子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

2月11日(木 )北海道綴り方連盟事件を考える

2月11日(木 )北海道綴り方連盟事件を考える

「獄中メモは問う」作文教育が罪にされた時代  佐竹直子さんが提起された問題を考える。

鈴木健治さんの執念

 墨田で長く一緒に学び合った仲間に、鈴木健治さんがいる。この理論研究会でも、何度か交流のあった人である。私が送った佐竹さんの本を一気に読み、えらく感動してくれた。そのことがきっかけで、彼は、北海道まで、3泊4日かけて、沢山の資料をコピーしたり、古本屋で関係の本を購入して、それをくわしく読んで、1冊のレポートにして私に送ってくれたのである。
 主な参考文献の中に、「綴方連盟事件」1958年(高田冨与著)や「弾圧」北海道綴方教育連盟事件」1990年(平沢是曠著)北海道新聞社が、私には貴重であった。今回この本以外に、「高田先生万華鏡」1973年(高田会)「なぎさのあしあとあ」1970年(高田冨与著)「小坂佐久馬文集」1986年私の国語人生(小坂佐久馬著)「いばらの道をふみこえて」治安維持法と教育(大槻健・寒川道夫・井野川潔著)「銃口」上下1994年(三浦綾子著・小学館)本も、鈴木健治さんから、手渡された。 
 鈴木さんは、まず「銃口」上下1994年(三浦綾子著・小学館)を読み、その本がNHKのBSで放映されたことを知り、NHKにそのビデオのことを問い合わせしている。しかし、NHKにはないことを知り、神奈川県の横浜にある「放送ライブラリー」では見られることが分かり、10月末、2日間かけて見にいってきた。というのも、1巻74分で、3巻ものだからである。そのように書かれている。

北海道に行きたかった理由

「私がどうしても北海道に行きたかったのは理由があった。あの高田弁護士が2日間、12時間にわたってどんな弁護をしたのか、ぜひ知りたいと思ったからだ。調べると、高田さんが書かれた「綴方連盟事件」という本に、そのことが出ていることが分かった。さっそく国会図書館で検索してみたが、国会図書館にはなく、札幌の中央図書館と、道立図書館にしかないことが分かった。それなら、北海道に行くしかないと思ったのである。」
(鈴木健治さんレポートより)

焼却せずに保存

 このように送ってきてくれた冊子に書かれていた。はじめは、国会図書館に行けばあるのではないかと調べて、そこにないことを知ると、さらに調べていくと、北海道の図書館にあることがわかり、そこに出向いたのである。札幌に行ってわかったことだが、その本に巡り会って、本来はなくなるはずのものが、高田弁護士の執念で残っていたのである。つまり、終戦後、司法当局から焼却指示が出されたが、焼却せずに保存し、戦後、昭和33年に出版したものである。この中には、検察官の訴えた「公訴事実」、高田弁護士の「証拠調申請」以外の全文が入っている。高田さんは、2日間、12時間にわたって弁護している。

「小学教師の有罪」が繋げたもの

 佐竹さんへの本を送ったものとして、これだけ感動し、わざわざ、北海道まで足を運んで、目的の高田冨与の「綴方連盟事件」を、自分の分と榎本のために、コピーまでしてくれたのである。今回、「弾圧」北海道綴方教育連盟事件」1990年(平沢是曠著)北海道新聞社の本も持ってきてくれた。今から20年近く前に、出版されたこの本は、「綴方教育連盟事件」の当事者が、まだ健在だったので、直接取材していることができた。その本の参考文献の中に、「小学教師の有罪」(国分一太郎著)が出ている。鈴木さんは、その本を手に入れ、一気に読んだようだ。あまりに字が小さく、びっしりと書かれた国分さんの執念を感じたと語ってくれた。

国分一太郎さんと坂本亮さん

 佐竹さんの資料には、国分さんのものがなかったが、今回の佐竹さんの講演の依頼をしたときに、何か国分さんの本で読んでおくと良いものはありませんかと問われたときに、真っ先にこの本を紹介したのである。今回の講演は、国分一太郎研究会という冠が付いていることもあり、佐竹さんは、坂本亮さんと国分さんの繋がりをかなり調べて下さって、あのような感動的な講演にしてくれたのである。その中で、記憶に残っていることは、次のような話しになったときである。

