子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

12月19日(土)改めて、平和教育を問い直す

12月19日(土)改めて、平和教育を問い直す

 ここ10年近くは、関西を中心とした「人権教育と生活綴方」を大切にしている仲間達と交流している。毎年1年に1回、全国集会を実施している。今年の大会は三重県で行われる。昨年は、高知県で行われた。この運動の中心におられる方が、坂田次男さんと増田俊昭さんだ。その坂田さんから、今年も記念文集を作りたいので、作品を送ってほしいと依頼があった。昨年もりっぱな文集ができたのであるが、そこでも何点か作品を載せていただいた。作品は、多少古くても良いから、送ってほしいと言うことが触れられていた。今年は、「平和」がいとも簡単に崩された年でもあったので、私が生涯の仕事としてきた「平和教育」に焦点を絞って、作品を集めてみた。以前送ったものは避けて、やや古いものも含めて並べてみた。それを、坂田さんについ最近送ったものである。作品が多いので、その1とその2とその3に分けて、ここに載せることにした。

墨田区立小梅小時代

母から聞いたおじいちゃんの話 墨田区立小梅小六年 女子

 私のおじいちゃん。おじいちゃんは、やさしかった。怒った顔など見たことがない。毎月に仕事で東京に来る。おじいちゃんは、手を大きく広げて、
「敬子ちゃーん。」
と言って、私をだいてくれた。そしておこづかいをくれた。おこづかいをあげるのが楽しみみたいに、会えば千円、二千円とくれた。おじいちゃんに会うと、笑いがこみ上げてくる。何よりも大好きだったおじいちゃんが、二年前の十一月十八日に死んだ。おじいちゃんの笑顔だけしか見たことのない私。最近、母に昔のおじいちゃんのことを話してもらった。母の思い出の中には、おじいちゃんが戦争に行ったときの苦しみが、つめこまれていた。
 昭和十八年、太平洋戦争が始まってすぐに、おじいちゃんは出征した。母が小学校二年生。おじいちゃんは、三十三才。母七才の時だった。さぞ母たちは、さびしかっただろう。出征したおじいちゃんたちは、満州へ行った。
「満州ってどこ。」
「現在の中国よ。社会科でやっているでしょ。明治政府が朝鮮や中国を日本のものにして、中国の一部を満州と呼んだのよ。おじいちゃんは、そこで軍隊生活をしたわけよ。」
 母が四年生になった頃までは、時々は葉書も来たり、写真を送ってあげたりした。その後、戦争は、だんだんはげしくなり、手紙のやりとりも出来なくなってしまった。
 昭和二十年。日本は、戦争に負けた。おじいちゃんの部隊は、戦争が終わったのを知らなかった。その後、ソビエト軍が満州の国境を越えて、総攻撃してきた。そこで、いくさが始まった。その戦いの様子は、おじいちゃんの口からは一度も聞いたことがない。おじいちゃんが死んで、一ヶ月後、とつぜん戦友がとつぜん訪ねてきた。その人は、長い間おじいちゃんのことをさがしていて、ようやく市役所でわかったときは、一ヶ月前に死んだとわかり、すごく悲しんでいたそうだ。その人が話してくれた戦いの様子。私にとっては、考えられぬことだった。おじいちゃんは、一人の人の命を助けた。
「頭を下げろ。」
おじいちゃんは、大きな声でさけんだ。いくら言ってもわからない人が頭を出していた。
「頭を下げろ、うたれるぞ。」
 何べん言ってもわからないので、その人の頭を鉄砲のえでぶって下げさせた。下げたと同時に、鉄砲のたまが、頭の上を通り過ぎた。その人は、若くて、戦争の経験も、訓練もなく、戦争の恐ろしさを知らない。訪ねてきてくれた人は、そのことを詳しく話してくれた。おじいちゃんは、機関銃で、ダダダダと、何連発も打ち続けたそうだ。やがて、敗戦を知り満州にいた日本隊は、ほりょになり、一人残らずソビエト軍に連れさられていった。おじいちゃんの部隊が、ソビエトに捕りょにされて行ったことは、母たちは知らなかった。
