子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

11月7日(月)関東大震災・朝鮮人虐殺の記録

11月7日(月)関東大震災・朝鮮人虐殺の記録

 豊島区から、墨田区へ転勤してから、子どもたちに「昔の心に残った体験を、年配の人に聞いてまとめるという仕事をしていた。東京大空襲を体験した人が、子どもたちのまわりにまだ残っていたので、色々なことが出てくるだろうと予想をしてのことであった。半分以上の子どもたちが、戦争体験を、直接親から聞いてくる子もいた。中には、外地に兵隊に取られて、東南アジアを転戦していた父親から聞いてきた子もいた。またある子は、祖父の戦争体験として、シベリア抑留のことを母親を通して聞いてきた子もいた。満州に行っていて、戦争が終わり、家族とともに帰ってきた母親の話をまとめてきてくれた子もいた。

鮮人事件を取り上げた子ども

 その中で祖父から聞いた「鮮人事件」という題で書いてきた子が一人いた。最初何のことなのか、意味がわからなかったが、今になって考えると、1923年の関東大震災の時に、「朝鮮人が井戸に毒を入れた。」と言う噂が、誰ともなく流れてきて、「朝鮮人狩り」が行われたのである。1923年の時に、青年だったその子どもの祖父は、当時80歳くらいだったことになる。その文の中に、自警団という言葉が出てきた。当時、そのことには、強い関心もなく、その作品は、そのままにして作品として残したが、推敲して、もっと聞き書きをしておけば良かったと今になって後悔している。その子どもが、今は、53歳になっている。当時は、関東大震災を経験した祖父母も、いたわけである。

チャンコロ・チョンコウ

 たくさんの朝鮮人が、自警団と称する町会の人々によって組織された人たちによって、ただ、朝鮮人だと言うだけで、殴り殺されたという話だ。その頃の日本には、大陸からたくさんの朝鮮人、中国人が、職を求めて日本に来ていた。その人達を、日本人は、「鮮人」と呼んだり、「チョン」と呼んだりしていた。中国人は、「チャンコロ」と呼んだり「シナ人」と呼んで軽蔑の別称だった。今でも、簡単にとれるカメラを「バカチョンカメラ」言う人がいる。朝鮮人を馬鹿にしている言葉であるので、一切使わないようにしている。無意識に使っている人がいたら、すぐ指摘するようにしている。

面々と続く差別の歌

 自分が子供時代の遊びの中に、長縄跳びをしながら、「満州の山奥で、確かに聞こえる豚の声、1ピキブー、2ヒキブー。」というかけ声で遊んでいたことがある。この歌の中に、満州という植民地で、山深いへんぴなところと言う意味が込められているのだろう。それを、教師になって、小梅小時代に、子どもたちがその歌を歌いながら遊んでいるのには、ビックリしてしまった。もちろん、子どもたちには、植民地の話をし、1910年から35年間日本の国にしたのが、満州である話をした。そこで、子どもたちには、日本語教育をし、創氏改名と言って、名前も日本名に変えられた話をした。日本の神社を強制的に信じるようにさせたりした。今、この墨田区にも、朝鮮人の人たちがたくさん住んでいる。戦争に負けた日本は、中国人や朝鮮人を、祖国に帰したのである。しかし、その頃、朝鮮では、1950年に朝鮮戦争が始まり、北は(朝鮮民主主義人民共和国)南は、(大韓民国)となり、当時ソ連・中国は、北の国を応援し、南は、アメリカが応援し代理戦争になってしまった。

警察予備隊から保安隊そして自衛隊

 2度と戦争を行わないと言うことで、平和憲法が出来た第9条は、武器を持たない戦争を、しないと宣言している。それが、朝鮮戦争を境に、日本を再軍備させたいというアメリカの意向で、現在の自衛隊の前身の警察予備隊が出来た。当時警察を増やすのだからいいだろうという雰囲気を、この言葉にごまかされた。今、自衛隊を、スーダンの国へ派遣しようと「かけつけ警護」と妙な言葉で、ごまかされようとしている。権力は、次々と、言葉のマジックで国民を騙しつづけてきたのである。「原子力の平和利用」などは、その典型である。

