子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

11月7日(月)関東大震災・朝鮮人虐殺の記録その2

11月7日(月)関東大震災・朝鮮人虐殺の記録その2

集めた証言集の一部の文章を引用してみよう。

吾妻・小村井(現在の元立花小付近)の内田(仮名)の証言

 1日の夕方、5時か6時頃そのはらっぱ(現在の東吾妻公園)に通っている東武線の踏切の所に憲兵隊が3人ぐらいやってきた。憲兵隊は蓮田の中にピストルをドカンドカンと撃ち込んで「朝鮮人が井戸の中に薬物を投げた。かようなる朝鮮人は見たらば殺せ」と避難民に命令しました。(略)一般の我々が煽動したのではなく、煽動したのは憲兵隊です。これは私がはっきりこの目で見て知っています。それで、みんながいきり立って朝鮮の方々を田んぼのあぜ道で・・・・。本当に見ていられませんでした。朝鮮の方々は、田んぼの中の水の中に潜って竹の筒を口にくわえて上へ空気を吸いながらかくれていました。それを見つけ出して、もう何というか・・・・。あぜ道に死体がずらっと並べられているのを見ました。殺された朝鮮人は、普段から良く顔を合わせていたので知っていました。また、朝鮮人は、服が違うからすぐにわかりました。(略)自警団は、すぐに、1日か2日のうちにできました自警団を組織しろと命令したのも憲兵です。憲兵は、軍が後にどうのこうのと言われないように、ことがすんだら、2,3日のうちにぱっと消えてなくなりました。在郷軍人が憲兵に相当協力していました。在郷軍人は、在郷軍人会に入っていたので、自警団には入りませんでした。 。

四つ木橋付近 青木(仮名)

 確か3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばって連れて来て、自警団の人たちが殺したのは。何とも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのは、30人くらい殺していましたね。荒川駅(現在八広駅)の南の土手だったね。殺したあとは松の木の薪を持って来て組み、死体をつんで石油をかけて燃やしていました。(略)大きな穴を掘って埋めましたよ。土手のすぐ下のあたりです。

氏名不詳

 あの日のことは忘れません。何の罪もない朝鮮人が土手の板の上に座らせられ、機関銃を額に向け一発で殺されていったことを、たしか9月2日のお昼過ぎだったと思います。「朝鮮人が火を付けた。」「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ。」「朝鮮人が暴動を起こそうとしている。」という「うわさ」が人から人へと伝えられました。町に住む17歳以上の男の人たちは竹やりをかついで集まりました。怪しい人を見つけたら、「15円50銭」と言わせるのです。朝鮮人は「チュコエンコチュッセン」としゃべるからわかるのです。最初につかまったのは、木下川にすむ青森から来た年寄りです。その人は小説家で文章を書くのはうまいのですが、しゃべる方は、方言(なまり)があって、それにつかまったおどろきで良くしゃべれません。私達は急いで捕まえられた場所(土手)に行って、「この人は違います。違います。」と言って助けてもらいました。
 町で夜になって怪しいものが来たらすぐ突き殺せ、夜の暗闇のなかで見方間違えたらいけないから「山」と呼ばれたら、「川」と答えるようにと合い言葉まで作られました。地震があって四日目です。土手に行ったら、習志野きへいたいが来ていました。昔の軍隊ですね。そのきへいたいが朝鮮人を4人土手に座らせ、機関銃を一発ずつ頭に撃って殺しました。その機関銃の音は不気味な音で「ブシュ」と言う音でした。
 その一発で朝鮮人は土手の人に転げないで後ろに倒れました。土手の上では朝鮮人のお母さんと子どもが死んでいましたよ。(きね川小学校4年1組「関東大震災作文集」)

鈴木さんに感謝

 ここにあげたのは、その一例です。たくさんの資料が、語りを中心に記録されています。これは、墨田区だけの犠牲者のことに触れて書かれたものです。墨田区だけでも、5000以上jの人が虐殺されたのではないかと言われている。このような記録を粘り強く調べた著者に改めて感謝したい。当時の政府役人は、これらの事実が何もなかったように塗りつぶし、歴史を正しく見ようとしない。このような事実を、少しでも多くの人に知っていただきたいので、敢えてここに載せることにした。

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