11月26日(土)満州開拓団の残酷
11月26日(土)満州開拓団の残酷
東京新聞の社説に、書きのような記事が載った。大事な記事であるので、載せることにした。
満蒙開拓の実相 “負の歴史”伝え続ける
長野県阿智(あち)村の満蒙(まんもう)開拓平和記念館を先週、天皇、皇后両陛下が訪問された。戦中、戦後と、苦難を強いられた開拓民の記憶を語り継ぐ場だ。“負の歴史”の実相をさらに多くの人に伝え続けたい。
記念館は、2013年4月にオープンした。
1932年、現中国東北部に建国された旧満州国へ渡った開拓民の苦難を伝えようと、その証言や資料を集めた全国で唯一の民間施設でもある。
今回の訪問は両陛下の希望で実現したといい、体験を語り継ぐ3人の引き揚げ者と懇談もした。
その語り部の一人、豊丘村の久保田諫(いさむ)さん(86)の葛藤をたどるだけでも筆舌に尽くしがたい。
約27万人とされる開拓民のうち、長野県からは最も多い3万3千人が送り出された。
だが、終戦間際のソ連軍侵攻と敗走中の惨劇の数々によって、帰国できたのは、同県でわずか1万7千人にすぎなかった。
敗戦直後、久保田さんの村の開拓団は、ほぼ女性と子どもだけ。現地の住民の略奪におびえ、逃げきれずに集団自決に走った。母が子をあやめ、親同士が「今度は私を」と続いた。まだ十五歳だった彼も、いやいやそれを手伝う。
七十余人が息絶えた。
彼ともう一人、男二人が残された。一緒に死のうと石を手に、気が遠のくまで額を殴り合ったが、結局、死にきれなかった。
懇談の後、天皇陛下は「こういう歴史があったことを経験のない人にしっかり伝えることは、とても大事なこと」と話した。
これまでも書いてきたが、何度でも書かねばならぬ。
開拓民は国策で渡ったが、開拓とは名ばかり。その多くは現地の人から取り上げた土地や家をあてがわれ、意識せずとも侵略の加担者になっていたことを。
今も残留孤児の支援さえおぼつかないのに、七十余年前と同じように前のめりになっている国のありようや、それに無頓着な空気の危うさが漂っていることも。
偽りの国策に踊らされた過ちを繰り返すまいという地元の熱意が実った記念館だ。
今月、修学旅行なども含めた来館者は10万人を超えたが、知名度は低かった。それが両陛下の来訪でひときわ脚光を浴びた。何より遠目に見ていた地元の人々の関心が高まった。
いわば“負の歴史”ともいえる当時の実相を、揺るがぬ資料や証言でもっと伝えていきたい。11月26日(土)東京新聞朝刊社説
長野県阿智(あち)村
中国残留孤児のきっかけを作った方が、この阿智村のお寺の住職である。たしか慈照寺というお寺である。そこの住職さんも、開拓団の一員として、満州に渡った。そこ悲劇が起こった。その和尚さんは、ソ連軍につかまり、多くの男の人といっしょにシベリアに連れて行かれた。残された奥さんと子どもたちは、日本に帰るために、他の開拓団の人々と一緒に逃避行が始まった。そこで、乳飲み子であった一番下の娘は、中国人に渡してしまった。今はっきり覚えていないが、奥さんも途中で栄養失調か何かでなくなったのではないか。シベリアから、命を繋いで和尚さんは、日本へ帰ってきた。あとで事情を聞くと、一番下の娘は、中国人に渡された話を聞く。まだ、1972年の日中国交回復が出来てない前の話である。しかし、何とか娘を探そうと、阿智村から満州に行き、同じようjに家族ばらばらにされた人々に声をかけ、中国に出かけて、家族捜しをする。その何人かの人たちは、劇的に巡り会う人も出てきた。しかし、慈照寺の和尚さんの娘とは見つからず、日本に戻ってきた。その後、日中平和条約が成立し、残留孤児の親探しが始まりかけていた。和尚さんは、娘と会えないまま亡くなってしまう。やがて、その和尚さんの無念さを何とかしようと、関係者が中国に渡ったりして、娘捜しを始めた。そこで偶然その娘ではないかという人が見つかった。血液検査などをして、間違いなく娘であることが判明した。その娘さんの中国での生活は、過酷なものであった。結局中国人に売り飛ばされて、貧農の家に買われていった。そこで、奴隷のようにして、働かされたのだ。やがて、その娘さんは、阿智村の慈照寺の家に帰り、今はなき父親の霊に向かって、手を合わせた。
この話は、今から10年近く前に、NHKの特別番組で、2週にわたって放送された。今回、天皇陛下がそこを訪れたと言うことがニュースで流れた。天皇陛下には、発言することは自由だが、政治的なことに利用されるようなことは、制限されている。しかし、安部の戦争への道に対して、真っ向から反対して、戦争反対を叫びつづけているような気がする。