治安維持法と特定秘密保護法と似ている

「治安維持法というのは、どういう法律だったのでしょうか。皆さんの方が、くわしいと思いますが、ふり返ってみます。1925(大正14)年制定されました。これは、第1次世界大戦が終わった後ですね。戦争景気にわいた、炭鉱産業、鉄鋼産業の人たちと、農村の人たちの貧しさ、庶民の貧しさで、貧富の差が大変大きく開いていたときのことです。治安維持法は、当初は、共産党や革命的労働、農民運動を取り締まることを目的にしていましたが、1930年代に入ると、適応範囲が徐々に、教育や文化、美術、時には演劇、紙芝居、指人形、そういったものまで、治安維持法違反容疑で逮捕されるように変わっていきます。最初、治安維持法が成立するときに、国民は、治安維持法違反で縛られることを、大変反対の声が上がりました。今の時代と重なりますね。しかし、政府は、いやいや国民の皆さん安心して下さい。皆さんが心配するように、国がかってにそれは治安維持法だと決めて逮捕するようなことは、決してしません。ここに書いてあるように、共産党や革命的労働運動、農民運動を取り締まることで、決して逮捕しませんよと国会の議会の中で説明をしているんです。ところが、その3年後、緊急勅令という形で、国会審議を経ないで、政府の一存で改正できるという手法で改正します。そこで、目的遂行罪という法律を、導入します。その団体が、共産党や革命的労働団体ではなかったとしても、司法当局側が、それは共産党と同じ事をしているんだろう、革命的労働運動のようなことをしているんだろうと、国が判断すれば、逮捕できる。3年間で、あっという間に手のひらを返すように改正したんですね。私は、治安維持法を全く知らなくて、ゼロから調べ始めたんですけど、ちょうど国が特定秘密保護法の法案の審議を始めたのが、2013年の9月とちょうどタイミングがかぶっておりました。自分が勉強していることと、今の動きが全く同じように見えました。」〈佐竹さんの講演記録より2015.7.19山形〉

獄中メモの真実 

「獄中メモは、1942年6月から12月までの間に書かれたものと言われています。国分一太郎さんが逮捕されたのは、1941年10月の11日です。と言うことは、国分一太郎さんを治安維持法違反で逮捕したあとに、国分一太郎さんと繋がっている文通をしていただろうと言うことを盾に取り調べの最初で、綴方連盟は、共産主義を広げるためにやっていたんだろうと言うことが脅したことが書いてありました。そして、もう1回出てくるところがありました。ここで挙げているのは、さっき最初に言った北海道綴方教育連盟というのは、昭和10年に出来て、最初の研修会で、次の年の昭和11年8月の研修会で国分一太郎さんを講師に招いて、講習会を開いています。そのことが挙げられておりました。そこの所の獄中メモを読んでみます。昭和11年の8月の講習会で、国分が左翼的にかなり激しいことを啓蒙しておこなったとなっているが、これは佐藤君の陳述書が参考になっているものだが、あの当時の話の内容からどうしてそんな結論が導き出されたのか、今もって不可解である。坂本君にしても国分への証人尋問で。北方性は赤いこと国分は、北海道に行って赤を啓蒙したものなることをきわめてはっきり現れているが、これは全く我々の行為を無にした言葉であると思っていると書いてある。警察の取り調べでは、国分さんが、昭和11年8月の北海道綴方教育連盟の講習会で、左翼的なかなり激しいことを言ったと、共産主義を広めたと言うけれども、そうではないとこのメモを書いた方は、否しています。ここに書いています。〈佐竹さんの講演記録より2015.7.19山形〉