学校の校歌が戦前のまま歌われている

 当時の小梅小の校歌の中に、3番の歌詞がひどかった。「教えを守り、身を修め、額の汗に職を得て、国に尽さんもろともに」と言う侵略戦争時代の歌が、いまだに歌われているのである。これは、戦争に負けた当時の小梅小の職員が怠慢だったのである。戦後、ふさわしくない歌は、新しい歌に替えられているのである。しかし、墨田区には、3分の1近くの学校が、いまだに戦前に作られた歌を歌っているのである。定年最後の学校が、緑小学校であるが、そこの校歌も戦前の歌をいまだに歌っているのである。
1千代の栄えの本所/松と名に負う町々の/有るが中にも目に立つ は/深き緑の学園/園の掟を守りてむ 
2誠実一つを心とし/あしき習慣皆すてゝ/君と国とにかきつくす
 /道をたどらんたゆみなく/これぞ掟の要なる 

日本に残っている在日朝鮮人        

 1年間戦争をし、たくさんの犠牲者が出た。そのうちに、朝鮮に帰らず、この日本に残って暮らす人たちも出てきた。そういう人たちを在日朝鮮人と呼んでいて、今でも日本で暮らしている。この日本の国には、60万人くらいの人が住んでいる。こんな話をした記憶がある。
 当時荒川の河川敷にかなりの人々が、埋められたという当時のことを知っている人に案内してもらい、そこの発掘を墨田教組の人たちと何人かの有志の人たちで行われた。毎年、掘り返ししては、探したのであるが、とうとうその遺体は、見つからないままになってしまった。私は、この仕事には、直接かかわらなかったが、私のよく知っている仲間が、毎年9月1日の震災記念日の日にこの作業をしたというのだ。

鈴木健治さんからの贈りもの

 今回、鈴木健治さんが、その作業に参加した一人の方が、遺体が見つからないならば、その頃のことを語ったものをまとめたものが、東京の公共施設などに行けば、発掘できるに違いないとして、その膨大な資料を、23区エリアマップとして大変分厚い本にしてまとめたものを、手にいれた。その中の、墨田区の部分を、わざわざコピーして、本に閉じて私に手渡してくれたのである。今回、改めて、その本を読んで、自分が知らない事実がたくさん語られていた。その本の題名は、「関東大震災・朝鮮人虐殺の記録」(現代書館西崎雅夫著)とうい本で、定価1万1000円もする本だ。その本の中から、墨田の所だけ、ていねいにコピーして、1冊の本にしてくれたのである。

勤めていたその場で、虐殺事件があった

 色々調べていくと、当時の政府の人々によって、この事件は、徹底的に隠蔽されたのである。一度埋めた遺体は、あとから掘り出されると、証拠として残るので、全部他に移されたという話だ。何年もかかって、掘り起こしても、見つからないはずだ。
 私が勤めていた、小梅小・柳島小・立花小・緑小・堤小という地域の中で、朝鮮人狩りが、堂々と行われていたのである。あれから93年たった今、このことに関する事実は、ほとんど伝わってこない。

いまだに続く差別意識

 つい最近、沖縄のヘリ基地建設反対を唱えている人々に向かって、「シナ人・土人」と言って、差別発言をした大阪警察の人が、マスコミに大きく取り上げられた。それに対して、管轄責任者の大阪松井知事は、自身のツイッターに「大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と投稿。府庁には「人権感覚が欠如している知事には辞職してほしい」との抗議や批判の意見が寄せられています。21日午前9時までに582件が寄せられ、大半が知事に対する批判だという。松井氏は21日、批判の声が多数寄せられていることについて「そういう意見もあるんでしょうね」などと居直り、自身の主張を正当化。「警察官の労をねぎらうのは当然だ」と述べ、改めて機動隊員を擁護した。
 けしからんのは、マスコミも含めて、この差別発言を許してしまっている風潮が怖い。今現在も、根もない噂を勝手に流し、それがどんどん拡大していくという現象が、起こっている。この噂を流したのが、軍関係者・警察官だという説もある。一般の人は、そのことを信じて、この大量虐殺事件を巻き起こしてしまったのである。次回は、この証言の中の文章を紹介したい。

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