子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月19日(土)平和教育を問い直す その3

12月19日(土)平和教育を問い直す その3

墨田区立堤小時代

空襲の写真を見て 墨田区立堤小学校 六年 男子

 三月十一日。一時間目の授業で、みんながざわめいているときに、
「ガラガラ。」
とドアが開きました。そこからあおい本などを脇に抱えて、榎本先生が入ってきました。僕は、
(あ、そうか。算数か。)
と思い出しました。榎本先生が、黒板の前の台の後ろにたつと、日直の矢部君が、
「これから一時間目の授業を始めます。」
と言うと、みんなが、
「はい。」
と元気に言いました。榎本先生も、
「よろしくお願いします。」
と言いました。最初は、東京大空襲の絵がつづられている本を、榎本先生がめくっていきました。爆弾からのがれようと、水につかって死んでしまった人の絵などがあって、榎本先生が説明していきました。僕は、
(絵だけでも、ここまでひどいんだな。)
と目をつぶりたくなりました。
 次は、写真。これは、もうひどいものでした。焼け死んだ人達が、並べられた写真が一番記憶に残っています。僕は、もう目をつぶってしまいました。それからいろいろと説明があり、算数に入りました。
 僕は、前、東京大空襲のドラマを見ました。記憶に残っているシーンは、炎が熱くて、みんな柵をよじ登り、学校のプールにはいるのですが、その中に母親とガラス製の飛行機を手に持った小学三年生くらいの親子がいました。二人とも、一緒にプールにはいるのですが、人の波が押し寄せ、はぐれてしまいました。この方は、人の波に負けず、必死におぼれまいとするのですが、大人達の下じきになって水中に押されてしまうのです。それでも必死にもがくのですが、すでにおぼれ死んだ人達の下じきになり、ついに死んでしまいました。すると炎の波がプールをおおいました。水中にいなかった人は、みな死にました。母は、何とか生き残りましたが、この名をずっと呼んでいました。僕は、このシーンを見て、涙が出ました。
(東京大空襲なんて、無残すぎる。)
と当時の考えを、今に変えると、こんな感じです。一番印象を受けたシーンは、橋の上で右と左から人が押し寄せて、もはや身動きができない状たいになっていました。みんなパニックになって、いろいろさけんでいました。そこに大きな炎の波が押し寄せ、何千人の人が焼きつくされていました。この様子は、おととい滝さんも言っていました。僕は、まるでじごくの絵図のようなシーンを見て、怖くて声も出ませんでした。戦争の体験者の方々は、こんなじごくをくぐりぬけ、生きのびてきたのです。 二〇〇九年  三月完成

