子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月7日(木 )私の平和教育その2

4月7日(木 )私の平和教育その2

平和教育の大切さ

 33年前の第32回日本作文の会石川大会(1983年)の時に「生活綴り方と平和教育」分科会に参加し、平和教育の大切さをたくさん学んだ。その時の世話人が国分一太郎さんであった(前回少し触れた)。大会資料として、「平和・われらと世界のねがい」が二ページにわたり、世界史的な観点から、一九四五年の国連憲章前文から始まり、日本国憲法前文・教育基本法前文・世界教育憲章・児童権利宣言・ユネスコ軍縮世界大会会議の報告などが載せられていた。国分さんが、そのあらましを簡単に整理して説明してくれたことを覚えている。そこの考えを受けて、この分科会ができた経過が語られた。私は、この時初めて、平和教育の大切さを、学ぶことができ、自分の勤めている墨田区で何ができるかを自分に問い返した。それは、墨田区が東京大空襲の被害の中心地区だったので、それの掘り起こしが私の仕事の中心になるという結論にいたった。退職するまで、子どもたちに「年配の人から昔の出来事の中で、心の中に強く残った事をていねいに聞き書きしてそれを綴ってみよう。」という指導題目は、何年生を担任しても子どもに向き合わせてきた。石川大会で、分科会が終わり、国分さんが風呂敷包みに資料を重そうに持って歩いておられた。途中から私の車に乗っていただいて、宿舎まで送って行ったことも、今では懐かしい思い出になっている。

低学年からでもできる平和教育

先生から東京大くうしゅうの話を聞いたこと

墨田区立小梅小学校 一年 女子
 3月10日のことでした。三時間目の社会の時、えの本先生が、
「きょうは、何の日かしってる人。」
と、みんなに聞こえるような大きな声で言いました。わたしは、
(何の日かなあ。)
とおもったけど、お母さんにも聞いてなかったのでわかりませんでした。あらいさんと大つかさんが、手をあげました。えの本先生が、
「あらいさん。」
といって、あらいさんのところを、ひとさしゆびでさしました。あらいさんは、立ちあがって、
「はい、東京大くうしゅうの日です。」
と言いました。わたしは、
(きょうが東京大くうしゅうの日か。)
とおもいました。わたしは、東京大くうしゅうの本をよんだことをおもい出しました。えの本先生が、
「これから、東京大空しゅうのしゃしんを見せます。」
と言って、げんこうようしぐらいの大きさの白黒しゃしんを見せてくれました。
 上の方から見たすみ田くは、田んぼみたいで、草がチョコチョコとはえているみたいでした。コンクリートのほかの木のいえは、やけてぜんめつしていました。マツヤデパートのほうは、まるでむしやきみたいでした。どうろは、人げんのしたいでゴロゴロでした。えの本先生が、
「人げんのしたいが、いっぱいでも、この人たちは、へいきだったんですねえ。」
と、しゃしんにうつっているあるいていた人を見ながら言いました。
 土手のほうのすみ田川には、くうしゅうの時にとびこんだ人たちが、したいになってながれていました。赤ちゃんをおんぶしたおかあさんがにげていると中、ばくだんにあたって、赤ちゃんをおぶっていたところだけ白くなっていて、ほかはぜんぶ、まっくろになっていました。赤ちゃんもまっくろでした。きゅうにしたいのしゃしんが、アップになりました。そのとき、わたしは、むねがドキッとして、きもちわるくなって、すぐ下を向いてしまいました。みんなは、
「やだあ、きもちわるうい。」
と、ワイワイガヤガヤがうるさくなりました。えの本先生のかおは、とてもかなしそうなかおをしていました。わたしは、
(もう、せんそうなんておこるな。)
と心の中で言いました。そして、
(せんそうは、こわくておそろしいなあ。)
とおもいました。わたしが大きくなっても、せんそうは、ぜったいにおこってほしくないとおもいます。
 三じかんめがおわった十分休みに、1年1組の男の子たち十人ぐらいが、
「せんそうはんたい。ぼうりょくはんたい。せんそうはんたい。ぼうりょくはんたい。」
と大きなこえで、かた手をあげながら、1年1組のきょうしつをぐるぐるあるきまわっていました。
1983年 3月作

