子どもたちの文章表現指導を誰にでも出来る一般化理論の構築・えのさんの綴り方日記

4月7日(木)突然の訃報

4月7日(木)突然の訃報

 川越の叔母が亡くなった。92才であった。私の母と3歳違いの妹である。私の母が、昨年94才で亡くなった。あと1週間生きていれば、95才であった。我々が小中学生までは、よく行ったり来たりして、楽しんだ従兄弟がいた。川越は、私と同じ年の猛さん、3歳違いの滋さん、さらに2歳違いの恭子さんと3兄妹だった。私の方は、豊と、2歳違いの宏の2人兄妹である。特に、上2人は、ほとんど同世代であったので、良く楽しんだ思い出が残っている。一番下の恭子さんは、女の子でもあったし、年も少し離れていたので、我々の遊びの中には、入っていなかった。当時から、川越に住んでいて、今住んでいるところより、国鉄(現在のJR)川越駅から歩いて5分ほどの所に住んでいた。まだ、電気が線路には通っていなかったので、ヂィーゼル車(我々は、ガソリンカーと呼んだ。)我が家は、中学1年が終わるまでは、与野駅から歩いて10分ほどの所に住んでいた。そこには、私の母の母(祖母)も一緒に住んでいたので、毎年お盆や正月になると、母の兄妹が集まってきた。 そこで、川越の人達が、みんな集まってきたのである。そんな時に、我が家に子どもたち2人(恭子さんは、あまり泊まらなかった。)が、泊まったりして、様々な遊びをして楽しんだ。お盆は、夏休みだったので、泊まった次の日は、我々の方が、子どもだけで、川越へ泊まりに行ったりした。その当時、川越の味噌汁のあじがおいしいのを、良く覚えている。だから、泊まりに行くと、朝の味噌汁が飲めるのを楽しみにしていた。また、川越の家から割合近いところに、名栗川という川があり、我々家族と、川越の家族でそこで、1日中楽しんだりもした。一度、滋さんが川で流されて、おぼれかけたのを、助けた覚えがある。あの頃は、こんな楽しみが、唯一だったのである。 

叔父の実家、田島の思い出

 川越の叔父は、当時埼玉県の附属小学校の教師をしていた。私も、小学校3年生の途中から、途中編入で附属小学校に転校していた。その叔父の実家が、川越の「田島」と言うところで、ザリガニが一杯捕れるところであった。何回か、叔母さんに連れられて、そこに遊びに行ったりもした。大きな池があり、そこに沢山のこいなどが泳いでいたことも良く覚えている。我々より、3,4才上のお姉さんがいて、たらいの上に載って、その池の上をバランス良く櫂でこいで見せてくれた。ザリガニも沢山いて、1時間も釣っていると、バケツ1杯くらいにすぐなった。えさは、トノサマガエルを捕まえて、その皮をはいで、釣り糸を垂らすだけである。今思うと、残酷な仕方で、蛙をえさにしたものである。まだ、田島には、叔父のお母さんも元気に暮らしていた。大変やさしく、我々に接してくれたことを覚えている。

酒に強かった叔父

 その叔父は、大変酒の強い人で、酔っ払って、当時の与野の家に、時々途中で寄ったりしていた。普段は、物静かな人だったが、酒を飲むと、めっぽう人が変わったように元気を出す人だった。一度、酔っ払って、我が家に立ち寄ったときに、たまたま宿題か何かやっていたときに、私のノートを見ながら、 「こんなものが、分からないのか?」と酔った勢いで、攻められた覚えがある。私は、泣き泣き勉強した覚えがある。そのことを、何日かして、川越の叔母に話すと、ゲラゲラ笑われてしまった。懐かしい思い出である。

世話になった弟

 その叔父も、私より、弟の宏がずいぶんめんどうを見てもらった記憶がある。それは、叔父は理科を得意とする人でもあった。当時高校受験のときに、理科が苦手な弟は、毎週叔父さんが、勤めの帰りに我が家に寄ってくれて理科を中心に勉強を見てくれたのである。我が家は、附属小学校のすぐ裏に住んでいたので、叔父も帰りはすぐよれる距離であった。しかし、駅からは、歩いて20分以上かかるところに住んでいた。帰りは、夕飯を一緒に食べた後、叔父が私を自転車に乗せて、北浦和の駅まで行った。帰りは、一人で自転車に乗って我が家に帰ってきたのである。半年近くは、叔父さんは、忙しいのに、めんどうを見てくれたのである。そのおかげで、弟は、希望の高校へ合格した。頭の下がる思いである。
 我々が、高校、大学に進むと、次第に交流は前ほど多くはなくなった。やがて、それぞれ独立し、社会人になってからは、めったに会わなくなった。しかし、祖母の志満が、元気であった頃は、その祖母に会いに叔母や叔父が、会いに来てくれた。