坂本亮さんと国分さんの深い繋がり

 講演の中で、坂本さんが国分さんとの繋がりの深かったことがわかるところがある。
「坂本亮さんが国分一太郎さんが亡くなったときに、「国分一太郎追悼」という文を書いています。この文は、坂本さんが後に、自分で書いたエッセイーを書きためたものを自費出版しまして、それが発行されたのが、1996年です。その国分一太郎追悼という文は、亡くなったときに書いたもののようです。一部を朗読させて頂きます。
 昭和11年8月札幌で開催した北海道綴方教育連盟結成の時の研究会に札幌に来ていただいたときに、初めて会ったが、この前後に国分の身の上に大きな転換が待っていた。 1963( 昭和38)年に再会したときのことを書いています。国分は、前年家業を継いでくれるはずだった弟を失い、この年の春「教室の記録」の出版がとがめられて教職を追われていた。あれこれの苦悶からノイローゼ症状に陥り、式場龍三郎の国府台病院を退院して、間もない頃である。国分とは私と映画綴り方教室を見たり、教科研の国語部会に出たりしたほか、私は多くの人々に会えて喜んだものである。その後東京で国分と会ったのは、前後して苦渋を強いられた生活綴方事件が就活した1943年、戦後の1953年の2度しかないが、私の家に何度か泊まったりしている。最後にあったのは、1979年9月末、北海道教組の講演に来た折である。国分の伝言の電話があって、会場に出かけ、石狩浜の鮭料理屋に同行した。そのときに写した何枚かのスナップ写真が残っている。浜風に乱れる国分の髪型は、どことなく孤独感が漂っている。おそらく安息の日もない、おびただしい執筆量と講演数はやはり多彩な国分にも、過剰ではなかったか。驚くばかりの大きな牛革のショルダーバッグとともに、この日の国分の印象は忘れがたい。」〈佐竹さんの講演記録より2015.7.19山形〉
 1979年に最後にあったときの国分さんの印象を、思う気持ちが書いてある。
 そして、後半のところでは、国分さんのエッセーのことを書き、追悼文の最後のところで、誰の追随も許さない見事なものばかりであったと締めくくってある。坂本さんが国分さんのことを大変尊敬して、大切に思っていると言うことが伝わってくる文章だ。
送られた本をすべて読んでみて

三浦綾子さんの「銃口」

 最初に「銃口」を読んでみた。三浦綾子さんは、北海道綴方教育連盟事件の当事者の何人かに取材をして、北森竜太という主人公にしている。坂本亮さんなどの、連盟事件に関わった人達が、健在であったので、直接弾圧の実態と取材できた。、
銃口』(上)あらすじ
 昭和元年、北森竜太は、北海道旭川の小学4年生。父親が病気のため納豆売りをする転校生中原芳子に対する担任坂部先生の温かい言葉に心打たれ、竜太は、教師になることを決意する。竜太の家は祖父の代からの質屋。日中戦争が始まった昭和12年、竜太は望んで炭鉱の町の小学校へ赴任する。生徒をいつくしみ、芳子との幸せな愛をはぐくみながら理想に燃える二人の背後に、無気味な足音……それは過酷な運命の序曲だった。
『銃口』(下)あらすじ
 昭和16年、竜太は思いもよらぬ治安維持法違反の容疑で拘留、七か月の独房生活の後、釈放された。坂部も同じ容疑で捕らえられ釈放されたもののすでに逝くなっていたことを知り慟哭。芳子や家族に支えられ、ようやく立ち直った矢先に、召集の赤紙が届く。それは芳子との結婚式の直前だった。軍隊生活、そして昭和20年8月15日終戦。満州から朝鮮への敗走中、民兵から銃口を突きつけられる。そこへ思いがけない人物が現れて助けられ、やっとの思いで祖国の土を踏む。再会した竜太と芳子にあの黒い影が消える日はいつ来るのか……。
 三浦綾子自身が軍国主義教育に何の疑いも持たなかった教師体験の反省から、「この昭和という体験は、どうしても書きのこしておきたい。戦争を二度とおこしてはならない、おこさせてはならないと、若い人たちが真剣に考えてくれれば」という願いが込められている。
 実際読んでみて、この時代に私が生きていたならば、間違いなく逮捕されたに違いない。
亮太は、再び戦後現場に復帰することができた。しかし、逮捕され裁判にかけられた、12人のメンバーは、誰一人現場に戻っていないのだが。