 ソビエトの生活は、苦しかった。その時のことを、おじいちゃんは、よく(母達に)話してくれた。寒さと、食べ物のうえとの戦いであった。一日、黒パンひとかけらが、ソビエトから支給された食糧だ。戦友は、栄養失調でバタバタと死んでいった。仕事は、二百年も三百年もたったような大木を、切っていく作業で、切っても切っても終わることがないほど、木がいっぱい続いていた。一日に仕事の量は、ソビエトから決められて、その決められた仕事が全部終わらないと、黒パンがもらえなかった。おじいちゃん達は考えて、仕事をする人と、食糧を集める人とに分かれた。おじいちゃんはつりの経験があり、つり係となって、一日中近くの川でつりをした。大きなますを何びきもつり、夜それをにて食べた。その中には、ぬすんできたじゃがいもをほうり込み、塩味をつけて食べた。その他、山にある、キノコ、ネズミ、ヘビ、かえるなど、食べられるものは、何でも食べた。それを食べなければ、死が待っている。いつ日本へ帰れるかわからない毎日を送りながら、生き残った人は、はじめの三分の一くらいしか残らなかった。おじいちゃんは、運良く生き残った。
「とにかくソビエトという国は、大きい国だ。」
とくちぐせのように言っていた。
 ある日、全員汽車に乗るように言われ、汽車に乗った。まどは、全部閉じられた。どこを走るのをわからないようにされ、何も教えてくれず、三日三晩乗り続けた。
「あれが有名なシベリア鉄道だったんだよ。」
と話してくれた。ようやく港に着き、初めて日本へ帰れるとわかった。ナホトカの港から、引き揚げ船に乗り、舞鶴に入った。日本の陸地が船のうえから見えたとき、全員涙をながした。私には、想像もつかないうれしさだろう。
 母が、中学二年の時、おじいちゃんが家に帰ってきた。六年間と半年も会わなかったので、母は、その時ははずかしくて、
「大きくなったなあ。こっちへ来てみな。」
と言われても、人のかげにかくれて出ていかなかったそうだ。おじいちゃんは、ボロボロの服に、ボロボロの毛布を一枚しょってきたが、しらみがいっぱいついていたので、裏庭の椿の木の所で全部焼いてしまった。おじいちゃんが帰ってきて安心したのか、母のお母さんは、だんだん体の具合が悪くなり、病気になってしまった。
「その時が、おじいちゃんの一番大変だった時だったのよ。」
と母。
「どうして。」
「おじちゃんのいない六年間で、日本は変わってしまい、お金の価値も、ものの考え方も、おじいちゃんにはついて行けなかったわけなのよ。」
と、私の質問に答えてくれた母。
 何年かたち、市役所の方から、
「年金が出るから手続きをするように。」
と何度も言われたが、おじいちゃんは、
「軍人年金なんかいらない。死んでしまった人が大勢いるのに、生きて帰れたんだから。自分で商売しているし、こづかいに不自由しないから。」
と言って、とうとう死ぬまでもらわなかったおじいちゃん。私の知っているおじいちゃんに、そんな色々な人生の経験があるとは、思いもしなかった。
 ソビエトから帰って三年目。私のおばあちゃんにあたる母のお母さんは、四十三才で死んだ。母が、高校二年で、母のお姉さんが、二十一才の時だった。おじいちゃんは、それから六十七才で死ぬまで、再婚しなかった。母のお母さんが死んだ後、おじいちゃんは、いつも筆と墨を持ち、ソビエトのことや死んだお母さんのことなどを、短歌にして書いた。時々、母は、それを読んだりしたが、子どもだったので、深い意味を理解できなかったそうだ。
「ノート二冊もあったのに、いつの間にかなくなってしまったみたい。今、あれを読めば、あのときのおじいちゃんの気持ちなど、わかったんだけど。今度、田舎へ行ったら、聞いてみるね。」
と母は、思い出したように話した。
 考えてみると、幸せの時より、不幸の方が多かったおじいちゃん。そんなことが一つもなかったように、おだやかな顔をしていた。
 戦争さえなかったら、おじいちゃんの人生も、もっと苦労のない幸せな生活が送ることが出来ただろうと、私は思った。戦争さえなかったら・・・・。一九七七年一月作

