子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月19日(土)平和教育を問い直す その2

12月19日(土)平和教育を問い直す その2

「在満少国民」吉岡数子さんとの出会い 二〇〇五年 十月の六年生の実践

吉岡数子さんの話 墨田区立緑小 六年 男子

 吉岡数子さんは、1932年に満州で生まれ育ち、戦争の時代を生き、今は大阪府堺市に住んでいます。吉岡さんが、10月20日、僕達のクラスに戦争体験を話しに来てくれました。最初に、吉岡さんは、
「みなさんは、6年生なので、私が同じくらいの年代だった頃のことを中心に話します。」
と言いました。吉岡さんが六年生の時、吉岡さんの父親が急死しました。吉岡さんは、
「はじめは事故死だと思っていたんだけど、戦後アジアを回って調べてみると、そうではない らしいとわかったんです。」
と言っていました。父が死んだことで、吉岡さん達は、日本(内地)へ帰りました。ここで、吉岡さんは、小豆島と言うところに行き、毎日「勝ち抜くぼくら少国民」という歌をうたって登校していました。吉岡さんが1年生や2年生の頃は、まだアジア・太平洋戦争も始まっておらず、小学校も楽しい生活でした。『サイタサイタサクラガサイタ」と言う文がのっている内地の教科書は、桜が咲かない満州では、適切ではないと思った山下先生という先生が、『満州補充副読本』という教科書を使った総合学習をしてくれたからです。しかし、学校には、朝鮮・中国のこどもたちは来ておらず、町でも日本人は優先されており、吉岡さんはなぜ朝鮮や中国の子は、学校に行かないのか、なぜ日本人だけえらそうにするのか疑問に思ったそうです。また、それを実際の聞いてしまったこともあり、
「今となっては、とても失礼な質問をしたと思っています。」
と言っていました。3年生になると、「小学校」が「国民学校」という名になり、「ミニ軍隊」になりました。この頃には「五族協和」や「大東亜共栄圏」という戦争を賛美する言葉があらわれ、吉岡さんもこの戦争は正しいんだ、日本人がえらそうにしているのは、当たり前なんだと思いこんでいました。ちなみに、「五族協和」は日本の周りにすむ五つの民族が互いに助け合うのを目指すことで、「大東亜共栄圏」とは東南アジアで助け合って共栄していこうという意味です。しかし、これは口実で、実際にはアジアを侵略することが戦争の目的でした。ぼくは、
(国民はみんな、政府にだまされてきたんだな。)
と思いました。また、内地から満州にたくさんの人が移り住んできて、「沖縄は長男、台湾は次男、朝鮮は三男、満州は四男」と言われました。教科書も、それまでは「桃太郎」の鬼の絵が中国の蒋介石だったのが、アメリカ大統領のフランクリン=ルーズベルトの顔に変わりました。ぼくは、
(どんどん戦争色が濃くなったな。)
と思いました。四年生では、『内地の家族』や『斥候(せっこう)』と言う絵を模写しました。『内地の家族』は、非国民と叱られないようとてもていねいに描いたのに、先生から、
「こんな絵は、誰が見ても非国民だ!」
と叱られてしまいました。吉岡さんは、
「なぜ叱られたのかわからなくて、それ以来ずっとトラウマになってしまいました。」
と言っていました。トラウマとは、昔、経験した嫌なことが後になってからも心の傷として残ることです。ぼくは、
(ショックがとても大きかったんだな。)
と驚きました。戦後しばらくさがして、やっとの事でその絵の原版を見つけました。そこで、その理由がわかりました。当日、吉岡さんは実物を持ってきて並べました。僕は、見本と吉岡さんの絵を見比べてみましたが、色遣いや場所などが少し違うだけで特におかしいことはありません。実は、その理由とは、しょうじの開ける×印の位置がちがっていたというものでした。ぼくは、
(それくらいのことで、非国民といわれるなんてひどい。)
と思いました。
 内地へ帰ったあと、内地の小学校に入るとき、先生から、
「教科書を暗記していますか。大化のまつりごとを言ってください。」
と言われました。吉岡さんは、満州では大化の改新と習っていたので、
「大化の改新ですか。」
と聞きました。先生は肯定し、吉岡さんはスラスラと言いました。言い終わると、先生は、
「違いますよ。」
と言いました。満州と内地では、教科書がちがったのでした。吉岡さんは、
「このことを知っている人は、ほとんどいないんですよ。」
と言っていました。ぼくは、
(へえ、いわゆるトリビアっていうやつかな。)
と思いました。その当時、義務教育は小学校6年間だけで、それ以上にはすべて試験がありました。しかも、その試験は教科書の暗記で、今のように内容があっていればオーケーというのでなく、一言半句でもちがっていたら不合格でした。吉岡さんは何とか合格しました。しかし、1945年8月15日、敗戦すると、教科書の墨ぬりが行われました。今まで、教科書をよごしてはいけないと言われ、修身などは開ける前に、一度礼をしてから開けるなどと言われていたので、それを墨でぬるなんて相当なショックを受けたそうです。2,3日ずっと墨ぬりをし、国史、地理、修身はすべて、国語もかなりが墨ぬりになりました。それと、吉岡さんは、僕達に昔の教科書を見せてくれました。春日さんが、二千何年かに応仁の乱が起こると国史に書いてあるのを見つけ、前後の記述から、神武天皇が生まれたとされる年を一年としていることがわかりました。吉岡さんは、
「戦争と差別は、必ずセットになると言われています。」
と言っていました。こんなひどい戦争を、二度とやってはいけません。