扱いたい平和教材

 語り部が次第にいなくなってきたら、このように絵本や、紙芝居や写真などを見せ、戦争のむごさを、子どもたちに語り継いでいくこともできる。教科書から、「平和教材」が少なくなってきている。昔は、必ず1作品は載っていたのだ。次のような作品は、読み聞かせでも、投げ込み教材でも扱うことが大事ではないだろうか。

1年生 

「トビウオのぼうやは病気です」〈いぬいとみこ著)「ねむの木のはなし」〈今西祐行)「ひろしまのピカ」(丸木俊著)

2年生

「かわいそうな像」(土家由岐雄著)「空のひつじかい」(今西祐行著)「猫は生きている」(早乙女勝元著)「ちいちゃんのかげおくり」(あまんきみこ著)

3年生

「むら1番のさくらの木」〈来栖良夫著〉「たったひとつのおかし」(市川信夫著)
「ゆみ子とつばめのおはか」(今西祐行著)

4年生

「1つの花」(今西祐行著)「いればをしたロバの話」(今西祐行著)
「八月がくるたびに」(おおえひで)

5年生

「お母さんの木」(大川悦生著) 「あるはんの木の話(今西祐行著)
「ゲンのいた谷」(長崎源之助著)

6年生

「川とのりお」(いぬいとみこ著) 「ヒロシマのうた」(今西祐行著)絵本 東京大空襲」(早乙女勝元著) 「漫画 はだしのゲン」(中沢啓治著)

中学生

「おとなになれなかったおとうとたち」(米倉 斉加年著)「火垂るの墓」(野坂昭如著)
「浮虜記」(大岡昇平著) 「夏の花」(原民喜著)「野の花は生きる」(いぬいとみこ著)
また、最近は優れたDVDなどに編集された動画もできている。

