まれた散文や詩を、編集委員が中心となって、選び選評をつけて載せている。わたしもそのメンバーの一人で、この間15年位は関わっている。今回は、各サークルで、テーマを分析し作品を選んだ。40週目の節目であったので、応募数が例年より多かったが、年々減ってきている。なんと言っても、教科書から、作文という言葉がなくなったことが多い。

「東京の子」40集を読む  

★文詩集「東京の子」はいつ、どうして 中川 暁(中野作文の会)を読んで P96~
「東京の子」の編集を通じて、この仕事に関わった人たちの歴史が、一目でわかる貴重な記録である。「作文と教育」の編集長を本間繁輝さんの前に、10年間された方だけあって、きちんと資料に裏付けられた貴重な記録である。
 1950年代に多摩地区の南郡作文研究会や八南作文の会、区部で「えびがに会」などがあった。なお、豊島作文の会創世紀の頃の中川忠子さん(現在静岡在住)は、豊島の前は、「えびがに会」に所属されていた。その後、東京(23区)作文の会は、1965年に発足。事務局の名前に懐かしい名前が書かれている(関口敏雄・松沢竹夫・中川暁)。1969年に第19回作文教育全国大会(東京の九段会館・一橋高校)が開かれた。このときは、豊島と太田の作文の会が、宿泊係りを今のように業者でなく担当を受け持った。新卒2年目の年だった。1970年に東京作文教育研究集会が開かれた。この大会に合わせて作られたのが、「東京の子」第1集であった。その時の応募した指導者の名前13名の名前も懐かしい。佐藤保子さんが、旧姓で載っている。歴史を感じる。
 1971年第1回「作文教育研究大会」が、2日間中野区の野方小で行われて700名の参加者。私もその中の一人であった。東京に18の作文のサークルができた。豊島作文の会もその中の一つである。「東京の子」第2集のあとがきの編集委員の名前も懐かしい。桐山久吉さんは、北多摩、村山文子さんは豊島作文の会の代表になっている。村山さんは、大須賀敬子さん(池袋第三小)と一緒に豊島作文の会を作った方である。池袋第一小に勤めておられた。旦那さんは、百合出版の事務局で仕事をされていた。村山士郎さんのお兄さんで村山惇さんである。やがて独立して、「駒草出版」を起こし、「作文教育実践講座」15巻作った。私もその中に何編か作品を載せていただいた。日本作文の会、黄金期の時代だ。あと、「東京の子」が毎年その後、出ていると考えていたら、最初は、毎年でもなかったということは、初めて知るところになった。

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