高木敏子さん(ガラスのうさぎの著者)をお迎えして 二〇〇六年 二月十四日

母校での最後の講演  墨田区立緑小  六年 女子

 二月十四日の火曜日の六時間目に「ガラスのうさぎ」の著者である、高木敏子先生の最後の講演会が、緑小学校で開かれました。全国から大勢の方が来て、体育館には、人がたくさんいました。高木先生は千回ほど講演をしていて、多くの人に「平和」について語ったそうです。
(すごいなぁ。)
と思いました。高木先生と付き添いの人と、池田先生が一緒に体育館に入ってきました。拍手で高木先生はむかえられ、舞台のいすに座りました。十分ぐらいのビデオを見てから、講演が始まりました。
「いつもと違うからねぇ。」
と高木先生は、最初に言いました。
(やはり、最後の講演だから緊張しているのかな。)
と思いました。東京が空襲にあって、お父さんと高木先生がお母さん、二人の妹ことを探していくところを聞いて、
(戦時中は、辛いことがたくさんあっただろうなぁ。)
とガラスのうさぎの本を読んだとき以上に思いました。
「お母さんと妹は骨の一片も見つからなかった。」
と聞いて、
(かわいそうだなぁ。もし私が、高木先生の立場だったら、ずっとくよくよしていて、 立ち直れないないだろうなぁ。)
と思いました。でも高木先生は、くじけずに家族のために生きていきました。話の最後に、
「戦争を起こすのは人の心、戦争を起こさせないのも人の心。」
と何かの紙を見ながら、読み上げました。私はそれを聞いて、
(その通りだ。)
と心にドンと衝撃がきたような気がしました。戦争は絶対にやってはいけないことです。私は、大人になっても、そう思い続けたいです。平和であり続けることは大事なことだと思います。講演会の最後に、五,六年が「ガラスのうさぎ」という歌と、緑小学校の「校歌」を歌いました。ガラスのうさぎを歌っているときは、ウン、ウンとうなずきながら聞いてくれました。校歌は、高木先生もいっしょに歌っていました。私は、校歌の一番を歌っているときに、思ったことがありました。「君と国とにかきつくす」についてです。この言葉は戦争前に作られて戦争に関係あることなので、担任の榎本先生は、黙って聞いています。高木先生はどう思うのかと、疑問に思いながら私は歌っていました。校歌を歌っている途中で、高木先生はハンカチを目にあてていました。付き添いの人が肩をポンポンとやさしくたたいていました。
 こうして講演会が終わっていきました。この講演を通して、戦争は絶対にやってはいけないことだということを改めて感じ、家族を大切にするということも学びました。

戦争体験の聞き書き 2004年 7月から10月までの五年生の実践

祖父の戦争体験 墨田区立緑小学校5年  男子

 ぼくの父方の祖父は、徳島に住んでいて、10人兄弟の七番目でした。現在は、静岡県に住んでいて、1929(昭和4)年生まれで、今年75才になります。戦争が始まった時、祖父は小学6年生でした。ハワイの真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)には、国民全てが拍手を送り、太平洋戦争へと突き進んでいきました。5人の兄は、皆徴兵検査(ちょうへいけんさ)を受け、3番目の兄は甲種合格し、そのほかの4人の兄は乙種で、全員兵隊に行ってしまいました。祖父は1942年の4月、旧制中学にあがると、人手不足を補うため、米と麦の収穫期には、一般農家で、それぞれ10日くらいずつ、収穫の手伝いをしました。ぼくは、真珠湾攻撃に拍手を送るなんて、今では考えられなく、おどろきました。当時、祖父の父は、大蔵省専売局(おおくらしょうせんばいきょく)に勤めていました。