お父さんから聞いたせんそうの話   

墨田区立小梅小学校 2年 女子
 この間、おばあちゃんが来たときに、
「せんそうってとてもこわい、いやなことなんだよ。」
と言うことを聞き、わたしはお父さんに、
「せんそうのことについてお話しして。」
と言って、一週間ぐらい聞いていました。すると、お父さんは、
「せんそう、それはとてもたいへんなことだったんだよ。純子にはまだ少しむずかしいことだから、そのころ子どもだったお父さんが、今でも心にのこっていることを話してあげるよ。」
と言って、色々話してくれました。
 今から37年前、だいとうわせんそうというせんそうのおわりごろ、お父さんはみなとく赤さかにすんでいて、近くののぎ小学校に入学しました。そしてまもなくくうしゅうというとてもこわいことが、はげしくなってきました。くうしゅうとは、てきのひこうきが近くにやってきて、ばくだんとかしょういだんという花火のように明るい火の玉が、空からふってくることだそうです。だから、わたしにとっておじいちゃんのいなかに、お父さんは一人ぼっちで、そかいしたそうです。そかいとは、にぎやかな町だと、てきのひこうきにこうげきされやすいので、いなかのように山や川や田んぼが多く、あまり人のいないところにひっこすことです。お父さんは、いなかのおじさんやおばさんにとてもよくめんどうを見てもらったのですが、夜になるといなかになれていないお父さんは、自分のお父さんやお母さん、それにお父さんは四人兄弟のすえっ子なので、兄弟に会いたくて、一人でになみだが出てきてなきながらねたそうです。
 お父さんの小学校には、はねだせいきというせんそうのどうぐをつくる会社がひっこしてきていたので、高学年の人はあまりべんきょうしないで、その会社のお手つだいをさせられました。それにいえにあるてつや、くぎなどみんなひろってあつめてその学校にあるその会社にもちよったそうです。それは、ひこうきのげんりょうになるからです。
 またおべんとうばこも同じように、げんりょうになると言われて、ぜんぶのせいとが学校にもってきて、その会社にあげました。だからお父さんたちのおべんとうは、いつもおにぎりで、竹のかわにつつんでもっていきました。お父さんたちも、ときどき名前はわすれたけれども、じょうぶな長い草をつみに、学校近くの土手へいかされました。それはへいたいさんのようふくや、さかなをとるあみなどになったそうです。いなかにもだんだんくうしゅうがはげしくなり、じゅぎょうちゅうにサイレンがなり、こうていのはんたいがわに作ってあるほらあなみたいなぼうくうごうという名前のところに、かくれることが多くなってきました。
 ある日のこと「ウー。」と言うサイレンがなって、お父さんのクラスは、だいとく先生という女の先生につれられて、ぼうくうごうにかくれたときのことです。その先生は、
「しずかにしてください。」
と言ってしょくいんしつのほうにかけていきました。いつもいっしょにいてくれるのに、お父さんたちは、
(へんだな。)
と思っていたら、まもなく赤ちゃんをだいてぼうくうごうの方にかけてくるだいとく先生が見えたとたん、
「ゴーッ。」
と言う音がしたと思ったら、
「ダッダッダダダダダダ。」
とこうていの土がはねるのが見えて、だいとく先生はたおれてしまいました。お父さんたちはとてもこわくて、クラスの人たちとだきあって、しばらくじっとしていました。少しすると、こうていの方がガヤガヤして、べつの先生が、
「もう出てきていいぞ。」
と、いったので出ていってみると、だいとく先生は、せなかに大きなあながあき、まわりはちだらけでしんでいました。赤ちゃんはそばで、
「ギャーギャー。」
とないていたそうです。赤ちゃんが学校にきていたのは、だいとく先生の家は神社で、その日おまつりで先生のおばあちゃんもおじいちゃんもいそがしかったので、学校につれてこなければならないのです。お父さんたちはこうていのすみで、長いことないていたそうです。今でも学校のうらにだいとく先生のおはかがあると言っていました。それはいばらぎけんのねもと小学校のできごとです。たすかった赤ちゃんは、その先生の男の子で、今はいなかで高校の先生をやっていると、お父さんは教えてくれました。それからたべものなんかも少なくおいしいものなどたべられない、とてもいやなときだったそうです。
「代用食といってお米のかわりに、おいもやうどんこで、いろいろなものを作ったんだよ。」 
 それでおいもも、今みたいにおいしいのではなく、ガソリンいもという大きいばかりであまくないビチャビチャしたのもだったと教えてくれました。
 そのせんそうが終わったときは、一年生の夏休みで、お父さんのお父さんやお母さんが、東京の家をやかれ、いなかにきてすぐのことだったそうです。
「まだたくさんのお話をしてやりたいけど、純子がもう少し大きくなったら、もっとくわしく話してあげる。」
と、お父さんは言っていました。わたしはお父さんの話をきいて、おや兄弟とはなれなくちゃならなくなったり、びょうきでもないのに死ななければならなくなったり、食べものがなかったり、いつもこわい思いをしなくてはならないせんそうなんていやです。みんななかよくくらせるように、わたしたちががんばらなくてはいけないと思いました。
1982年 3月作 82年版「日本児童生徒文詩集」(百合出版)所収

稲敷市立根本小学校のホームページ

 今から34年近く前の作品である。今回もう一度ていねいに読んでみた。お父さんが語ってくれたねもと小学校が茨城県の何市にあるのか、はたして今でもあるのかとインターネットで調べてみた。すると稲敷市立根本小学校が出てきた。ホームページもあったので、学校の沿革と言うところを検索してみた。すると明治10年9月開校となっているので、かなり古い学校である。学制発布が明治5年に発令されているので、その5年後には開校されている。さらに沿革史を読んでいくと、次のような項目が出ていて驚いた。
 昭和20年 7月 本校訓導,大徳しん氏,機関銃射により死去。19日校葬執行。
 お父さんが語られていた話は、かなり正確に語られていたことがわかる。そのときの大徳先生がだいて助かった赤ちゃんが、この作文が書かれていたときは、いなかの高等学校の教師をされていると書かれている。1945年に赤ちゃんであるから、今お元気ならば、70才以上になられているはずである。もう退職されている年齢だ。作者のお父さんは、交流があったのであろうか。話は、次々に広がってしまう。今、この作者は、群馬県の方に住んでおられる。お父さんは、具合が悪くて、東京から引き取って一緒に住まわれていると、3年ほど前に手紙が来た。この作文が根本小学校に届けられているのだろうか。高校の教師をされていた先生の元に届いているのだろうか。そんなことまで、話は広がってしまう。この作品が書かれた34年近く前に、お父さんと相談して進めておけばよかったと後悔している。

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