「銃口」にも出てくる弁護士高田富與

 この本の下巻の最初の部分に、「この事件の弁護士高田富與氏」と紹介されている。
〈このような初等教育における実践が、どうして治安維持法違反という大それた嫌疑となったのか。いかに時代とは言え、私には今持ってとうてい理解しかねるものである。(中略)されば生活教育の理論に共鳴し、生活綴方教育をひたすら児童のために実践してきた小学校の教師にとって、この犯罪の嫌疑-そして大がかりな検挙の嵐は、全く青天の霹靂であったに相違ない〉
〈北海道各地の小学校教師50数名を同様の容疑で一斉に検挙し、図書や雑誌や児童文集など山をなすほどの、いわゆる証拠物を押収した〉
〈札幌警察署をはじめ各地の警察署に留置して取り調べたが、〉その間、警察署間のいわゆるたらい回しをも行い、一人ひとり引き出しては、あるいは多数の警察官が取り囲んで暴行をあえてし、あるいは譎詐(けつさ)を弄(ろう)して自白を強要し、その自白に基く聴取書を作成して、身柄とともに検事局に送ったのである。その検挙の無謀はもおよりであるが、その取り調べは、見る人をして目を覆わしめるようなものであったらしい〉
〈この事件の捜査なり検挙なりの端緒がどうであったか、私のよく知るところではないが、〈中略〉中央検察庁の何人かが、生活教育や生活綴方教育、ことにその研究などの団体に対して、治安維持法違反の疑いを持ち、これを地方に指令したのではないかと思われ、この指令によってまず北海道綴方教育連盟に着目したのが、容疑の発端ではないかと思う。ところが中央の指令に誤られたらしく、指揮に当たった検事なり、取り調べに当たった警察官なりは、時代の主張なり、時代の教育思想なり、教育実践そのものなりに理解が乏しいなりに-というよりは理解すべき努力を欠いて、中央の指令に盲目的に追従し、自己の不勉強を顧みず、独断的に、そして無反省にこの被疑者たちを治安維持法違反の犯罪者とすべく、ひたすら努力を傾けるの愚を敢えてすることとなったと言ってよい〉
「銃口」下P30~

北森亮太のモデルではないか

「さて、その先生達は弾圧されました。こちらの先生は、土橋昭次さんと言う方で、この写真は、昭和14年に撮影しました。しかし、この1年半後、土橋さんは、この幼い娘2人と妻、お母さんの目の前で、旭川の尋常小学校に勤務していた時に逮捕されます。2年半拘留されて、独房に2ヶ月間、取り調べも何もされずに、拘留されたままにされるという。精神的な拷問を受けて、ノイローゼにおちいります。こちらは遺族の手元にあったものです。依願退職状とあります。みんな同じ日に依願退職なんですけど。昭和16年4月30日付です。土橋昭次さんは、家族に事件の大系を語っていません。でも、旭川出身の作家三浦綾子さんには語りました。小説「銃口」の取材を受けています。銃口を読んだ方は、おわかりいただけるかなと思いますが、銃口の主人公竜太は、逮捕された後、特高警察に退職状を書くように無理矢理強いられます。そして、号泣をします。やっと先生になったのに、なぜやめさせられるのか。ペンを持たされて、書かせられます。泣きながら特高警察に言われて書かされます。退職状を書いた良太の姿が浮かびました。三浦綾子さんは、複数の方をモデルにしているので、話の中のどこが誰の話なのかは、わかりません。でも土橋さんのところで、依願退職でを見たとき、小説銃口の中の部分を思いだしました。特高に言われて泣きながら書く竜太の姿がまぶたに浮かんできました。」〈佐竹さんの講演記録2015.7.19山形〉
 「銃口」は、小説であるが、戦前の治安維持法の犠牲者を取り上げたことは、三浦綾子さんの大きな仕事になった。特高に捕まり、ひどい拷問の末、最後は教師の道をたたれるところは、やはり憤りを持って読んだ。やがて、亮太は、保護観察から解放されたいがために、満州へ渡る。そこでの暮らしは、過酷であったが、やがて敗戦を迎える。生死の間を彷徨いながら、日本に戻ってくる。再び教壇に立ち、新たな気持で再出発するのだが、後半の進め方が、やや急ぎすぎのように読み取れた。

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