母と川越の叔母

 この10年間くらいは、母も80代になり、途中から老人ホームに入居するようになった。入居した頃は、母も元気にそこで余生を楽しんでいた。そんな時に、川越の叔母は、時々我が家に電話してきた。「お母さん元気?」というのが、決まり文句であった。少し耳の遠くなった母の代わりに、母の様子を伝えた。1週間に、1度は、老人ホームへ出かけて、母の様子を見に行った。そんな時は、そこの老人ホームから、川越の叔母に電話をかけて、母と直接電話で話をしてもらった。母も、大部耳も遠くなってしまったので、途中から、私が代わって電話に出た。すると、まだそんなに耳は遠くなかった叔母さんの台詞は、決まっていた。「いいね、豊ちゃんは、そうやって毎週、お母さんに会いにいって、親孝行だね。」という声で、私たち親子を励ましてくれた。また、何度か政子叔母と一緒に川越まで車で行き、そのまま叔母さんを乗せて、母の老人ホームまで連れて行って、交流してもらった。かなり、母の認知が出てきて、時々昼間でもうわごとのように、「切れちゃう、切れちゃう。」と連発して言うようになった。そのことをおばさんに言うと、ぜひ一度会いたいというので、同じように連れていったことがある。叔母さんは、車椅子に乗っている母を見ながら、母の顔を抱きかかえるようにして、「稲ちゃん、かわいそうに、どうしたの?」と、子どもでもあやすように、私の母を抱きしめていたのである。その光景をそばで見ていて、私はこみ上げるものを押さえることができなかった。
 とにかく、母とは3才違いでもあったので、母も一番頼りにしていた。叔母さんもそうであったに違いない。その母が、昨年の7月になくなったときに、葬式に来てくれた叔母さんが、母の棺桶の中の顔をなぜながら、「そのうち、私もすぐ行くから。」と言って、別れの言葉としていた。まさか、そのことが、すぐに来ようとは、ゆめゆめ思わなかった。

急な胸騒ぎで

 今回、母の3番目の妹の政子叔母と大宮の「陶板浴」に出かけた帰りに、たまには川越の叔母の所に行こうかと言って、突然訪れた。いつもは、事前に連絡しておくのだが、今回は、直前に自宅にいるかどうか確かめたら、滋さんが電話に出て、「いつも暇してるから、ぜひ来て。」と言うことで、突然の訪問になった。叔母さんは、たいそう喜んでくれて、30分近く話をした。この頃、足が不自由になり、デイケアーもあまり行かなくなったと、滋さんが出てきて話をしてくれた。そこで、叔父さんのお墓の中院のしだれ桜がきれいだから、一緒に見に行こうと誘った。最初は、行きたくないと言ってもめていたが、「行かないなら、我々は帰る。」と脅したら、渋々立ち上がって、行くことになった。滋さんが、車で誘導してくれて、10分もかからない中院まで、叔母さんを乗せて車で追った。着くと、すぐに叔父さんの墓に、案内してもらった。しだれ桜が見事に咲いているそばを通って、叔父さんの墓に向かった。2,3日前に滋さんが花を生けてくれていた。3人でお参りをして、すぐに車に戻った。お昼に近かったので、そのまま、家の近くの「とんでん」に向かって、昼食を取った。叔母さんは、大変食欲もあり、黙々と食べていた。「叔母さん、食欲もあるし、あと5年は、長生きしそうだね。」というと、にっこりとして、また、食べ続けていた。その時間、1時間くらい、色々しゃべって、家に戻った。「叔母さん、やだと言ったけど、出てきて良かったんじゃあない?」というと、「そうだね。」という返事が返ってきた。30分くらい話し込んで、帰りの用があったので、「叔母さん、また来るね。」と叔母さんのほほを両手で軽く押さえながら、耳元で声をかけた。叔母さんもにこりとして、「また来てね。楽しみにしてるよ。」と言って別れた。

次の日の訃報

 次の日の朝、7時過ぎくらいに、政子叔母から電話があり、「大変なことが起きてしまったよ。川越の叔母さんが、死んじゃったよ。それも、お風呂場で。」と言う内容であった。その時、あのしだれ桜をバックに、叔母さんの最後の姿を写真にっておけばよかったと、深いため息をついて電話を切った。まさか、次の日になくなるとは、想像だにしない出来事であった。叔母さん、長いこと私たち家族のために、色々交流してくれてありがとう。安らかにお眠り下さい。天国で、母と交流して下さい。「とくちゃん、会いに来てくれたの。」と、母が大歓迎して待っているから。

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