子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月2日(木)教科書から生活作文がなくなった

4月2日(木)教科書から生活作文がなくなった

 理論研究会の小山さんから、次会の提案の内容を添付ファイルで送ってきた。感想がほしいと書いてあったので、すぐに読み、返信することにした。
労作、ご苦労様。簡単な感想を書かせて頂く。
 現役の時、教科書に載せてある生活文は、どちらかというと参考になる程度で、ほとんど活用しなかった。作文単元があると言うことが、貴重であった。いくつかの作品を参考作品として読み合ったり、子どもたち自身が心を動かして書いてきた作品を読み合ったりして、様々な指導過程で、活用した。指導過程とは、表現意欲喚起→題材・取材→記述→推敲→鑑賞と言う日本作文の会が考え出した方法を、大切にした。したがって、教科書の作品が、子どもの作文指導に影響があったといったら、ほとんどなかったと言っておきたい。そのくらい、教科書に出てくる参考作品は、大したことはなかったのである。しかし、作文の時間が保障されたと言うことが、とても意味があったと今考えている。指導題目を設定して、書かせるとこちらが予想もしないような子どもの世界を広げてくれたのである。たとえば、「新しい学年になったときの日のことで、心に残ったことを、丁寧に思い出して書いて見よう。」などと決めて、書かせると、様々ことに子どもたちは、心揺さぶられて、書いてきたのである。「クラス替えで、仲良しの友だちと別れてしまった」「担任の先生が変わり、ビックリした」「担任が、また榎本先生で、宿題が多くてがっかり」とにかく、様々な題材を、自分で決めて書いてくる。国分さんは、「選ぶことの自由」と言うことでそこに大きな意義と価値を見いだした。卒業文章の意義を書いておられたが、全く賛成である。4点あげていたが、卒業文集でなくても、普段子どもたちが書いてくる作品でもそれは当てはまるのではないだろうか。むしろ、毎日起こる、日常生活の中での何気ない生活の中から、価値のあることを見つける子どもたちの作品を大いに認め合ったりした。子どもたちに、ものの見方・考え方を深めて見つめる積極性・能動性をクラスのみんなで励まし合いながら、一人ひとりに自信をつけたりしてきた。そういうことが、今の教科書の「書く」こと単元からは、学べないのではないだろうか。何より「題材を選べない」ことが致命的だ。子どもたちは、書く内容の強制・書く時間が保障されてない・価値観の強制と様々な障害の中で、自由に書くことが出来なくなっている。小山さんも指摘されていたが、「書きたくないことを書かされるほど、苦痛なことはない」とりあえず、今こんなことが読み取れた。
 来週から、1週間ほど、検査入院することになりました。何かあったら、携帯の方に、メールして頂くと、ありがたいです。よろしく。

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