軍需工場(ぐんじゅこうじょう)での仕事

 中学3年生の12月からは、学徒動員で軍需工場に行き、祖父は旋盤工(せんばんこう)という仕事をしました。旋盤工というのは、ベルトで金属などをけずって、毎朝渡される図面に書いてあるものを作る仕事です。軍需工場では160人くらい仕事をしていましたが、そのうち旋盤工のように機械を使った仕事をする人は10人くらいで、あとの150人は運搬などの仕事をしていました。機械を使う10人は工場が決めていたので、祖父はなぜ旋盤工になったかはわかりませんでした。

陣地の構築

 中学4年生の4月からは、戦況が悪化して、本土決戦のために山の中腹に陣地を構築することになり、祖父は軍需工場から配属替えになりました。1回にむしろにスコップ6杯分の砂を入れて山を登って運んでいき、午前午後3回ずつで合計1日に6回も運びました。しかも、往復にだいたい一時間くらいかかりました。ぼくは、大変だと思い、みんなこれをやっていたのだからすごいと思いました。しかし、どんな陣地を作るかは知らされていなく、学生はただ砂や材木などを運ぶだけでした。途中で山の反対側が、空襲にあうこともありました。しかし、結局その陣地は使われずに敗戦してしまいました。

徳島の空襲

 1945年7月3日の晩から7月4日の朝にかけて、徳島は空襲にあいました。祖父は、陣地構築から帰ってきて、へとへとになって熟睡していました。一時くらいに一度空襲警報が鳴りましたが、解除されました。しかし、また空襲警報(くうしゅうけいほう)が鳴り、みんなは防空ごうににげこみました。焼夷弾(しょういだん)を投下されたときは、防空ごうの中でも騒音が聞こえ、外に出てみると、家に焼夷弾が落ちていたので、すぐに消火し、もうここは危険だと判断して逃げました。焼夷弾とは、中に油が入っていて、落ちるとばく発して火がつくばくだんです。畑の真ん中で様子を見ることにして、面積を小さくし、当たる確率を低くするために、直立不動でいました。 畑には祖父1人しかいなく、祖父はものすごく圧力を感じていました。ぼくがもしこんな状況になったら、すごく心細いと思い、
(よくたえられたな。)
と、思いました。祖父は、
「空襲にあったときに集まる場所も決めておいたんだけど、全然役に立たなかったんだよ。」
と、言っていました。焼夷弾には、油脂焼夷弾と黄燐(おうりん)焼夷弾という2つの種類があり、徳島の空しゅうでは、油脂焼夷弾が落とされました。また、焼夷弾は火事にする目的で落とされますが、爆弾は、建物などをこわす目的で落とされます。明るくなってくると、空襲が終わりました。しかし、家族はばらばらでした。家に帰ってみると、家族も無事で、家もなんとか焼け残っていました。しかし、向かいの家や裏の家は焼けてしまっていました。ぼくは、
(とても運が良かったんだな。だれも亡くならなかったし、家も焼け残っていたなんて。)
と、思いました。繁華街(はんかがい)に住んでいた祖父の親せきが焼け出されて、2~3ヶ月祖父の家で暮らしていました。
(繁華街の方が、人がたくさんいるからたくさんの焼夷弾が落とされたのかな。)
と、ぼくは考えました。この空襲でなくなった人の中には、赤ちゃんを背負って逃げていて、赤ちゃんとその女の人の間にちょうど焼夷弾が落ちて、亡くなってしまった人もいました。ぼくは、かわいそうだと思い、
(戦争をしなければ、この2人は生きていられたのに。)
と、思いました。

