子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

1月12日(木)豊島作文の会の提案その5

1月12日(木)豊島作文の会の提案その5

あまり聞きたくなかった 4年女子  Y・K 

 二月十七日に、人権集会がありました。一年生から六年生までの人の作文で、えらばれた一人一人が読む集会でした。私が聞きたくなかったのは、六年生のKさんの作文でした。六年生の作文は、母がいないことの作文でした。私も父がいません。ようちえんの時からです。私は、楽しいことを考えて、六年生のかいとさんの作文を聞かないようにしましたが、父のことを思い出してしまいました。六年生のひとは、母がいないことですが、私は、父がいないのです。ようちえんの行事で、母の日や父の日がありました。母の日は、ようちえんで、私たちのいろいろなお母さんたちが、来てくれるぎょうじです。母の日の時は、母が来てくれました。父の日は、ようちえんを休んでいました。なぜなら、父がいないからです。私だけいないのは、とてもつらいからです。ようちえんは、年少、年中、年長があって、私は、年中からようちえんに入っていました。年中の時は、母の日は行きましたが、もう年長になってからは、母の日も父の日も、ようちえんを休みました。母が、
「今日は、母の日だけど、父の日も行かないよ。一人だけお父さんがいないのは、いや でしょ。」
と言われたのは、今でもずっとおぼえています。年中の時、母のと父のための手紙みたいのを作る時がありました。私は、少しかなしくなりました。母の手紙の用紙は、ピンクで、父の手紙の用紙は、青でした。私の父は、青が大好きでした。私は、父がいませんが、六年生のかいとさんは、母がいないと聞いて、
(わたしよりつらいのかなあ。)
と思いました。母は、何でもやってくれます。でも、そんな母がいなくなるのは、つらいと思います。私もようちえんのそつえん式は、母だけでした。でも、母がいてくれただけで、私は、うれしかったです。そんなことをずっと思って、六年生の作文をきいていたら、六年生の作文は、終わってしまいました。こんな人権の作文は、聞きたくありませんでした。父は、よく高い高いという、上に高くなげてキャッチしてくれるのが大好きでした。私は、母がいます。だから、母をもっと大切に生活したいです。
 聞きたくないと言いながら、自分の過去を思い出している作者である。父にしてもらった、高い高いが大好きだったと書いている。