墨田区立緑小時代

全校平和集会で戦争体験を聞き 2004年3月の5年生の実践

福田稔さんへ 墨田区立緑小学校 5年 男子

 木曜日に、平和集会がありました。そのとき福田さんという方が語り部をしてくれました。福田さんは、当時16才でした。親も親せきもなく、ひとりぼっちで生きていかなくては、ならなかったのです。ぼくは、まずビックリしたのは、食べ物がなく、食べ物を買うお金をかせぐためにタバコのもくひろいをやって、お金に変えてもらうということでした。しかし、1日中働いても、いも一本しか食べられないほどでした。寝るところが、上野の地下道だなんて、かわいそうでした。でも、ある日、たくさんの人が寝る場所を求めて、上野の地下道に来たので、福田さんは浅草方面に歩いていき、お寺の中で寝ました。夜中におなかの上が重く感じて目が覚めました。見てみるとそれは2本の足でした。小学1年生の足でした。起こすとかわいそうだから、そのままにしておきました。朝になって起きてみると、男の子も起きていました。その子の名前は信ちゃんといい、空襲で、お父さんとお母さんとはぐれてしまったということがわかりました。信ちゃんは、福田さんに
「いっしょにつれてって。」
といい、福田さんの服を引っ張っていました。それが信ちゃんとの出会いでした。信ちゃんと歩いていると、四人の男の子が、
「仲間に入れてください。」
といい、その子たちも仲間になりました。たばこ拾いだけだと生活していけないから、くつみがきをすることにしました。でも、道具がありません。そのとき知り合いのアメリカ人の人が一週間後にハワイへ帰ることになりました。日本のおみやげがほしいということで、福田さんは、一生けん命さがしたすえぞうりを見つけました。福田さんは、くつみがきの道具がほしいとお願いしたら、アメリカ製のたばこ二十箱くれました。それを売ってくつみがきの道具を買いました。
 入梅になり雨が降るとくつみがきも、たばこ拾いもできなくなりました。おなかをぺこぺこにして、上野の西郷さんの銅像の近くにきました。上野の山のところでおじいさんとおばあさんが、おにぎりを食べていました。信ちゃんはうらやましそうにそれをながめていました。福田さんは、
「おにぎりを半分だけでも分けていただけないでしょうか。」
とたのみ、おにぎりを8つもらいました。信ちゃんは、それを1人で食べないで、8つに分けました。ぼくは、
(おじいさんとおばあさんは、自分だって大変なのに、人に大事な食料を分けてあげるなんてえらいな。)
と、思いました。福田さんは何かお礼をと、おじいさんの足をみて、
「お礼にくつをみがかせてください。」
とたのみました。信ちゃんがやりました。6人の中で信ちゃんが一番上手でした。だんだん生活も落ち着いてきて、上野の駅のところの電車のまくら木をつかって小さな家をつくりました。6人で寝れるくらいの広さでした。しかし、ある日、児童相談所の人が来て、
「信ちゃんの両親は亡くなった。」(*品川方面の空襲で、なくなっていることが判明)
と知らされました。
「一番下の子だけ施設へ引き取りたい。」
といわれ、福田さんは信ちゃんを幸せにしたいから施設に行った方がいいと考えました。福田さんは、両親が亡くなったことを言えませんでした。
 信ちゃんはこの日本中のどこかで生きていると、思います。福田さんは、会いたい気持ちでいっぱいだけど、会わない方がいいのかもしれないと、言っています。戦争は家族をはなればなれにして、死者もたくさん出て、でも出会いもあります。戦争で出会うというのも、何かいやな感じです。でも、信ちゃんの二本の足が乗っていたから、福田さんもがんばれたのです。戦争は残こくで、絶対してはいけないと、改めて思いました。

広島の原爆体験者「福地義直」さんをお迎えして 二〇〇五年 六月二十五日(土)