日常の生活

 日常生活に必要な米、麦、塩などの食料品のほとんどは配給制で、1人1日にほんのわずかな量しかもらえませんでした。配給とは、家族の人数につき、一軒当たり決まった量だけ配られる制度です。各家庭で簡単に自給できるさつまいも、かぼちゃ、じゃがいもなどをご飯に混ぜて食べました。しかし、それでも食べられるものは少なく、我慢の生活でした。ぼくは、
(今では毎日満足に食べられるから、昔の人から見ればすごくぜいたくなんだな。でも、みん な毎日つかれるのに、そんなちょっとしか食べられないなんてかわいそう。)
と、思いました。また、学校でも、太平洋戦争はいいことだと教えていたので。祖父は日本の戦いに何の不安も全く感じていませんでした。しかし、1944年ごろから不利になってきていた日本の敗戦は、広島、長崎への原爆投下によって、決定的になりました。戦況が悪化してくると、昼には艦載機(かんさいき)というグアム島からきたと言われていた1人乗りの戦闘機が飛んできました。人が歩いていると、操縦士の顔が見えるくらい低空飛行で飛んできました。艦載機が来ると、みんな防空ごうににげこみましたが、見つかってしまうと大人も子供も容赦なく機関銃で徹底的にやられました。弾がある間は攻撃していて、なくなると帰っていきました。防空ごうの中で「ピューン」と、言うような音が聞こえると、その艦載機はもう遠くに行ってしまったという、飛んでいく空気の音でした。また、「ポツッ」というような音が聞こえると、その艦載機はまだ近くにいて、球を撃っているという、弾が落ちる音でした。地域の人の中には、防空ごうに逃げ込もうとして、太ももを撃たれてしまった人もいました。
 そのころは、昼は艦載機の心配、夜は空襲の心配で、一日中気の休まるときはほとんどありませんでした。ぼくは、
(だんだん戦況が悪化してくると、大変になってきたな。でも、一度も艦載機に見つからなくてよかった。ぼくがそんな 状況になったらすごくこわい。)
と、思いました。

敗戦と兄の戦死

 1945年8月15日、祖父は正午に全国民に向けて天皇陛下からの放送があると、陣地構築の朝の配置決めの時に知らされていました。敗戦のニュースは、陣地構築に動員されていた町の町役場前で聞きました。当時は、国民全員でこの戦争に勝つために、勉強を後回しにして本土での決戦に備えていました。なので、祖父は言葉にならないような衝撃を受け、放心状態でした。特に兵隊の人たちは、敗戦を信じられない様子でした。ラジオや新聞での報道では、ほとんど戦況が悪化していることなど放送されていなかったので、とてもショックを受けました。ぼくは、
(政府の都合のいいような情報ばかり流していると、おかしいことになるからだめだ。現在も そういうことにならないよ うに注意しないといけない。)
と、思いました。
 敗戦から数日後、市役所から、四番目の兄が戦死した知らせが届きました。箱の中には、『××の霊』と書いた紙しか入っていなく、遺骨などは入っていませんでした。また、なぜ戦死したかも全く分かりませんでした。その後、兄たちが帰ってきて、ビルマ派遣軍の本部にいた二番目の兄から、4番目の兄のことを聞きました。4番目の兄は、ビルマ派遣軍の前線にいて、シッタン川という川で斥候(せっこう)という2~3人で様子を見てくる役目になり、シッタン川を渡っていったが、帰ってこなかったということでした。ぼくが、そのときどんな気持ちだったか聞くと、祖父は、
「あんまり悲しくはなかったなあ。親はすごく悲しんでたみたいだけど。」
と、言っていました。ぼくは、
(今だったら兄弟が亡くなったりしたらすごく悲しいのに、戦争になると自分が生き長らえる のだけで精一杯で、兄弟とかが亡くなっても悲しくなくなるから、戦争はこわい。ぼくは平 和な世界に生まれてよかったな。)
と、思いました。

祖父の言いたいこと

最後に祖父は、
「戦争の経験者が少なくなって言い伝えできる人も減った。世の中は戦争の方向に向かってい る気がするから、ちゃんと伝えなくちゃいけない。戦争を経験している人はもう戦争しよう とは思わない。戦争はどのような理由があっても人と人との殺し合いであり絶対に起こして はならない。何事もおたがいに話し合い、ゆずり合いながら時間がかかっても解決の道を求 める努力をしなければならない。」
と、言いました。
 おわりに《ここの部分からは、6年生になってから追加し、読売コンクールに応募した。》
 最近、アメリカの貿易センタービルが破かいされたり、イラク戦争がおこったりと、世界では、まだまだ戦争は続いています。日本は、せっかく9条があるのだから、それをほこりに思って守っていかなければなりません。ぼくも、戦争の話を聞いて、改めて悲さんさを思い知り、やはり戦争をしてはいけないと思いました。
 もし、祖父が戦争でなくなっていたら、ぼくの父もぼくも生まれていなかったので、祖父がなくならなくてよかったです。戦争は、絶対にしてはいけません。

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