堤小に転校してきたのは 五年  男子 

 僕は、二年生の九月に堤小へ、長野県から転校して来ました。
 なぜ堤小に転校してきたかというと、長野県にいたときの事です。その時は、一年生になるちょっと前の月に、長野の県ないから引っ越しきました。それまでは、マンションに住んでいました。一軒家に、僕、妹、母、父の四人で暮らしていました。
 父は、その日くらいから様子が変でした。どこがおかしいかというと、怒ったり、ほめたりするする普通の人だったのに、その時から気が短くなりました。
 たとえば、母が作った食べ物に、髪が一本入っているだけで、
「なんで髪が入っているんだ!もうこんなの食べない。」
などと言って、その食べ物が入った皿を、床に投げつけて、皿を割ったたりしていました。
 僕は、いつも、
(なんでそんな事で、お皿を割ったりするんだろう?)
と、思っていました。それが日に日にひどくなってきました。
 僕は、ただ手がすべって、お皿を落としただけで、父に殴られる事もありました。 
一年生の終わりごろ、僕がまたお皿をテーブルから落としてしまった時は、もっとひどく、一時間正座させられた事もありました。
 その次の日、母が僕を呼び、話をしました。 その話の内容は、その時住んでいた家から僕と母と妹で、母の祖母(母と母)と祖父(母の父)が住んでいる東京に逃げるという事でした。
 僕は、学校の友達と別れるのが嫌だったので、
「嫌だ。」
と答えました。
 それから、二週間ほどたち父が、仕事でアメリカの、ニューヨークへ行った時、母のケータイに一通のメールがとどきました。
 その内容は父からで「今、飛行機に乗っています。」という事でした。そのメールを見て、僕と母と妹で、
「この飛行機、海に落ちてパパ死ねばいいのにね。」
となってほしい事を三人で言いました。
 しかしその飛行機は、海には落ちませんでした。母は、父が無事だったことをメールで知り、
「なんだよ!」
と言いました。 
 それから、僕は二年生になりました。父の気の短さは、またひどくなりました。ついに六月ごろ母は、僕に、
「もうこの家からを出よう。」
と言いました。ぼくは、
「友達と別れるんでしょ。」
と言いました。母は、
「ママは、もう限界だな。じゃあ一週間だけ東京へ、行って見よう。」
と言いました。僕は、
「うーん。わかった。」
と言いました。 
 祖母と祖父に連らくし、七月に東京に一週間行くことになりました。僕は、学校を一週間休みました。僕たちは、父に見つからないように東京へ行く準備をしました。なぜ父に見つからないようにするかというと、また父になんかやられるからです。東京へ行くとき祖父と祖母と長野の家の近くで、待ち合わせをし、その時間に家を出て、母が家で昼寝をしている父に、
「今から一週間、東京に行くから。」
と言い、二十秒くらい待ちました。父は、パンツ一っちょで、寝ているので外に出られませんでした。僕は、無言で祖母と祖父の所へ行き、タクシーで駅に向かいました。電車に乗って、東京駅に着きました。そこからまた電車にのって、鐘ヶ淵駅に着きました。そこから歩いて、祖母と祖父の住んでいる団地に行きました。
僕たちは、長野に戻った後の事を話しながら、そこで一週間いました。
 ついに長野に戻る時、僕は、
(帰りたくないなあ。)
と、思っていました。長野の家に着き、僕たちは家に入りました。すると母たちは、一階で話を始めました。僕と妹は、二階で遊んでいました。一時間くらいして、話しが終わると、父が僕に、
「豊!最近きっていなかった髪を切りに行こう!」
と言ってきました。僕は、
「行かない!。」
とは言えず、強引に、僕を車に乗せました。すると、父は、
「あっ!家のカギを忘れた!」
と言い、家に戻って行きました。
 一分くらいして母と祖母が来て、僕を車から降ろして、僕に、
「豊!なんで車に乗っているの?」
と聞きました。僕は、
「パパが、髪を切ろうって言って、車に乗せたの。」
と言いました。すると父が、
「何やってんだ!早く車に乗って、髪切りに行くぞ!」
と言いました。母は、
「何言ってんの!行くわけないじゃん。一週間、何でいなかったかわかってんの。」
と言うと、父は、
「はぁ~?お前こそ、なに言ってんの。」
と言い合いを始めてしまいました。しばらくすると、言い合いがとまり、母と父と祖母と祖父は、また話を始めました。しばらくすると、母が僕に、
「豊。もうパパと会えなくてもいい?」
と聞いてきました。僕は、
「うん。いいよ。」
と答えました。母は、
「学校変わるんだよ、わかってんの?」
と言いました。僕は、
「うん。わかってる。パパと離れられるなら。」
と言いました。母は、
「じゃあ、じいじ(母の父)と東京に行く。」と聞きました。僕は、
「うん。でもママたちは?」
と言いました。母は、
「パパともうちょっと話してから。たぶん明日には、帰るから。」
と言いました。僕は、
「わかった。」
と言い、一時間後。祖父の車に乗る時、母が、
「荷物は、トラックで来るから。」
と言いました。妹と母と祖母の三人は、残りました。僕は、
「うん。」
と言い、祖父二人で、東京に祖父の車で、行きました。
 その次の日、母たちが東京に来ました。僕は、
「パパともう別れたんだよね。」
と聞きました。母は、
「そうだよ。」
と言いました。僕は、ほっとしました。
 それから一週間たちました。母が、
「学校どこにする?」
と聞きました。僕は、
「なるべく近いところがいい。」
と言いました。すると、祖母が、
「堤がいいんじゃない?」
と言いました。母が、
「ああ、いいね。」
と言いました。ボクは、
「どこそこ?」
と聞きました。母が
「ママが通っていた小学校だよ。ここからすごく近いし、そこにしたら。」
と言いました。僕は、
「うん、いいね。」
と言いました。
 僕が転校する学校は、堤小学校に決まりました。そして僕は、堤小に行くことになったのです。

本音を書いた子どもたち

 父母のいさかいが原因で、離婚し母親と一緒に逃げるようにして東京の祖父母の元へ戻ってきた二人の兄妹。この時のことは、一生二人の心に刻まれているに違いない。
 このクラスは、1クラスの単学級(10人うち女子は1名)だった。唯一の女子で、母親をガンで亡くし父子家庭であった。この児童がいるおかげで、クラスが穏やかなこともあった。私が異動したときは、この子どもたちは一年生であった。その中の一人の児童の母親は、麻薬中毒患者で逮捕されて、入学式には、祖母が来ていた。そのために、学校は休みがちであった。担任が、毎日のように迎えに行き、学校に来ていた。心がすさんでいる子が多く、けんかが絶えなかった。

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