原爆の悲劇  墨田区立緑小 六年墨田区立緑小 六年 男子

「この人が福地義直さんです。」
 六月二十五日(土)の三~四時間目、広島の原爆体験者で、当時爆心地から七百メートルのところにすんでいた福地義直さんが来ました。七百メートルだと、ふつうは黒こげになってしまいます。福地さんは、四年前に、広島に落ちた原爆「リトルボーイ」の模型を完成させ、それ以降、いろいろな学校に戦争体験の語りをしに行っています。先生は、
「だんだん日本が戦争が、かっこいいというような雰囲気になってきたからだよ。」
と、言っていました。また、原爆の後遺症で癌になってしまいました。ぼくは、
(やっぱり、奇跡的に生き残っても後遺症が残ってしまうんだな。)
と、思いました。
 八月五日、福地さんは、お父さんと交代して、疎開先から市内にお母さんと妹といっしょにもどってきていました。その日、放送で、明日広島に大空襲があると言っていました。福地さんは、いつ空襲されても良いように下着一枚で寝ました。
 八月六日、起きても何ともなく、福地さんは安心し、勤労動員に行こうと準備を始めました。八時十五分ごろ、いきなりピカッと光りました。本当はドンという音がしたそうですが、福地さんには聞こえませんでした。ぼくは、
(耳が聞き取れないくらい大きかったんだな。)
気がつくと福地さんは家の下じきになっていました。福地さんは、自分の体にささっていた釘をぬき、どうにかぬけ出そうとしました。福地さんは、
「痛いとは感じませんでした。」
と、言っていました。ぼくは、
(釘をぬいて痛くないなんて、よっぽどぬけ出したくて必死だったんだな。)
と、思いました。やっとのことでぬけ出して、福地さんはお母さんを探しました。すると、お母さんも家の下じきになっていました。
「引き出したら、お化けみたいに血を出して、おでこから骨がでててね・・・・。」
と、福地さんは、言っていました。ぼくは、
(自分の母親がそんなことになったらショック。)
と、思い、ぞっとしました。お母さんが、
「妹は?」
と、言ったので、福地さんは妹のことを思い出しました。妹は、隣の本屋で遊んでいて、ちょうどその下に防空壕があり、そこに入っていました。しかし、家がたおれて下じきになってしまいました。福地さんは、必死で家を造っていた木をどかそうとしました。しかし、複雑にからみ合ってなかなか動きません。福地さんは力の限り、引っ張りました。すると、少しだけ木が動きました。そこから妹を助け出し、やっとお父さん以外の家族三人が揃いました。ぼくは、
(火事場の馬鹿力って言う諺もあるからな。でも、三人とも生きているなんて運が良い。)
と、しみじみ思いました。福地さんはお母さんと妹を背負って逃げましたが、人を二人背負っているため殆ど動けず、いくら歩いてもなかなか進みません。途中に兵隊が二人立っていて、その人たちに、
「こっちはだめだ。戻れ。」
と、言われてしまいました。ぼくは、
(苦労してここまで歩いてきたのに。)
と、思いました。福地さんたちは、また元来た方向に歩き出しました。少し歩くと、事務の仕事をしていたらしい女子学生が、家の下じきになっていて、
「助けて~!」
と、さけんでいました。福地さんは、その女子学生も引っ張り出して、また歩き出しました。
 ぼくは、
(自分のことだけで精一杯なのに、見ず知らずの他人を助けてあげるなんて優しいな。)
と、思いました。しばらく歩くと、病院がありましたが、ドアのかぎが開かなく、困っていました。しかし、看護師の人が窓から入って薬をとってきてくれました。福地さんは、
「わたしはほかの人より気づくのが、早かったんですよ。」
と、言っていました。ぼくは、
(もっと気づくのがおそかったら、こんな体験は聞かせてもらえなかったんだな。)
と、思いました。福地さんのお母さんは、その医者に赤チンのようなものをぬってもらい、カーテンを破って包帯にしてもらいました。しかし、女子学生の方は治療の方法がないと、医者は首をふるだけでした。もう少し歩くと、1赤十字病院があり、その近くの空き地に三枚の襖で日かげを作ってお母さんたちを寝かせました。福地さんは赤十字の兵隊さんが持っていた胡瓜がどうしても欲しくなり、分けてくれないかと頼みました。すると、兵隊さんは二本分けてくれました。ぼくは、
(兵隊さんも貴重な胡瓜を二本も分けてくれるなんて優しい。)
と、思いました。また、福地さんは市電の中で脱脂綿を見つけ、お母さんたちに分けるために持っていきました。ここにいてもしょうがないので、福地さんは、お父さんがいるかもしれない疎開先へ電車で行くことを提案しました。そこで、赤十字の人から下駄を四足もらいました。
「でも、母親が、痛いからといって乗りたがらなかったんだよ。」
と、福地さんはいっていました。ぼくは、
(福地さんも、怪我をしている母の反対を押しきって乗るのは辛かったんだろうな。)
と、思いました。しかし、結局はその電車に乗って疎開先へ行き、その日は過ごしました。
 お父さんはそれ以来行方不明となっています。そのことを話すとき、福地さんは目に涙をうかべていました。しかし、お母さんは回復して、長生きしました。ぼくは、
(人の生命力はすごいなぁ。)
と、思いました。
 二十四万人もの命を奪った核兵器は、未だにアメリカや中国などで保有されています。こんな酷い兵器を二度と使わせないためには、福地さんのような体験者が次の世代、また次の世代と伝えていかなければなりません。ぼくは、この話を聞いて、改めて戦争の恐ろしさを思い知りました。福地さん、ありがとうございました。