滝さんのお話を聞いて  墨田区立堤小 六年 男子

 三月九日の月曜日の今日のことです。四時間目に、平和集会がありました。集会は、ランチルームで行われました。みんなすわっていると、見慣れない人がいました。それは、おじいさんです。ホワイトボードに、
「語りべ滝さん」
と書いてありました。
(この人が、滝さんだな!)
と思いました。ぼくは、
(今日は、どんなことを話すんだろう。東京大空襲て書いてあるから、東京大空襲のこ とを話してくれるんだな。)
と思いました。ぼくは、
(よし!また新たな勉強ができるぞ!)
と思いました。しばらく辰と、滝さんの話は、始まりました。最初は、けいほうが鳴ったというのから始まりました。ぼくは、ドラマなどで、こういうけいほうのサイレンは聞いたことがありますが、このサイレンとともになってくるけいほうの放送は、聞くだけで怖いです。戦争当時に生きていた人たちは、このサイレンとけいほうを聞くたびに、
(どれだけ怖い思いをしたのかな?)
と思いました。どんなにねむくても、あのけいほうが鳴るとねられないし、ずっと起きてなきゃいけない。あのけいほうだけでも、こんなに大変だったあの時代の人たちは、
(ほんとうに苦しかったんだろうなあ。)
と思いました。だけど、『夜中の十二時、せめてきたぐんは、帰りましたよう。』と言うけいほうが鳴って、滝さんは安心して、二回にある寝室に向かい、寝ようとしていた。だけど窓が明るいので、窓を開けてみた。すると、橋がもえていた。滝さんは、あわてて、家族でにげようとした。お母さんは、幼い娘(滝さんの妹)を友人の家にあずけに、ひっしに行った。滝さんは、
「必ず帰ってきてよ!」
と母に言った。だけど、木の板に火がついたりした。火の玉が飛んできたりしたので、町中が、火災になっていた。滝さんや滝さんのおじいさん、おばあさんはにげようとした。滝さんのおじいさんは、足が悪いので、歩けなかった。滝さんは、おじいさんをおぶって、にげようとしたのだ。ぼくは、
(すごいなあ、こんなまわりに火だらけで熱いのに、おじいさんをおぶってまでして、に げるなんて・・・。)
と思いました。でも、おじいさんのせなかに火がついた。滝さんたちは、せなかの火をひっしに消した。消したは消したものの、今度は、おじいさんの足もとに、火がついた。ふつうは火のつきにくいおじいさんのズボンだったが、ほうたいに火がついてしまったのだ。ぼくは、
(うわあ~、大変だな。)
と思いました。
(火にもえて、熱かっただろうな。)
と思いました。もう、どうすることもできなかった滝さんは、おじいさんをそのままにして、お母さんを探しに行った。お母さんがあずけに行ったところの近くに行った。このときは、視界にけむりがいっぱいで、前がよく見えなかったりしたと言っていました。けれど、ちょうど目の前にお母さんがいた。ぼくは、
(よかったあ、お母さんが見つかって、このまま見つからなかったら、滝さんはどうなっ てたんだろう・・・。)
と思いました。滝さんは、お母さんに、
「おじいさんは助けられなかった・・・、おばあさんは一人でにげた。」
と言いました。ぼくは、
(戦争って大切な家族や親せき、いとことかをなくして、いやだなあ。)
と思いました。この後滝さんと滝さんのお母さんは、空き地に行ったけど、荷物や人混みのせいで中に入れなかった。だから、中和小学校に行った。学校は、てっきんコンクリートで、だいじょうぶだからと言って、お母さんと滝さんは、入りました。だけど、学校の中にも、火が入ってきました。ぼくは、
(ああ、学校の中に火が入っちゃった!だいじょうぶだったのかなあ。ひは、けせたのか なあ。)
と思いました。消火活動をしていた。滝さんは、いつの間にか寝ていたのだ。ぼくは、
(夜中の十二時過ぎで、また子どもだから、たえきれないよなあ。)
と思いました。
 やがて滝さんは、目をさました。その時は、朝だった。火は消えていた。あの光景は、なくなっていた。しかし、滝さんは、あるものを見た。それは、どろのかたまりが、校庭の真ん中に置いてある光景だ。ぼくは、
(何でどろなんて置くんだろう・・・。おかしいなあ・・。もしかして、滝さんは、死体 の山のことを、どろの山とかんちがいしてたのかも・・・。)
と予想しました。すると、それはあっていました。滝さんは、よく見ると、やけた人の死体でした。ぼくは、
(この光景を見た滝さんは、どういう思いだったのかなあ。)
と思いました。この、人の死体の山を見た滝さんは、
(きっとすごく悲しかったんだろうなあ。)
と思いました。ぼくは、
(でも、あのとき、滝さんとお母さんは、学校にひなんしたから、助かったんだなあ。)
と思いました。
(滝さんは、あんな戦争の中、生きたえたなんて、すごいなあ。)
と思いました。ぼくは、
(滝さんの心に負った傷は、一生消えないなあ。)
と思いました。ある一つのことでケンカが始まる。戦争も同じ、ある一つのきっかけで始まる。差別こういや、意見が合わないため、国の取り合い、自分の国は強いと見せかけるため、こんなくだらないきっかけで戦争が始まる。ぼくは、バカバカしいと思いました。そんなくだらない戦争やけんかで国民や、自分を傷つけて・・・。ぼくは、もっと仲よくすればいいじゃないかと思いました。
「あの子は、何人だから!」や「あの子は、勉強ができない!」とか、そういう差別こういは、だめだと思いました。みんな仲よくした方がいいと思いました。ぼくは、
(二度と戦争をしてはいけないなあ。)
と強く思いました。 二〇〇九年  三月完成

お水をあげに  墨田区立堤小学校 五年 女子

 三月十日、火曜日私はまなみさんとの遊びをことわりました。なぜかというと、三月十日は、東京大空襲があった日でした。私は、
(そういえば浅草の言問橋の近くに、東京大空襲の何かあったような。)
と思いました。家に帰り、私は、
(お水と何か持っていこう。)
と思いました。私は、ふたのしまるケースにお水をまんたんに入れました。私は、
(つるでもおって、持っていこうかな。)
と思い、つるを二羽折りました。黄と緑のつるを作りました。私は、家を出て、自転車に乗って、浅草に向かいました。向かうとちゅう私は、
(今、うちが自転車で通っているところって、昔はここも死体だらけだったんだよね。)
と思いました。リバーサイドプールの近くにある東京大空襲のたましいがあると言いますが、あまり深くわかりませんが、「ああ、東京大空襲安らかに」と言うものがありました。私は、
(これだ。)
と思い自転車を止めました。七,八人の方々がいらっしゃいました。私は、
(少し、はずかしいから、人が少しいなくなってからにしよ。)
と思いました。私は、
(みんなが、やっているのをまねしよう。)
と思いました。前の方のやり方を見ていました。ほとんどの方が、いなくなり、私は、岩の前に立って目をつぶって手を合わせ、むねの前におき、心の中で、
(安らかに、おねむりください。)
と、心の中で言いました。ふたを取り、お水を花にたくさんかけてやりました。私は、あとつるをおき、また手を合わせました。岩の前を、みんなす通りしていきます。私は、(す通りするなよ、ちゃんとおじぎする位やっていけばいいのに。)
と、強く心に言いました。通りかかった女性が、
「えらいねえ。お参り。」
と言ったので、
「そうです。」
と答えました。私は、帰ることにしました。私は、自転車を止め、言問橋を見ていました。私は、
(ここで、人々が死んだんだ。)
と思い、黒く橋の下の方についているものを見ながら言いました。わたしは、
(あれは、人の油だ。)
と、思いました。私は、未来の子ども達にも、戦争はいけないと伝えていきたいです。
二〇〇九年  三月完成

10年前に整理して書いた文だが

 戦後60年たち、世の中、再びきな臭いにおいがしてきています。平和教育の大切さを実感しております。1969年に教師になり、37年間「つづり方・作文教育」を、教育の根底にすえて歩んできました。70年代から80年代は、民間教育が大きく花開いた時代でした。90年代は、組合が分裂して、権利が奪われ、教研が衰退した時代でした。官制教育が幅をきかせ、身動きが出来ないくらいに、管理統制教育がはびこっています。また、原点に立ち戻るべきです。

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