福地さんの目からあふれるなみだ 墨田区立緑小学校   6年 館 知彦

 6月25日に福地さんの戦争体験を聞きました。福地さんの出身地は、広島で、そのころは中学3年でした。福地さんが寝ている時に、悪魔が音もなく空から降ってきて、地に着いた瞬間に爆発しました。ものすごい風圧でとばされました。でも奇跡的に、家の下じきになって、助かりました。このころ、広島に落とされた爆弾の名前は、ピカっと光ってドーンて言うのから、ピカドンと言うのになったそうです。ピカドンの温度は、8000度~10000度だったので、広島市の人は、かなり即死でした。福地さんは、お母さんを、無我夢中で探しました。そしたらお母さんが家の下じきになっていたので助けたら、母の顔が、お化けみたいで肉が、丸見えでした。でも、母には代わりはないので、なんとか応急処置をしようと、はだしで脱脂綿を探しに行きました。でもこのころの道路はアスファルトだったので、熱が伝わってあつかったので、とても歩ける状態ではありませんでした。偶然にあった電車にかけこんで、そこで、休んでいると、偶然に、座席に脱脂綿がありました。それを母のところに、持っていって、母に応急処置をしました。
 話のとちゅうに、福地さんの、目からこぼれるような涙が出てきました。その涙をみて心がきゅっとしめ付けられました。きゅっとしめ付けられる心は、前回にも体験している痛みでした。前回とは、5年生のころに聞いた、戦争体験、福田稔さんの話の時と、夏休みの宿題のとき祖母に聞いた戦争体験でした。ぼくは福地さんの戦争体験を通して、今までの戦争体験談で共通なことが、うかび上がってきました。それは、祖母も稔さんも福地さんもみんな同じ苦しみを、味わっているんだなということが・・・・・
 ぼくはこれから、戦争体験談を聞いていきたいです。それで、戦争被爆者の心が和らげるなら、うれしいです。今日本は戦争をする方向に向かっていると、福地さんは言ってくれました。また戦争を起こしたら、戦争被爆者に、2度の苦しみをあたえることになります。戦争被爆者に、2度の苦痛をあたえないためにも、ぼくは戦争に反対です。でも今の人は、戦争の話を聞いていないので、ふざけ半分でやっているのかもしれません。でも、ふざけ半分でも、やっぱり戦争反対の側についてほしいと思っています。なので、僕は、戦争には反対の人が、増えてほしいと願っています。

伝えていくことは大事 墨田区立緑小学校 6年 女子

 6月25日(土)の3,4時間目に、七十四歳になる福地義直さんに、広島の原爆のことについての話を聞きました。最初、福地さんはすわっていたのに、話をするときは立ちました。[#f130681d]
「すわって話してもいいですよ。」
 榎本先生はそう言ったのに、福地さんは、
「ああいいです。立っていた方が話しやすいので。」
と言っていました。私は、
(元気な人だなぁ。)
と思いました。広島原爆の話を始めました。
「爆心地から1200メートル先の所の自分の家にいて、その時の圧力で家がくずれました。 私と母が家の 下じきになってしまいました。私の足には、くぎと木がささっていて、それ をぬいたけど痛くありませんでした。それで必死になって『おかあさーん!』っていって呼 んで探して見つけたら、お母さんがおばけみたいだったのです。額が溶けて骨が見えて、手 や足がどろどろに溶けて・・・。私のお母さんは、とてもきれいだったんですけど、おばけ みたいでしたよ。」
と話していました。私は、福地さんの足にくぎと木がささったり、福地さんのお母さんの額の骨が見えていたり、想像しただけでもゾッとしました。そのほかにも残こくな話がたくさんありました。でも、そういう、福地さんのお母さんみたいに、すごい大けがをしているのに、気絶したりしなかったなんて、今では考えられません。だから、
(昔は心まで、まひしてしまっていたんだな。)        と思いました。それで、しばらく話を聞いていると、福地さんが泣いて、ハンカチで目をふいていました。私は、
(やっぱり、こんな残こくなことは思い出したくないよなぁ・・・。)
少し悪い気がしてきました。
 最後に『福地さんのお父さんはどうしたか?』の話を聞くと、
「私のお父さんは行方不明で、全く会っていません。」
と言っていました。
 最後に 授業参観で見に来てくれていた、大関さんのお母さん、大泉さんのお母さん、春日さんのお母さん、板東さんのお母さん、お父さん、石澤さんのお母さんにそれぞれ感想をもらいました。とくに心に残ったのが、大関さんのおばあちゃんの話でした。大関さんのおばあちゃんも三才のころ、戦争を体験したということが、とても驚きました。
 次に榎本先生の話を聞きました。そのとき、ふと気がつくと、榎本先生も泣いていて、ハンカチで目をふいていました。榎本先生も福地さんの話を聞いてとても悲しかったんだと思いました。今、少しずつ日本の国は、戦争をやりそうな感じになっています。だから、この戦争の話を伝えて、残していくことも大切だと思いました。 
 福地さん、今日はどうもありがとうございました。

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